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報徳本教・青木村治績

報徳本教 青木村治績(斯民より)

「報徳本教・青木村治績」は「斯民(しみん)」の創刊号(明治39年4月23日)に載って、第2編第11号(明治41年2月7日)の「報徳本教・青木村治績(9)完」まで都合9回にわたって掲載された。原文は漢語で、著者は幕府の役人で尊徳先生の門人ともなった小田又蔵氏である。当時江戸で尊徳先生の事績を漢語で整理し、当時の教養人にその偉大さを理解してもらおうという試みがあった。おそらくはその一環であろうか、小田氏が漢文で記したものを、斯民創刊にあたって吉本襄氏が書き下したものである。尊徳先生在世の同時代人がどのように先生のことを思っていたのかがわかってとても面白い。読みやすくするため、ひらがなを多用し、ふりがな、注をつけ、少しずつ足して紹介しているところである。前に載せたものと繰り返すところが多くなるが、ご了解されたい。

「斯民」創刊号(明治39年4月23日)より

 本編は二宮尊徳高弟の一人なる故小田又蔵氏が同翁の治績を漢語もて記されたるものなり
 今広く世に示すことの甚だ有益なるを認め本会より殊に吉本襄氏に託して和訳し此に掲ぐることとせり

青木村は、常陸国真壁郡に在りて、幕府の旗下川副某の采地に属す。初め竹垣某なる者、越中国頸城郡川浦を治めけるが、頗る意を民政に用ゐ、力を尽す所多かりしかば、民皆な其の徳に服しぬ。後ち常陸下野二州を管するに及び、謂へらく、越中は戸口繁殖して、田畝給せず、動もすれば、百姓互に耕畝を争ふに至る。今この二州を視察するに、戸口消耗し、田疇荒蕪し、往々産を棄てゝ他に逃亡する者あり、是れ大に釐革せざるべからずと。寛政八年、官に建白して、新に官舎を真壁郡東郷に設け、大に育嬰勧農の政を布き、婦人、子を産むときは、初日には銀1分を給し次月より三歳に至るまでは、毎月銀三朱を給し、四歳より五歳に至るまでは、毎月銀二朱を給す。女を嫁せしむる者には、婚資として金一両或は二両を給す。疾に罹る者には、薬料として金二両或は三両を給す。又新に家を建て或は其の修繕を為す者には、其の費す所に応じて給与す。馬匹を畜ふ者に至ては、其の価として二両三分二朱を給し、五年を以て還納せしむる等の法を制定し、之を行ふこと多年。戸口生産漸く増殖し、風俗も亦稍々改まりしも、積年の汚習陋俗は一旦にして洗除すべくもあらず。やゝもすれば官の恩恵に狎れ、拘束少しく弛むときは、悪風また忽ち作る。而も尚ほ如上の目的を遂行せんが為め、別に助貸法といふを設け、元金に対する年1割の利子を以て、之を諸方に貸付け、収むる所の利子は、挙げて之を貧民に給与し、傍ら富戸を勧誘して資金を貸出さしめ、これ亦共に法の如く行ふ。然るに人民漸く遊惰に流れて、祖税を納むるを怠り、督促至れば、田畝家宅の荒廃を口実として、苟も免がれんとす。郡吏も之を奈何ともする能はず。遂に其の給与する所を挙げて、租税を償はしむるに至る、其の弊害想ふべきなり。たまたま勤勉にして業を守る者は、皆新に他より移住せし者にして、此等は必竟、単に給与の銭物を目的として、永住の念なき者なれば、少しく食足り財給するに至れば、家を挙げて逃亡し、之く所を知らず。助貸法一たび出でゝ、田畝却て荒みぬ。且つ当局者も時々転免せらるゝを以て、たとひ良法の機宜に適したるものあるも之を継承し、また之を改善するを得ず。幾多の経費を支出しながら、終に其の功を収むる能はず。今に至て其の遺功の存する者は、僅に真壁郡庁付近数里の間に過ぎず。竹垣氏の施設は、斯くの如くにして失敗に畢りぬ。
これより先き、頸城郡長岡の民に丈八と云ふ者あり。長岡はもと竹垣氏の管内なりしかば、丈八兼て其の仁政に服し、真岡が他の移民を愛撫すと聞き、来りて其の民たらんことを乞ふ。郡庁為めに西沼を授け、専ら開拓の事を幹せしむ。丈八曽て東沼の荒地を開拓せしとあり。東沼は、宇津氏の部落にかゝる。因て物井邑庁に出入することを得、屡々金二郎先生の説話を聴き心窃に之を慕ひ、愈々奮闘して開拓の事に従ひ、時々故国に行き、其の郷村に破産の者あれば、乃ち之れに勧めて、本州に移住せしめしと云ふ。
其の後竹垣氏他州に転じ、文政元年に至り、田口氏来りて本州を治む。其の移民を愛撫すること、竹垣氏の時に同じ。たまたま某氏の采地にかゝる常州の八邑籍没して、真岡の管内に入る。田口氏乃ち新に与総兵衛と云う者と丈八とを挙げて、之れを彼の八邑に遣はし、細かに其の情形を調査して開発の急務なることを説かしむ。七邑悉くこれを可とせしに、独り高森村の里長伊十郎曰く、吾が村茅葦天を蔽ふ。廡下の穢蕪すら猶ほこれを芟ふこと能はず。いかで此の茫々たる荒野を開拓するを得ん。されど大に工役を興し、督するに官の威令を以てし、十分に資糧を備へ、且つ新戸を徒さば、事或は成らん、吾等亦切に願ふ所なり。但だ此の地、水に乏し、雨水を引けば、或は少しく灌漑の用に供するを得んも、其の田亦幾許もなし。以て数口を支ふべからず。余は皆曠渺たる荒野のみ。たとひ大役を起すも、必竟するに乾畝たるに過ぎず。其の水田の如き今望むべからず。然るに新に移住し来る者の如き、素より貧農にして、些の備蓄なき者なれば、水田の利に頼るにあらざれば、恐らくは存立せざらんと遂に丈八の為めに、青木村の古堰を起すの甚だ便宜なるを言ふ。丈八曰く、是の事官許を得ること容易なり。但だ青木可かざるときは、着手し難し、願くは子急にこれを謀れと。伊十郎乃ち青木村に到りて之を説く。而も其の事挙らず、遷十歳を経、闔境の人戸存立すべからず。即ち相議し、村を挙げて先生の指導と幇助とを請ふことに決し、邑主に抵りて其の認可を請ふこと甚だ力めしも、遂に何らの沙汰を得ず。乃ち丈八を江戸に遣はし、直接川副氏に催促せしむ。丈八。川副氏の執事並木柳助に会見して曰く、事情切迫、全村之れを待つこと、大旱の雲霓も啻ならず。何ぞ遅々此に至るやと。並木、丈八及び其の徒に告げて曰く、汝等夫の金二郎を如何の人と思うや。彼れ人と為り奇偉絶特己を倹して、人を恵み、且つ最も墾荒拓蕪の道に長ず。吾等の甚だ敬する所なり。独り疑ふ其の操財の道。人を択ばずして之を貸し、貸して利息を取らず、是れ何の法に遵ふや。財は天下の至宝なり。人是れに由て活き、亦是れに由て死す。漫りに散ずべからず。若し夫れ父母の邦、親戚の郷、故旧知己の間柄は、吾れ姑く言はじ。彼此隔絶の地、一面の識もなく、而も随て乞へば随て貸すと云ふが如き、天下また此の如き理あらむや。是れ解せざるの一なり。之を貸して什一の利子を徴するは、天下の通法なり。若し夫れ重きを捨てゝ軽きに従ひ、厚きを去て薄きに就くは則ち之れ有り。王公の紹介あるに非ず、災厄非常の事あるに荒非ざるに、一例恩●して、利息を収めず、其の跡豈奇に渉らずや。且利羸を算せざれば、元金何に由りて増殖するを得ん。限りある財を以て、限りなき乞ひに応ず、是れ解せざるの二なり。証券を取れてすら、尚ほ或は訟庭を煩はすことあり。然るに今之を貸すに、証文を書かず、期限を定めず、殆ど之を委棄するが如し。是れ最も解せざる三なり。凡そ非常の業ある者は、必ず非常の望みを抱く。吾れを以て之を視るに、金二郎の如きは、豈世俗の謂はゆるヤマ師なる者に非ざらんや。



斯かる者に軽々しく大事を託して、笑を四方に取らんよりは、依然旧によりて困労し、臣主協力一致して、力を開拓に尽し、徐ろに康寧を図るに如かず。是れ遅疑して決せざりし所以なり。且つ吾が主仁慈にして、民を視ること子の如し。豈に其の発達を欲せざらむや。積年これが為めに苦思し、百方これが為めに●慮しつゝある事は、汝等も亦明知する所ならむ。然るに家事窘迫して、資用足らざるを以て、今手を下すに由なし。嗚呼、慈母ありと雖も、乳の哺すべき無きを奈何、今汝等主の意を悟らず、呼号牆に鬩いて、復た外侮を慮らざるは何ぞや。金二郎亦仁恵の人ならむも、豈主公の仁慈に如かんやと。丈八驚て曰く、図らざりき執事の疑を容るゝ此に至らんとは。然りと雖其の人は、実に非常奇偉の士なり。吾等其の近郷に在りて、其の始めや亦猶ほ執事の如かりしも、面謁稍々熟するに及で、名と事と相符し、言と行と相戻らざるを見、乃ち偽善の徒の、到底企及すべきに非ざるを知りぬ。吾等小人、唯先生の常に弟子を誨ゆる言を聞きて之を記せり。請ふ、此を以て執事の疑を解かん、可ならん乎と。
並木曰く、苟も説あらば固より聞かんと欲すと。丈八曰く、天地は物に私せず、仁者は公を以て心と為す。博く施し、衆を救ふ能はざるは、是れ堯舜の病めりし所にあらずや。天下に飢ゆる者あるは、己れ之を飢やすに由るとは、是れ豈禹稷の心にあらずや。二宮氏の人と為り、堯舜の心ありて、禹稷の業ある者なり。鶏鳴て起き、孜々として善を為し、将に以て国家の恩に報ひ、天地の徳に答へんとす。二宮氏の法っとる所は、天なり地なり、仁なり公なり。健にして息まざるは天の如く、柔以て物を養ふは地に似たり。広く人を救ふは仁に非ずや。独り利せざるは公にあらずや、此れ物に親疎なく遠近なき也。且つ夫れ天地は母銭なり、陰陽は之を貸す者なり、万物は利得なり。天地は和気を物に貸して、其の生を遂げしむ。既に貸して、債を責めず、既に遂げしめて利息を収めず、夫れ息は不息を意味す。自ら養ふ所以なり。万物滋殖し、生々息まざるは、これに職由せずんばあらず。若し天地をして時に奇利を索めしむれば、物の生、滅するや久矣。雨露の潤は天之を貸すなり、水土の養は地之を仮すなり。而も百穀熟して一粒を収めず、万物育して一品を利せず。語に曰く、惟天を大と為す、唯堯之れに則っとると、二宮氏の則る所亦是れのみ、曷ぞ奇に渉るとせん。然りと雖、消息盈慮し、日往き月来るは、自然の道なり。即ち債を責めず、又利を歛めずと雖、貸し且つ借る所は、還さゞるを得ず、納めざるを得ず。然らずんば天地何を以て復た物を生ずるを得んや。先生嘗て曰く、民を植うるは猶ほ、穀を植うるがごとし。良稼は、穀の自ら蔓るを妨げず。良貨は民の自私するを禁ぜず。是を以て能く自ら救ふ。既に之を貸して又之を責め、既に之を恵んで又之を利す。一たびは堯舜となり、一たびは盗跖となる、吾れ其の何事たるを知らずと。陽虎曰へるあり、仁を為せば富まず、富を為せば仁ならずと。善い哉言や。故に先生貸財の法は、息を収めず、債を責めず、其の元金を償却せしむるには、仮すに歳月を以てし、或は五年、或は七年、或は十年と年を逐ふて、漸次皆済せしむ。又其の微力なる者に至ては、又其の期を緩うし、五年若くは十年の後を待つことあり。更に期を違へず返済する者と雖、実際償却困難なりと認むるときは、即ち数十年を経るも、之を責めず。曰く、吾れは民より利せんと欲するに非ず、民の利を為さんと欲す。既に財を貸して、自私を禁ぜず、自養を妨ぐることなく、其の為す所に任じて顧みず。盖し此の如くせざれば、以て廃国を興すに足らず。古人言ふあり、草木欣々として栄に向ふと。夫れ草木の無情なるすら、尚ほ栄に向ふの欣々たるあり、況や人をや。其の旧債を清還して、桎梏を脱するに及では、抃舞跳躍、再び天日を拝するの思ひあり。是の時に於て、誰か恩に感じて、報ずる所を思はざらん哉。是れ人の良心已むべからざる所なり。其の財恩を以て出て、亦恩を以て入る。これを商家の毫厘を争ふに較ぶれば、其の利たる、何ぞ啻に十倍のみならんや。報徳の資の、累積して巨万に至る所以、此を以てなりと。先生又曰く、書契の結縄に代はるは、人心の澆薄なるに由るなり。貸借は相互の信にて足れり、何ぞ別に証券を用ゐ、且つ文字を立つるを要せん。疑心人に接せざれ。文字の跡、何ぞ人の欺不欺に関せんや。予生れて五十余年曽て印章を蔵せず、之れに代ふるに信を以てす。人或は信を失することあるも、我れに於て何ぞ預らん。惟天は誣ゆべからず、又犯すべからず。語に曰く、天網恢々、疎にして漏らさずと。斯かる徒の、天を犯して、残禍に罹るもの、徒らに人をして悲痛の感を起さしむるのみと。其の言是の如し。道徳の中に充溢する者に非るよりは、焉んぞよく此に至らんや。且つ吾等の請ふ所は、たゞ主公の一言を得、以て全村の経営を二宮氏に託するを得ば可なり。其の経費の如き、一時二宮氏の恩貸に出づと雖、利源の開発眼前に在り、償還の方復た憂ふるに足らず。且つ全村之れが責に任ずるを以て、毫も主公を煩さじ。主公挙手投足の労なくして、土地の利を興し、戸口を再興す。其の福たる、孰れかこれより大なるものあらんや。今執事曰へり、慈母ありと雖、乳の哺すべき無しと。顧ふに、世間豈乳母あらざらんや。是故に、暮昏に人の門戸を叩きて、母に代て乳する者を求め、今乃ち此を得たるのみ。あに怪むに足らむや。且つ本地の租税たる、歳に米五十に過ぎず。幸に請ふ所の如くならば、自今更に三十を加え、八十を以て定額とし、歳々上納して少しも渝るなきを誓はん。吾等区々の情願是に止まる。惟執事亮察を加へよ、若し主公猶ほ其の人を疑ひ、遷延日を経なば、吾等復た主公の命を請はず、独り私に事を挙ぐるのみ。事こゝに至て、村に私権を加へ、戸に富厚を起すも、執事能く之を見る無きが如きを得んや。若し斯くの如きを得ば、上は主公への請願を煩はさずして、大恩を荷ふこと多し。而も開墾の功、邑と共に存し、永く邑主の徳の無窮なるを称せん。是れ吾等が願ふ所なり。願くば二者其の一を択ばれんことをと。是に於いて、並木柳助善と称し、入て邑主に説き、遂に之を允す。先生の青木の為めに法を立つること、実に天保四癸巳の年に在り。この時人戸僅に茅葦の中に点在しぬ。嘗て韻士あり、祠官大和田氏の家に投宿す。一夕門に立ち、俳句を賦して曰く、
 家ありやすすきの中の夕煙り
と、其の凄惨の状想ふべし。先生其の法を行うこと十年、天保壬寅の年に至り、庶務大いに整い、次第に成るを告ぐ。先生乃ちその顛末を書し、以て父老に授け、時々暗誦せしめて、之を警戒せしと云ふ。今其の叙事中完全ならざるものあり、因て之を補ひて、左の十三章と為す。

「斯民」第1編第2号(明治39年5月23日)82~87ページ

 報徳本教・青木村治績(2)
  第1
 青木村は、高森村と境を接し、ともに田畝荒廃、人口稀少の一寒村に過ぎざりき。初め知州(州の長官)田口氏、曽て高森村の為めに、荒蕪を開かんと欲し、郡の父老に問ふ所ありき。是の時西沼の民、丈八、島村の民、与惣兵衛と相謀り、以為(おもへ)らく、高森水田なし、新戸を置くと雖、恐らくは扶植すべからざらん。青木村は、田畝あるも荒蕪せり。青木の為めに、其の新戸を遣はして、荒蕪を開き、之を耕耘せしめは、食必ず得べけんと。乃ち郡庁に上申して、其の事を承領せられんことを請ふ。知州これを許し、青木村に請はしむ。邑主川副氏大に悦び、執事木俣某をして曰はしめて云ふ、弊邑荒頓、多年穢蕪に向へり。今貴邑の新戸をして、弊邑を耘耕せしめられんと、固より願ふ所なり。但だ渠溝高処に在りて、水行甚だ便ならず、毀壊せること年あり。之を浚へんよりは、上流に就て、新に渠(きょ:水路)を開き、直ちに桑田を経るの便且つ捷なるに如かずと。然るに桑田は、笠間の封内なるを以て、吏内田某を遣はし、笠間侯に告げしめ、川副氏の執事、笠間の吏某と会見して、共に地形を視察し、始めて丈量のことを起す。渠の長さ凡そ二百七十歩強。鑿口及び水の深さ二丈七尺強。地の高低に随ひ、深浅等しからず。工費約金三百両。然るに、村は素より疲弊し、加ふるに此の大工事を以てす。百万財源を求むるも、遂に良案なし、内田木俣窘究尤も甚し。乃ち之を丈八と与惣兵衛とに謀る。両人曰く、州に金二郎先生と云ふ者あり。人と為り仁にして謀を好む。往て教を請はゞ、必ず救済の道あらむと。
乃ち村の父老と共に物井に至り、青木の為に、其の報徳の資を貸されんことを請ふ。実に文政十一年某月なり。此の時先生庶務繁忙、寸隙なく、力及ばざるを以て辞退せらる。然るを両人屡々往きて、懇請甚だ力めれば、天保二年十一月に至て、其の事情いよいよ切なるを了せられ、こゝに始て邑の荒頓せる所以を問ひ給ふ。両人答て曰く、吾が村もと幕府の直隷にして、当初税額は、八百五十石九斗七升、田畝五町八段二畝七歩、戸数百三十戸あり。其の後離散して、今存するもの廿九戸。新附の移民、及び借家住みの小民を合するも、僅に三十九戸、人口は、通計百八十五人。之を往事に較ぶるに、三分の一に過ぎずと。其の此に至れる所以を叩けば、曰く、村は櫻川の水を引きて渠と為す。今、旧記に載する所を見るに。毎歳之を修築するに、夫役三千、其の一歳費す所、大約百六十五両余。其の後宝永五年に至り、川副氏の采地に属し、忽ち協済の力を失ひ、時に修補を加ふと雖、サイシたる小村、丁役(ていえき:官庁の労役)当初三十分の一には及ばず。其の人の足らざる知るべし。且つ渠の左右及び水底、皆な巌石交錯して、些の砂礫を見ず。水、土を帯びて時に至れば、其の中に堆積す。軽浮なること、灰の如く、また沮洳(しょじょ:水はけが悪くじめじめした土地)の如し。河水為めに滲漏して溜滞せず、遂に灌漑の利を失ふ。これによりて興復の方、修渠築堰の計、百方講求すと雖、事みな果さず。荏苒日を送りて、今にいたる。而も邑の急務は、開渠の一事に出でずと。是に於て、其の工費の予算、及び諸般の設計書を出して之を示し、哀願して止まず。先生曰く、汝が邑頽廃極まれり。新に渠を開くが如き、最も難事業たり。其の荒蕪を開墾して、生業を回復せんと欲せば、役夫を募り、新戸を移し、且つ其れに要する口糧、子種、農器等を準備せざるべからず。諸般の費用少なからず。如かず古渠を求め、姑く浚治を加へんには。若し河水注がざれば、則ち土地開け、費用足る時を待て、而して後新渠に従事するも未だ晩しとせじ。語に云はずや。高きに登る、必ず卑きよりすと。又曰へりき。速成を欲するなかれ、小利を視ることなかれと。其の大工事に急ならんよりは、力を現畝に依りて、以て雑糧を致さば、尚ほ以て生活することを得べしと。乃ち其の民をして、卯辰両年度の租米若干、及び其の私入の販売すべきものを開列せしめ、銀を出して之を買取り、以て不虞に備へしめ、別に邑の為めに、銀糧若干を貸与し、姑く其の口糧の資に充てしめたりき。実に此の歳の十一月也。
    第二
よりて村民を呼び告げて曰く、予聞く汝等の村里を北原と云ひき。当初僅に三十一戸のみ。土地荒廃して、茅葦野を蔽ひぬ。天明の七年に、たまたま烈風吹きすさめる時しも、野火忽然として起り、唯一戸を残すの外、村悉く延焼し、家族は、辛うして遁れしも、家什耕器は、挙げて烏有に帰し、四顧惨憺として為す所を知らず。遂に妻拏を携へ、累々として村を出で、四方に離散するに至りぬ。其の火難を免れし一戸を弥五郎と云ふ。孤立生活し難きを以て、是れ亦村を出づ。此に於て、闔境全く人煙を絶つに至りぬ。弥五郎他郷に飄泊する年あり。後ち隣村横田に来り、死口伝右衛門の田宅を譲り受けて入籍せしが、村里再興の挙あるを聞き、其の女を本村へ復籍せしめ、婿を貰ひて祖父利左衛門の田産を継承す。一村の再興するに及びて、帰来する者、たゞ一女子のみ。燎火の惨、誠に懼るべし。然るに今汝等の居村、蕪穢せると旧の如く、茅葦蔓衍して、宇下に迫り、野火また時に起って、動もすれば焚焼せんとし、復た昔日の轍を踏まんとす。何ぞ事苅して害を避けざるや、何ぞ時に及んで屋宇脩葺の原料をこゝに取らざるや。汝等曰く、野には各々自他の領域ありて、濫りに手を着くるを得ず。或は期に至て、地主他に行くことあり。或は疾病事故などありて。随意に苅るとを得ず。敢て惰るに非ずと。其の言ふ所、小節に拘りて、大計を遺れ、あたら修繕の原料を挙けて、之を一炬に付す。天物を暴殄すると少しとせず。其の言取るべきに似て、而も疎懶の心に出づ。これ弊の大なるものなり。汝等その屋舎を視よ、汝等の祖、汝等の父が、瘠土を闢き、生産を営み、千辛万苦して、汝等子孫の為めに計を貽し、汝等をして、雨露霜雪の患なく、安居棲息して、以て生活し得せしめし者、皆その膏血の致す所にあらずや。然るに、屋は修補を加へず、野は頽蕪を苅らず。頽廃に任して、其の滋蔓を擅にせしむ。我は恐る、汝等又他郷に出で、流離患難して、其の所を失はんことを。そも郷里を懐ふは、人情の常なり。その他郷に寓するに当りて、誰か望郷の情なきを得んや。されど、歳月の久しき、初念漸く薄く、郷夢稍々稀になりゆき、本を忘れて末に馳せ、苟且因循して、一日の生を偸み、父祖の至情に乖くこと、豈痛ましからずや。今汝等情願して、旧産を回復せんと欲せば、須らく全村力を協せ、各戸相戒め、猛然精力を出し、時に及びて、荒蕪を除き、予め火災を防ぎ、又屋宇を修理し、然して後に、農畝に従事すべし。これ孝にして仁なる道なり。汝等この道理を暁り、その鎌を磨ぎ、その索を綯ひ、速に往きて事に就け。其の苅り取る所の茅葺は、我れ時価に準じて買ひ取り、それぞれ銀両を交付せん。汝等よろしく此の意を喩るべしと。斯くて彼等村に帰りしが、未だ数日ならざるに、来り報じて曰く、苅る所の茅葺、一千七百七十八駄あり。請ふ点検を賜へと。乃ち六十駄毎に金一両を交付す。因て以て其の神祠仏宇を茨き、又民舎を葺補せしむ。既にして又報じて曰く、茅葺は幸に具はるも、之を葦補する費用、及び食料なきを奈何と。是に於て、其の人口と費額とを見積り、又之を給与しぬ。


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