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桜町治蹟(1)

「桜町治蹟」(下野報徳本社)明治44年発刊

 自序

 野州物井(ものゐ)桜町は二宮尊徳翁起業の地にして報徳教の生れたる霊地なり。翁の桜町興復の事蹟は最も光明ある歴史にして殊(こと)に着任当時より成田参籠に至るまで数年間における奮闘史は土地の開拓と人心の教化の2方面に向って一身を犠牲と為し渾身の精力を傾注して昼夜兼行百難を拝し黽勉(びんべん)倦まず。何ぞ、その精力の絶大にしてその精神の確乎不抜たるや宜(むべ)なるかな。大功業全く成り、荒野は変じて美田となり戸口蕃殖(ばんしょく)して炊烟(すいえん)盛んに奸民遊惰横暴無頼の徒跡を絶ち、徳化日に加わり悪風去りて質素勤倹の美風之に代わる。これ皆翁の身を以て住民に亀鑑を示され賜いしなり。翁の桜町において心血をそそげる後半生の赫々たる偉業はその旧跡と共に現時に伝われり。されど翁逝いて50有余年土木治水の遺跡のごとき近き将来において朽廃なきを保せず。いわんや物井四千石今や翁の英風を拝せしもの一人もあるものなし。同地方の遺物のまたまさに漸く世に遺られんとす。霊地在住の古老の伝説と雖ども時を経(ふ)るに従って誤りなきを保せず。いわんや偉人の事蹟は年所を経(ふ)るに従って後人(こうじん)往々之に付説を加味し、人をしてその憑依(ひょうい)する所に迷わしむ。本書中彼の思出多き報徳訓碑の傍(かたわら)に聳え翁の霊徳を万世に伝うる翠(みどり)滴(したた)る霊徳の松を紹介し巨材を以て築きたる三の宮の堰を紹介し翁の作れる桜町陣屋の客室のごとき皆実地に就き之を記述せり。
在来の書翁の質素なりしことについては衣食の二に留まりて未だかってて翁の建設し賜いし客室のいかに質素なりしかを説きしものあるを見ず。翁の客室の構造はかえって精農者に建て与えし家屋の客間より劣れり。
是もとより不肖寡聞の致す所なるべしといえども此等に類する事項は巻中特に之を詳記せり。陣屋の堤(つつみ)、庭内の田畝(でんぼ)、陣屋の桜樹(おうじゅ)何れも昔日(せきじつ)の形を止めず彼を考え此を察せば今後数百千年を経ばほとんどその遺跡の一分を存するに過ぎざるべし。翁の霊地をありのままに紹介するは翁の偉業を尊び翁の威徳を後世に伝え後人をして広く翁の徳化にうるおわんことを欲してなり。物井四千石中翁の偉業の跡相接してその資料至って豊富なり。号して二千間(げん)の長さと称する翁の開掘せし新堀川の用水は一直線に北より南に流れ、その他翁の開掘せし用水は縦横に蜘蛛状をなし耕地は碁盤のごとく整然として翁の偉業を無言に後世に遺(のこ)せり。不肖桜町陣屋に居ること三週、参拝者は翁の絶大なる功業の展開せる地点を踏み事々物々昔を偲はるゝ幾多の資料に接触せしにかかわらずこれらの偉業に対して一つの問う所なく顧みずして去らるゝは真に遺憾に堪えず。不肖浅学菲才(ひさい)偉人翁の旧跡を紹介するあえて当る所に非ずといえども時を経ると共に遺跡その形を変じ口碑誤りを伝え易し。而して一面においては翁の起業の霊地、報徳教の誕生地としてこれを小にしては物部(ものべ)村より芳賀郡(はがごおり)、ひいて野州全般に翁の人格、翁の威徳及び翁の教義を鼓吹し、野州国内は一種の異彩ある二宮主義の充実してその主義を四隣に及ぼさんとの翁の霊地を抱擁する野州国民当然の覚悟たるべし。これ急切なる必要は不肖をして僭越を顧るにいとまあらず。遺跡地における正確なる事実を本として蒐輯(しゅうしゅう)し3週日を費して稿を脱せり。文辞修飾の閑なる新事実を発現し霊地において翁の教義を鼓吹する一道の光明となり、二宮主義勃興の導火線となり、ひいて世の識者に依りて更に翁の霊地について趣味多き研究を積まれこの霊地を一層明瞭に紹介せられ二宮翁の宏大なる神殿の嘗て翁の開拓せる耕野平かに豊穣望んで際(きわ)なき沃野の中に屹立して野州の名所として日光塩原足利と併称せらるゝ時期の来るを待って止まざるなり。     野州物部村桜町陣屋において
 明治44年10月 著者  山本東野 識(しる)す

   序
近世の偉人二宮尊徳翁小田原君公の命に依りて野州物井桜町に赴任し居を桜町陣屋に占めその地の開拓に従事し具(つぶさ)に辛酸を嘗(な)め桜町及び真岡東郷に留まること30有余年の久しきに至り偉人二宮翁の活動史を飾れる後半生の波瀾起伏は悉く此の時代に在りしなり。
翁来任の当時上官の圧迫、奸民の反抗、惰民の悪風滔として物井四千石を風靡し随って築けば随って破られ数年に亘(わた)れる幾多の辛酸は偉人翁の如きに非んば到底忍ぶべからざるものなり。
況んや此の間に立って不眠不休住民の指導誘掖至らざるなく怨みに報ゆるに徳を以てし人民を懐柔してその企画を遂行す。
偉人翁の如くに非んば到底為し能(あた)わざる所のものなり。
野猪(しし)の害を除き荒地を開墾して良田を作り水利を図りては灌漑を便にし排水を湿地に設け田畝(でんぼ)を開き交通に治水に民舎の団体的移転等において至便至利なる施設に基き総て実際的農業本位を以て根本と為し来れり。
翁の耕地を整理するや、その設計の画一にして規模の広大なる真に後世農政家の依て以て範と為すべきもの多し。
その道徳の方面に至りては質素勤倹分度推譲等身を以て之を示し凶歳積穀法を設け飢饉の厄を免れしめ延(ひ)いて他地方の窮民を救助し貯蓄を奨(すす)めて事業発展の資に供しその人を訓誨する卑近の例を取って平易に之を諭す。
遠近翁の仕法に則り翁の徳を慕いてその門下に集まるもの百人に上れり。
翁の徳化の及ぶ所深くしてかつ大なりというべし。
余職に此の郡に在ること久しく翁の興復せし物井四千石を過ぐるごとに翁の勧農政策の上において風教改善の上において著しき成功を為せしことを追想して止まず。
常にこの翁の起業の地における大功業を成就せし旧蹟、報徳教の生まれし霊地につき記述の少なきを遺憾とせり。
然るに今や本書の成る。
誠に余の心を得たりというべし。
想うに本書に依りて翁の治蹟を発揮し報徳の趣旨を一層普及せしめ一面においては殖産興業の必須なることを切実に感ぜしむるや必せり。
即ち所懐を述べて序と為す。

  明治44年10月

    芳賀郡長 青木浦次郎

【1】野州桜町陣屋の位置

【2】桜町陣屋の翠松(すいしょう)


【3】報徳訓の一大石碑、【4】翁の永住された陣屋跡

【5】足洗池
邸内の大部分は畑となり、母屋の半分と足洗の池というて翁の足を洗って家に上がったという池がある。井戸2つあったそうであるが、一つは埋めてその上に柿の樹が植わっておる。一つは翁の用いた井戸がそのまま残っておる。水質も極めて良く水の表面までは2間ぐらいである。この井戸は翁の門人百人以上のおった時分の飲料水であった。母屋は面13間、奥行4間即ち52坪の長方形の草葺平屋で是に玄関2ヶ所あって、別に便所湯殿が接続して建っておるが、客室だけは翁の時に増築したのである。室(へや)の数は以前は11,2あったが、今は玄関から客室の方、都合6室だけ残っておる。そこには上段8畳の間が今は平屋となって、その縁側に4畳、次の10畳が翁のおったので縁側に5畳がある。その外に6畳の用人部屋と4畳半の玄関受付のあと是だけが今存在する。

【6】元禄年間の建築
 ここに翁の同僚横山周平の嗣子で後年翁の後継者となって任務を引き受けられた平太の未亡人静子刀自(とじ)(明治44年73歳)というのがおる。是は翁の没後2年に江戸から縁附かれたので、後任者の夫人だけに頗(すこぶ)る旧事を知っておられた。この陣屋の建物は元禄12年の建築で200余年無事に過ぎておるので、明治維新の際に土地・家屋共に一応返上したが、御用人の縁故にて同家屋に居住せし故、土地家屋とも後払い下げをして横山平太の家族が住居したということである。翁の赴任の頃は母屋の前面に附属建物が2棟ありて村役人の詰所と建築工事場その他数室に分かれておったが、今は全く何もない。

【7】報徳神社、【8】陣屋の内部

【9】蓮城院

【10】桜町の沿革

【11】桜町の衰退の極

【12】翁桜町興復の任に選ばる

【13】翁意を決して来任す
 翁は文政5年3月桜町興復の命を受けて村柄取直し10ヶ年御仕切書を小田原侯より渡され、翁はその請書として同時に出されてある。翁はいよいよ自分の抱負を実行することになって文政5年9月6日に名主格をもって武田才兵衛と同道して勤番として赴任された。当地には勝俣小兵衛なるもの居りて3人共に勤番として勤めることとなった。翌7日3人共に村内を巡視して同9日に3ヶ村小百姓のうち出精の者どもを小前一統に入札させて14名の高札者に鍬鎌等の賞品を授与せり。同11日翁は一人帰藩した。そこで所有の田地1町8反歩を売却して興復の仕法土台金と為しまた文政6年3月12日先祖伝来の家財道具一切を売却して6両の金を得て一家を潰し、住み慣れた故郷を跡として小田原の領地桜町興復の大任を帯びて赴任の途に上ったのであるが、翁は郷里を発するの前に祖先の墓前にひざまづき祖先に誓言して言うには「今回の桜町復興の大事業を遂行することは一は君命のため一は国家のため赴くことであって祖先祭祀を断つようになることは誠に恐れ多い次第であるからひとえに恕して戴きたい、爾今(じこん)誓って粉骨砕身してこの大任を完うす」と固く決心を為せしこと、実に翁の心中を察せば一掬(きく)同情の血涙をそそがざるを得ぬのである。翁はかくて祖先の墓地に誓って家に帰り妻に言って曰く、「予は今より君命を奉じて桜町興復の大業に当らんとす事固より容易の事にあらず。身命を賭(と)して之に当る幾辛酸の襲来は辞する所でない、汝この非常なる艱難に堪えることあたわずんばよろしく去るべし」と語りしかば、夫人は襟を正うして曰く「妾(わらわ)一旦良夫(おっと)に嫁す。たとえいかなる艱難に遭遇し水火の苦といえども固より辞する所にあらず」と固く取って従わんことを請うてやまず。翁もまたその決意を喜びその言をいれ一子弥太郎を携え一家3人故郷を去りて桜町に着せしは文政6年3月29日であった。

【14】宇津家賄費のこと
 翁は文政5年より向う10ヶ年は貢米(こうまい)のうち1,005俵余と畑方金127両余とそらまめ・大豆石代金並びにその中間金17両余を年々宇津家に上納し貢税の残余は開墾費として引き受けてその仕法に従事された。

【15】水帳の発見
 翁は文政6年家族を引き連れて来りたるに桜町興復に必要なる水帳を求めたるが行方不明であって困難をしていた。時に物井本田坪に藤蔵(とうぞう)という人があった。当家は寛文の頃名主の家であって自分がかって分家する頃その帳簿の写しを持って分れたので、之を翁が見て之を得れば大層力になると思い、藤蔵は貧困である故極貧しのぎにと代金1分2朱を渡しその水帳6冊を購(あがな)い求めこの水帳によって仕法をなすことを得るようになった、翁の事業をなすにはまず分度を立てるのでそれは過去10年間の平均を見積ってそれより分度を立てるので分度の図は次のようである。

              今日の為
          経営  今月の為  (日用交際教育費の類)
              今年の為
       分内     吉凶の為
          臨時  不慮の為  (冠婚葬祭予備の類)
              補足の為
 天分―分度―
              来年の為
          自譲  わが身の為 (永続積立非常備蓄の類)
              子孫の為
       度外     人の為
          他譲  村の為   (寄付救助貸付の類)
              国の為

【16】翁の根本的開拓法
 翁の開拓法として村民に施行されたおは次の方法である。即ち一は黽勉(びんべん)施行挙直奨励法、二は無利子金施回(しかい)貸付法、三は報徳日課積金法であって、一黽勉施行挙直奨励法というのは勤勉力行するものを挙げて奨励する方法である。そこで第二の無利子金施回貸付法というのは、つまり第三の報徳日課積金法というのは総百姓軒別日課縄一日一軒に付き一房づつ勉強してない出せば一房の銭を5文としても一村合縄(ごうじょう)29房とすると是は一部落を29軒と仮定したのであるが、そうするとその代金が149文となって1ヶ月に付き870房代金2分2朱銭466文一ヶ年に1万440房この代金8両1分銭748文の余沢を生じて願い求めないで天より下り来るがごとくまた地より湧き出すがごとし。自ら集まり来って自らその家を潤すこと眼前疑いなし。是は女子にても子供にても行うことができるのである。こういうふうにして積立金を預かっておいて之にて家を作ったりまた金の必要なものにはこの金を貸したのである。勉強しても金の無いものには無利子金施回貸付法をもって貸したのでその方法は5ヶ年間に毎年借金の5分の1ずつ返して行って6年目に謝恩金としてやはり一ヶ年分だけ余分に返すものである。
翁はこの開拓方法を物井3ヶ村に施行したのである。
現下野報徳本社長広沢平八氏の言われるには貸付金の方法としては出精百姓に奨励法として貸し付けたので何ほど要求しても遊惰の百姓には貸さなかった。
同氏の故老母の言われたのには「彼の人は報徳金の拝借の出来ない人であるといえばその人は出精百姓でもなく評判のよくない」ということを意味されておったのである。

【17】翁赴任当時村民の反抗
 翁は赴任当時在住の農民と設計を為しつつ鍬を手にしモッコを肩にして開墾を奨励せられた。
翁は風雨寒暑を問わず毎日未明に出発して村民の勤怠貧富の状態を調査して精勤者は之を賞し怠惰者は説諭し又は之を叱(しっ)し、民家に立ち寄れば野菜その他蒔き付くべき種物の適否及び肥料の良否を実地検査し働くものの人数を調べ、香の物と味噌が不足のようでは一家の生計に立て難いのである。いつも手すきの時は縄をない又は糸をつむげということを説いて歩かれたが、奸民及び上役の反抗等甚だしくして予期の成績を得ることは思いもよらなかった。

【18】翁の夜間密行的視察
 翁は夜間に密行的に視察をして歩かれて誰にも知れないように3ヶ村を廻ったものである。
そうしておるうちに家庭にて円満であるとかあるいは何か変わったことはないかと先ずこっそりと視察をして諸所を歩いて喧嘩をでもして家庭不和合の有様を知れば甚だ心苦しく感じたが、また家内中ニコニコしておった時には非常に喜んで帰られたということである。
ある晩のごときは夫婦して借金のために夜逃げをしようということを相談しておった。
日頃の精励者であるから翁は気の毒に思い翌朝之を呼んで「お前はネギ作りが上手であるということであるが陣屋にネギを作ってくれ。」
ネギ作代としてその入用の金だけやったところが、非常に喜んで夜逃げもせずにいることができて、その後はますます勉強して物井村にても模範の人となったということである。

【19】荒地開墾と戸口増殖
 翁は荒地の開墾をするに先ず開墾後の耕地と農家の遠近をよく視察し、開墾地にして第1開墾地に相当する農家の新設屋敷を配置し、第2は耕地と農家の通路を開き、第3に用水灌漑のかけひきをよく考察して水利を開きそれから荒地開墾に着手をしました。
翁は3ヶ村の人口戸数を増加するという目的で小田原の自分の身寄りの百姓万兵衛弥兵衛等をつれ来り、また越後加賀その他の方面より人を移住せしめたものもあり、又右の地方より進んで来たものがあってこれらの土着したものを入百姓と称しておって、例えば仮屋及び耕器を給し、種穀を分ちまたかねて徴発せし藁を一人ごとに給し一戸5人なれば5人分というごとくに給して夜業として縄をなわしめ身たけにない、整えば必ず陣屋に持ち来たらしめ一々検査し貯え置き最後にその賞として相当代金の幾分を与え、幾分を貯金させて家作等を為さしめた。又耕作水利交通に便利なる所に団体的に転宅を為さしめ、又その屋敷は一定して間口15間奥行30間と定めて区画が立ててあったからいずれの屋敷も画一であった。しかし入百姓とて不正の行為あるときは、ここより追い払われてこの土に止まることを得ず、又逃亡して他に出ずる者もありて必ずしも一定してここにおらなかった者もある。土着の農家にして交通遠いために農業に不便の者及び次男三男を分家させ入百姓と同様に農具種穀を給し新設宅地に団体的転宅を為さしめた。新設宅地の分布は次の如くである。
物井15坪の中にて桜町の一部、向原の一部を除き他は全部、白銀(しろがね)の一部、谷近(たにちか)の一部、上物井の一部、小樋尻(こひじり)の全部であって、横田にては7坪の中目貫島(めぬきしま)の全部、中島の全部、本田の一部、平田内の一部、新田の一部にして又東沼の6坪の中、沼尻の一部、境の全部、馬場の一部、谷中の一部である。
翁が農家と田畑の交通が土地の盛衰に関係することの大なるを非常に考慮したのであるが、その土地の愚民は田畑の中に新たに屋敷を設くることは将来樹木が生え立ったら樹木の蔭を生じて田畑に害を為すであろうといって反対したのであるが、今日になって見ると交通の便を得ているので翁の恩恵であるといって非常に喜んでおった。

【20】中野政吉へ教訓
 翁は中野政吉の家で一家の者にこういうことを言った。
人の一生の仕事を1ヶ年の農業とすれば20より60までを四季に分けて30までを春としこの時代は充分に農業の準備の時代で、40までを夏としこの時代は蒔き仕つけ炎天と戦い奮闘の時代で、50までを秋としこの時代は夏の奮闘の結果収穫に近づいたこの時代が最も危険な時代である。
農事であれば暴風雨その他の障害のある時代である。
50と60との間は収穫の時代でまた来年のお正月の準備の時代である。
それに60以上になっていまだ貯蓄一方の人は正月になって正月をしないようなもので、誠に世間並みでなくなるかたよくその配当を考えて一生を過らないようにして丹精すれば人に笑われるようなことはない。
 翁は桜町着任の当時物井の政吉は百姓総代を勤めておって翁に随身者の一人であった。
同家にては農業の外に水車業を営んでおった。
業務に丹精をしておりました同人は子福者であって5男3女を挙げておった、翁より将来は分家してと言われましたから開墾を沢山したのである。
長男の伊左衛門は天保11子年本田坪へ家屋を新築して戴きまして分家した、次男米吉は安政6年に分家いたしました。
そうしてその後文政未(ひつじ)年に農業に勉強したものであるから賞状を受けました。

【21】凶歳積穀法
 翁は年(とし)の豊凶は天にあって人にあらず、土地の貧富は人にあって天にあらずということを言われて常に凶歳のために備えておってその災厄を免れしめることにした。
それは分度外のものを積み立てて置くのですなわち推譲して危急を救うことを着任早々熱心に説かれてまたこれを実行されたのである。

【22】翁の人夫使役法
 桜町における開墾の当時人夫の使役方法は苗代前には一人につき200文、苗代後には250文である。
200文といえば当時米3升が買えたのであるから250文といえば今日の相場の60銭内外に当っている。
ことに珍しきことは自ら出張して開墾を検分する時には更に50文づつを増し銭として与えた。
人怪しんでその故を問えば翁が検分する時には人々が骨を折って格別に働くからであると言った。
もし予が出てくるのを人々が嫌うようではよろしからぬというて与えたそうである。

【23】猪狩(いのししがり)を為す
 古老の談によると桜町の一村横田村のごとき猪が多く出て野を荒らしたので毎夜数頭を殺したということである。
それで翁は鉄砲を物井に3挺、横田に1挺、東沼に2挺も配布されて猪狩(ししかり)をした。
これをもって見てもその荒敗を察することが出来る。

【24】猪狩(ししかり)の中止
 開墾もやや進んでからのことであった。
陣屋の近所に稲荷があってそこに猪が子を倦んでいたのを見て部下の者がある夜相談をして明朝石で殺そうとした。
翁は巡回の途次之を立ち聞きされて万兵衛を呼んで猪狩は中止しなさい、怪我をしないようにしてくれ、猪を追い払うには沢山開墾するに限る。
開墾が進めば猪は自然と逃げるからやたらに危険のことをせぬ方がよいと言われた。

【25】翁の除草と回復事業
 常に農民に語って言うには、畑の草はなるべく小さい草から取れ、余り多く生えておらぬ所から取れと言われこれとは反対に多く生えた所から始め時日(じじ)を費やすうちに小さい草が大きくなると言われた。
翁が回復の事業をなすにもこの筆法であってまず小さな平易なる所から始めて大なるむつかしき所の仕法をしたということである翁の除草の仕方と回復事業のやり方がよく似ている。

【26】翁の実物教育
 翁はただ空想的に理屈がましいことは言わないで常に実地について諭された。
これは一個人についても難村を興復することにおいても同じことであって一つの事件が起こるとその事件を捕えて自己の思う所を述べよく天地の道理までも説かれたので翁の教訓に勢力の充分あったのはこの故であろう。
青年を教授するのもこの方法であったのである。

【27】耕作の仕方を教う
 翁は赴任当時開墾の設計をしつつ万事自ら率いておって自分から鍬を手にし開墾をした。
ある日多数の人夫が堀浚いをしておる時に人夫が泥を掛けようとして一鍬ごとに泥がはねていかない。
翁はこれを見て素足になって鍬を取って上の方の泥をすくいて左右にならしてその後を掘ると少しも泥がはねないようになった。
そういう具合に自ら手を下して耕作の仕方を教えたのである。

【28】村民の勤怠を視察す
 翁は桜町へ来た当時から雨が降っても風が吹いてもついぞ一日も欠かすことなく、村民の勤怠を視察されて巡回をして夜の明けないうちに出発をして梅干に握り飯を携えて歩かれた。
それでどこの家は早起きであるどこの家は勤勉家であるということを知ってそういう家や成功しておる家は褒めて一方には惰弱の風(ふう)を矯め直されたので自然と早起きになって働くようになったということである。
翁の早起きには村民はいずれも驚かされておった。

【29】翁(おう)の巡回の本趣旨
 翁は常に門人に語っていふには、
「私の巡回の趣旨といふのは全く村民の勉強の習慣を附けさせたいといふ趣旨から来て居るのである。之を譬へて見れば椀(わん)の中に箸(はし)を入れて廻(ま)はして居ると始めの中(うち)は箸のみ廻って居って水は其侭(そのまま)であるが、暫くすると水も廻(まわ)り始め水の廻る勢(いきおい)が段々強くなるに従って箸は廻はさなくても自然と水の勢の為(た)めに箸を廻はすやうになる。
私の巡回の趣旨も其(その)通りであって、始めは村民は惰弱の者があっても自然と感化されて勤めるやうになるのであるから早起きをして巡回をするのである」と言われた。

【30】勤倹主義を鼓吹す
 翁は常に勤倹主義を鼓吹しておって平易に村民に説き聞かせたのである。
それでこういう歌を詠まれておる。
  飯と汁、木綿着物は身を助く
   その他のものは我を攻むなり
 一汁一菜で木綿服を着て勉強をすれば必ず成功をして立派なる村民となることができるがさもなかった時は、失敗をしてしまうからよくよく注意をせいと諄々と説いて、例の暇があったら男に縄をなえ、女に糸をつむげと勧めておられた。
 
【31】盥(たらい)の教訓
 翁は実物教授の主義でどこでも説かれたので推譲の理屈なども何人にも分かるように話された。
人夫などが仕事の休みなどには盥に水を酌(く)んで置いてその水を前の方にばかりかいて見よ。
幾ら汗水を流して前へかいてもかいてもその水は向うに行ってしまう。
しかしこれと反対にこの水を向うにばかり押すというと幾ら押しても押しても帰って来るばかりである。
欲が深く自分の方にばかりかきこんでそう自分の方にばかり来るものでないと言って開墾事業の視察に行っては実物について話された。
之は盥の教訓と言われて名高い話である。

【32】壁の教訓
 翁着任後2,3年を経し時、一子弥太郎5,6歳の時であった。
ある時左官を呼び陣屋の壁を塗りおりし、弥太郎は子ども心にその壁の所を通り抜けんとせしに乳母は通れぬことを話したけれども、なかなか承知をしない。
翁はそこにおってそんならば通してやろうと左官に壁を破らせて通らせたら弥太郎は大いに喜んだ。
それから左官に壁を作らせて一方には弥太郎を膝下に呼び寄せてこういう所は通る所ではない。通るべからざる所を通るのは人のすべきことではない。
左官もおるから破った壁をつくろえるし怪我もなくすんだけれども、さもなければ怪我を受けるであろうから決してこういう通るべからざる所は通ってはならぬと誡められた翁の感化の方面においてすべて始めはそのものに満足を与えてやって、そうして後に諄々と躾(しつ)けたこの子どもの躾け方にそばにおりし同役横山周平という人は痛く翁の心の躾け上について注意深きことに感ぜられておった。

【33】翁は子どもを愛す
 翁はみだりに子どもを叱るようなことはないばかりでなくよく愛された。
一子弥太郎は翁や同僚周平氏の家におられた時は翁の膝の上に上がったり翁のそばに行ったり児戯を致して寝転んだりしておりましても之を叱りつけるようなことはなく、私は子どもは好きだからそうちょっとしたくらいのことでは叱らないというて追々躾けられた。
ことに翁は毎日朝は早く家を出て夜は遅く帰るということであるからほとんど子どもの生長のことも実は知らなかったくらいで、家庭の教育は夫人にまかされておったのであるが、仕事の都合で陣屋におらるる時は稀に子どもの顔を見るような訳で愛情が一層深くちょっと陣屋におられてもよく子どもの躾け方には注意されて愛情を注がれて善い方へ導かれた。
決して烈しく子どもを叱りつけるというようなやり方はしなかった。

【34】反古紙の教訓
 勤倹の主義は実に細かな所まで届いておってその所を得たものである。
帳面の上紙とか長く保存さるるものは常陸の国でできる丈夫な程村という西の内のような紙を用いた。
その外の書類は表にも裏にも書かれた。
封筒のようなものは大抵一旦使った紙でつくろったのであるから自然と裏面まで書かれたのである。
しかし皆どんな所でも反故紙のようなものを用いたかといえばかえって人の意表に出ずるようなことを言われた。
それは反古紙の教訓と言われているが、台所のような食物を調理する所では成るたけ場所を清潔にして陰気でないようにさっぱりとしなければならぬから、明るくするように白紙の方がよい、かえって書院のような所こそ反故紙の方が実用向きによいといって説かれたが、台所にまでも衛生思想を及ぼされたのである。

【35】翁は青年教訓に力を用う
 翁は桜町青年の5,6名ぐらい寄り集まっておる時に諭して言われたことがある。
世間の人は一銭の柿を買うにも2銭ぐらいの梨を買うにも真頭(あたま)の真直ぐなる瑕(きず)のないものを選り取るのである。
茶碗を一つ買うにもいろいろ注意して買うような訳であるから己の身に瑕があっては人の取らぬのは勿論のことであるが、己れの身に瑕がありながら上のものに採用されぬからというて人を咎むるのは大なる間違いである。
人には酒が好きとか放蕩とか勝負事とか惰弱とか何かよくない習慣のあるもので一つ二つの瑕はあるものであるからそれを矯(た)めるように気をつけて自分の思うように用いられぬからとて不平のことをいうものではない。
草深き山中にも山芋(いも)があれば人は直ぐに見付けて捨てて置きませぬ。
又泥深き水中におる鰻・ドジョウも人に見付けられて得られるのである。
内に誠さえあれば外に顕れぬとという道理はないからよく注意して身の瑕のないように内に誠のあるようにと心がけよと言われた。

【36】一人の慈善と多勢の慈善
 翁は陰徳家であったからその慈善を自分で長く記憶して返報を得ようなどという心はない。
それでかえって多勢組んで慈善をやれば自分一人で慈善をしたという我がという心がなくなるようになるから報徳社のような組合で慈善をやった方がよいと言われた。
団体でやれば自分が恩に掛けるという心が少なくなる。
団体ならば自然と陰徳を施すようになるからこの方の慈善をも奨励せられたのである。

【37】精勤者に適切なる賞品を与えしこと
 翁は出精人に賞与品を与えてますます奨励された。
鍬鎌等を与えたこともあれば今日でいえば褒状を与えることもあるし、又弁当箱を与えられた。その弁当箱はその時分の江戸へ注文をした。
ある時江戸へ注文をして11個の弁当箱が届いてそれを物井の開墾の出精人猪野重吉(猪野仁平の先祖)その他のものに与えた。
至極丈夫一式にできた弁当箱である。
鍬の方は現存するものは甚だ少ないので単に唐鍬の一種だけ残っておる。
物部村現村長広沢平八氏の調べによると長さ9寸5分刃先5寸5分にて量無は850匁で現今のものの形の2倍かもしくは3倍の量がある。
当時の人がこれを用いて開墾されたということはその力量の程も察せられる。

【38】翁の賞与された弁当箱
 弁当箱は現村長広沢平八氏の宅を訪うてその実物を見たが、是は眼前に同行の現物井学校長笠村勝三郎氏もおられて見たもので飯は7合炊きの分量が入る。
長さ7寸深さ3寸8分懸籠(かけご)は箸入れと菜を取れる所とが仕切られてある、こういうものに一杯詰めて働かれたとあれば随分出精人の身体は丈夫であったということが分かる。

【39】宗教家に講話せしむ
 翁は村民を指導して開墾を奨励したが却って人民は心服するということにまで行かないで、性質も剽悍のものもあれば遊惰のものもあり奸民相党して翁に反感を懐いておったことは着任当時とそう大した変わりはなく、ほとんど困ってしまった。
翁はここにおいて宗教家を頼んで村民を適当の所に集めて説教をして人心を柔らげて乱暴をせぬように人の人たる道や開墾の事業に熱心になるように説かしめたけれどもそれらぐらいでは奸民の精神は一朝一夕にては矯正されるものではないと見え、さっぱりその効果というものは見えなかったので、翁は日夜心を痛めて村民の人心緩和に心を尽されたことも水泡同様の有様であったということは実に翁に対しては気の毒の次第である。
しかし翁の心は金鉄のごとき手を変え品を代えてその精神の貫徹を期さるというので一刻たりともたゆみ屈するということがなかった。
当時翁の境涯というものはその所思を実行することができず随って計画すれば随って破られ翁の千思万考もいかんともすることができなかった。

【40】翁反抗の中(うち)に平然所思を断行す
 翁は一日として開墾の事業に心を挫かぬことなく、人夫を督励して荒地を開拓し道路を開鑿(かいさく)しあるいは改修に着手はしたものの、なお上役の干渉圧迫もあったり奸悪なる村民の反抗などがあって、到底思うように実行ができない。
それがために着任3年を経過しても耕地開発も思わしくなかった。
文政の9年に上役のもの2名免官となって翁はこの年に長官ということに抜擢されて士籍に列し、やや自由に活動ができるようになった。
同年に相談役として小田原より横田周平が赴かれたがこの人は病気がちでありかつその上に熱心に翁の事業に尽されたからどうしても身体に無理を生じて充分に活動することもできなかったのであるが、翁は同氏の尽力されたことを非常に楽しまれ股肱(ここう)として万事腹蔵なく事業を共にせられたのはよろしかったが、ここにまた翁の身に取って困ったことが生じた。
それは文政10年に豊田正作(せいさく)という奸悪なる勤番が小田原から来たことである。
彼は百姓上りの二宮が桜町に来て興復を図るなどということは我々武士の面目を潰すものであるというような権幕で他の下役の属吏や奸民と一緒になって翁の開墾の事業について片っ端から反対をしたのである。
翁の行って行く所を跡から破壊していくという始末であるが翁は暴を以て暴に迎えるということは性質としてそれはしなかった。
ただ開墾一点張りで毎日毎日田野に出て指導して一方には彼らに対して種々ご馳走をして懐柔の策を講ぜられておったが是とても思うようにゆかず、入百姓の移住民も困(くるし)められて一夜に13戸80人余も去ったということであるから属吏奸民の乱暴が甚だしかったことが分かる。
奸民は属吏を我が味方として小田原公に讒訴するに至った。

【41】翁は怨に報ゆるに徳を以てす
 ここにおいて属吏奸民と翁とは小田原公の面前においてその善悪と対決せねばならぬことになった。
小田原公の明智固よりその事情を知っておることであるからすこぶる翁に同情を寄せられたということは勿論であろう。
翁はかく讒訴されたのであるが、却って己の不徳を省みて罪を己の不徳に帰して讒訴者の心裡は固より、桜町の人民のことを思うて讒訴するのでさればそう心の底から悪い感情を以て一私人の我を怨むということでないと、却って讒者を庇護するような有様で相手の方でも翁のその徳の厚きことに感ぜぬものとてなく敬服したということである。

【42】翁上申書を奉る
 文政11年4月に至り流石(さすが)精神堅固なる翁も一難去れば一難又来り内外皆敵にして数年の苦痛も水泡同然何の効果もなきことかとつくづくと物案じ、なおこの上に所信を断行してやったからとて恐らくは興復の事業は覚束なかろう寧ろこの際に勤番の役を辞して暫く身心を静養し、鋭気を百倍して君公の命を安んじ奉らんとの意思を認め小田原公に奉れり。
公は之を見て翁の心中は察するに余りあるもこの際この事業に対し翁を置きては又と他にその適任者を見ぬ故に固より聴くべくもあらず。
翁はここに至りて殆ど身を処するに困(くるし)みたり。
興復の業を図らんとすれば属吏奸民の反抗甚だしく冠を掛けて静養し徐(おもむ)ろに事を講ぜんとせば君公之を許さず。
いわんやこの大業を思い止まるという如きは君公の命に背きかつは祖先への誓約もあることにて進退全くきわまりたり。
当時翁の心中千々に心を砕ける様不眠不休に事に当りてすらなおこの如くなるより翁はより以上いかなる手段を以て今後の身を処しこの大事業を遂行すべきか、けだし断腸の思いであったということは察せられる。

【43】翁一夜飄然として去る行く所を知る者なし
 非常なる事業を遂行するには非常なる決心なかるべからず、翁の7年間の水火の戦い火花を散らす戦場とごうも異なる所はない。
しかも一時の戦場でなく数年にわたっておる。
もし翁の身体が蒲柳(ほりゅう)の質であったならばいかに智勇絶倫の方であってもこういう荒野におって衛生設備のない所で風雨寒暑にあらわるるごとく健全なる精神を貯えて置く所の至って堅牢なる金鉄の身体であった。
翁の成功はこの金鉄のごとき身体が一層翁を励まし同僚を感化し奸民を改悛せしめ大なる拓殖の事業を成功し、終には最後の勝利の名誉を我が頭上に持ち来たされたということは一は誠心誠意之に当たるので神霊の感あって之を冥々の中に加護せられて神護によりてなされたかのごとく思わるるまで化育の効が顕われておるが、かくまで成功の域に達するに至ったのは翁のこの四面において便るの人なき、ただこの百錬の鉄の如く鍛え上げられたる身体が翁を成功の域に進ましめ最後の凱歌を奏させるようになったのであるかかる身体とかかる自信力とを以て慈悲深きこと海の如き翁はかく困厄の際において非常なる決心を為されたことは固より当然のことであろうと察せられる。

【44】百方捜索行方更に不明なり
 翁の飄然として陣屋を去った翌日からというものは大した騒ぎになった。
どこにお出でになったのであろうどうしたのであろうと揣摩(しま)臆説疑団百出という有様でとんと取り止めもない、家人養子すら本藩の方へ向けてその捜索にひたすら全力をそそがれて仕事はできぬければ、昼夜の捜索ということで安眠もできない仕末であったそうである。
けれども何日を経るも更に確たる在家を知るものなく望みは全く絶えて捜索の使者も手の附くべき手段とてもなく手をこまねいて何れ風の便りの来るのを待つより仕方なきに至った。
出精百姓を始めとして耕作するもの開墾するものも仕事などは手につく所でなくこれまで非常なる恩恵をこうむっておるものはあたかも慈母を失ったような訳で意気消沈して憂いに沈んでおる。
属吏奸民共はこの時こそは我々の勝利である思う存分に翁の事業を破壊してこっちの思い通りにしようと酒を飲み歌を歌って安逸の仕放題であった。
かくの如きであったからもしこの有様で行ったならば再び翁の赴任前のように状態に陥りはしたいかと人心は安堵することができなかった。

【45】成田山に参籠して三七日の断食す
 翁は日頃成田山不動尊を深く尊信し我が期待せし精神は仮令いかなる災禍に遭うも困難に会するも決して動かぬことは、不動尊の火中に泰然自若たる如きであると確信されて不動尊に帰依されておったのであるから質素ななりをなして成田山に出かけて境内の小川屋旅館に投じた。
主人はその容貌の常でないのを見ていぶかって居所姓名を聴いた所が翁の言うには小田原の某というものであるというて懐中より70金を出して託した。
ところがこの扮装で以てかかる大金を有するということは判らぬから旅宿を断ろうとした。
どうも混雑しておりますからお断りいたしますと翁の前に至ってひざまずいて説いたのである。
翁の言うには一旦承諾をして今更断るということは何事ぞ、余は心願があって来たものであると眼光けいけい人を射る。
主人は大いに恐れて謝して宿泊を乞うたということである。
それでも安心ができないからわざわざ人を江戸にやって小田原藩の御方でこういう方がありますか私共に宿(とま)っておるのでありますが、どうか否やを知らして戴きたいということであった。
それを聴いた小田原藩の人が言わるるにはそれは二宮という御方であります。決して粗略のことのないように丁重に世話をしてくれということでありました。
使者は之を旅館の主人に復命をすると主人は聴いて驚いて非常に丁重に扱われて御待遇を申し上げておった。
翁は斎戒沐浴して成田山に参籠して専心一意不動尊に祈願して己の不徳にて未だ村民の反抗あり事業の挙らざることを申し上げて、何とぞこの桜町回復の大事業をなし遂げ得させ賜わるよう切に祈願致し三七21日(じつ)の断食をなして我が身の難行苦行を積んでその徳の至らぬことを我と我が身を攻めて心願をなされたのである。
 かくている中に桜町陣屋の方にてはさきに江戸表その他諸所に使いをやった江戸表にては先きに成田山から使者が来て翁のこれこれであることを知っておるから桜町陣屋の使のものにもその事を話し、翁は今や成田山に参籠せられおることを以てしたのである。
使者のものは一は驚き一は安堵し早速引き返してその趣きを復命に及んだ。
そこで桜町の人民はそれではこれから早速御迎え参ろう何人が使に行ったらばよろしかろうと相談があった。
そこでその行く人も誰がよいか彼がよいと定まった人々は次の人々である。
陣屋の役人での側にて小路只助を始めとし身寄りのものでは万兵衛3ヶ村の名主等出迎に成田山まで参られたので物井の方から政吉、藤蔵、万兵衛、文蔵、横田の方からは善左衛門、庄左衛門、善兵衛、境野重吉、弥兵衛、吉右衛門、清七というような人々が12,3人行かれたのである。
この人達は翁が三七日の断食にては定めし身体も疲労を極めてとても歩行は困難であろうから籠(かご)かきにお籠の用意をして御出迎に参りましたところが迎えに行った籠かきは却って大いに翁に小言を言われた。
迎えに参ったその日がちょうど満願の日であったのでそこで始めて粥を食して身体に力をつけ高き下駄をはいて昼夜兼行の速力を以て一日一晩の中に20何里という道を歩いて無事に桜町に陣屋に帰って来たのであるが、まだその時は先に陣屋を出た籠かきの連中はいまだ陣屋に帰って来なかったということである。
 かくのごとき非常なる行動に出で満願の日においてかく強健にて無事に帰村されたということは、とても普通人間のでき得べき所のものではない。
これは即ち翁の大偉人であり、加えて天地神明の加護のあったことであるということを察することができるのである。
君命の重きを思い国土の大切なることを感じ人民を安堵せしめんことを図りて一身に艱難のすべてを負うてその不徳を咎め省みられしその御徳の高きことは鬼神もまたなお泣かしむる程のことである。
故に桜町の一般人民は申すに及ばず非常に喜ばれ又彼の散々に翁を悩ましたる属吏やら奸民やらも全く翁の誠心誠意この民を思いこの土を興復するの至善より出でたるに感じたりけん、全く改悛してこれまで翁の事業を妨害し翁を罵詈(ばり)し翁の成功を羨み之を陥穽(かんせい)せんとし奸民と結託してあらゆる手段を執りしこと等実に翁に対して万死するもなおその謝するに足らざることを大悟したると同時に、翁の高徳に感じて翻然と醒覚(せいかく)して翁の大功業を翼賛して共に与に力をあわせてその進捗を計り従来と全くその赴き異にして一意翁の成功せざるは、却って己等の不心得の致す所なりとその進捗を計り従来と全くその趣を異にして一意翁の成功せざるは、却って己等んお不心得の致す所なりと自省しいかにもして一日も早くその成功の期に近づかしめ翁の功業の成り斯民(しみん)安んずるようにこの地のますます開墾さるるようにと想いいたったのである。
さなぎだに良民は翁の威徳にうるおい慈悲の神として尊敬せることとて、かく無類乱暴なる徒党の昨非を悔いて今や全く大悟しその反対に翁の事業を助くるという快挙に出でるのであるから、人民の歓喜というものは一通りではない。
これまで迷路をたどれるがごとき思いをなしおりし幾多の良民は始めて翁の慈悲深き心に依って指導さるる下(もと)に随っていくようになってその向う所が明らかになって前途の光明は期して待つことのできるようになって来たのである。
翁は着任以来千辛万苦を積み、難行苦行を重ね昼夜不眠不休にて家庭を顧みるのいとまなく未明に家を出て月を履んで門に帰り、愛児の顔も見ることを得ざること数年間奸民等の激烈なる反対讒訴あらゆる蛮行の迫害数え来たことは名状すべからざる修羅場におって、泰然として正道を履んで妖魔の醜類を降伏し着任後7年間の困難時代の末年において大成功の曙光(しょこう)を望むことに得るに至った。

【46】文政12年成田参籠後より安政3年に至る事歴の概要
 文政12年翁は成田参籠を終え陣屋に帰り不動尊の画像を名主に配りしが、その画像今なお存す。
翁の参籠後は村民心服す。
翌天保元年2年にわたりては翁の成功時代にて荒地開発、金穀貸付、産業奨励、善行表彰、移民招来等の、一切の仕法を施し日夜奮励努力し大久保忠真公へ将軍の代参の時宇津宮に翁を召し褒詞(ほうじ)を賜う。
なお手戻りなきよう命ぜらる天保3年を経て4年に至り常州青木の堰普請を為す。同年落成す。
この年初め茄子(なす)を食して飢饉を前知し三村に命じ毎戸一反歩ごとに稗を植えしむ。
ために飢饉を免れ人先見に服す。
同年谷田部(やたべ)の仕法を為す。
5年に至りなお引き続き3ヵ年間稗を作るべきを命ず。この年不退堂藤原聖純入門す。常陸の辻・門井両村の開発を為す。大久保公真筆を賜る。
7年桜町興復につき論功行賞あり。
翁は晒(さら)し木綿7反を賜る。この年大飢饉なるも桜町人民は安穏にして却って烏山人民を救う。
当時の米相場は6月には1両に米6斗なりしが12月には1両に3斗となれり。8年金千両大久保侯より賜る翁は小田原の飢饉救助に向かう。
この時烏山の仕法に従事す。
3月19日忠真公死す。
9年小田原の仕法に従事す。
10年富田高慶入門す。
下舘領の仕法に従事す。
11年門人大いに増し塾生百名に下らず。
12年を経て13年幕府の普請役格に任ぜらる、印旛沼を検分す。
14年7月13日翁下野真岡及び陸奥の小名浜代官所に属して真岡駐在を命ぜらる。
翁の仕法は新法として代官に用いられず、弘化元年日光の神領地荒蕪開拓仕法調査方を命ぜらる。
2年相馬の仕法に着手す。
相馬侯のため為政巻3巻を作る。
3年日光仕法雛形60巻を奉る。
4年5月東郷に移る。真岡領なる常陸国棹ヶ島その他の仕法に着手す。
後任者として横山平太これに当る。
嘉永元年より4年に至る間著しき記すべきなし。
5年箱根湯本山に桜樹3千本を移植す。
長子弥太郎妻を迎え娘文子を富田高慶に嫁す。
6念2月真岡代官付きを免ぜられ日光奉行手附き拝命す。
4月病む。
5月病を冒して日光に赴任し仕法に従事す。
安政2年今市の新官舎成り家族を率いてここに移る。
安政3年今市の官舎にて死亡す。
享年70歳。

【47】翁の威徳に感じ改心者続出す
 成田参籠を終り祈願成就し桜町陣屋に帰りたる後は、桜町住民はあたかも赤子の慈母に会えるがごとく皆その堵に安んじ、翁の日頃訓戒に訓戒を加えたるもなお改悛せざる遊惰の徒は今や全く翁の威徳に感じて深く先非を悔い改悛するもの続々として出で、一日も早く翁の大事業の成功をこいねがわざるものなきに至った。
翁の自然に徳化せるその感化力の大なること何ぞ顕著なるや、後世翁の神霊を拝しその徳化にうるおわんことをこいねがうものますます多きことむべなりといってよい。

【48】岸右衛門の悔悟 
 物井村の農夫に岸右衛門なるものあり。翁桜町に赴任せしより毫も翁の徳に感ぜず、却って邑人を扇動して酒を飲み歌を唄い、7ヶ年間の久しき教訓に従わず、常に反感を懐きおりしが、つくづく思えらく従来この地に来たって誠心誠意斯民(しみん)のために勤番として勤むるなく1,2年にして去る。然るに翁は全く之と異なり7年の久しき諄々(じゅんじゅん)倦まず。我今に至ってなお翁に背くは是我罪を深くする道理なり。しかず前非を悔いて後栄えをとるにはと。人をして今後大いに力を尽さんことを以てす。翁は説くに仕法論の大要を以てせり。是より土工の率先者と為りて力を尽せり。翁なお教訓して曰く。汝先非を悔ゆれば宜しく私欲を去りて邑民(ゆうみん)を楽ましむべし。ただ我を利せんとするだけにては禽獣にも劣るなり。我が言に従えば人之に感じて汝を信ずるに至るべしと。岸右衛門翁の教訓に感じて遂に善道を履(ふ)まんことを誓いて村民の手本に為ったということである。




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