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相馬興国救民問答【1】~【5】

 天保十癸亥年より
相馬興国救民問答
 天保十二辛丑年に至る

【1】草野大夫興国頼文
 未得貴意候共、弥御安寧被成御勤務奉欣然候、今般不思儀之事にて、富田久助雲水執行中、御膝下に随ひ、兼て被行候御徳化を片端をも相伺、御教諭にも預り候て、始終は在所荒廃之地を相開候拠と仕度、赤心聊御察し取被下、御仁恵之御扶助可被下候間、御奉仕先迄被召連、御信誠之御行ひも執行仕候様、御許容被下候段粗申聞候。扨又一家之衰廃を起し候儀、容易之粉骨に参り候事に無之候処、貴君桜町御再興之御丹精驚耳感入候事に御座候。御在府にも相成候はゞ、為御名誉之御咄も承、乍不及赤心を御談し申度候共、懸隔懸命之御互、不能其儀、厚残念奉存候。何卒久助寸才を以、高徳之十分が一にも至候はゞ、於私も厚可致大慶候。右御礼且奉謝度如斯御座候。恐惶謹言。
  天保十年十一月八日
    相馬大膳亮内 草野半右衛門
  二宮金次郎様
 二白御地へ出立之由にて、小屋へ立寄候に付、不容易に禿筆を呈候段御用捨可被下候以上

(1) 草野大夫興国頼文
 いまだ貴意を得ざる候えども、いよいよご安寧ご勤務なされ奉り欣然候。今般不思議の事にて、富田久助雲水執行中御膝下に随い、かねて行われ候御徳化を片端をもあい伺い、ご教諭にも預り候て、在所荒廃の地をあい開き候拠と仕りたく、赤心いささか御察し取りくだされ、ご仁恵のご扶助となさるべく候あいだ、御奉仕先まで召し連れられご信誠の御行いも執行仕り候よう、ご許容くだされ候段ほぼ申し聞き候。さてまた一家の衰廃を起し候儀、容易の粉骨に参り候事にこれ無く候ところ、貴君桜町御再興の御丹精耳を驚かし感じ入り候事にござ候。ご在府にもあい成り候はばご名誉のおはなしも承り、及ばずながら赤心を御談じ申したく候えども、懸隔懸命の御互い、その儀あたわはず、厚く残念に存じ奉り候。なにとぞ久助寸才をもって高徳の十分の一にも至り候はば、私においても厚く大慶致すべく候。右御礼かつ謝し奉りたくかくのごとくござ候。恐惶謹言。
  天保10年11月8日
    相馬大膳亮内 草野半右衛門
  二宮金次郎様
 二白御地へ出立の由にて、小屋へ立ち寄り候につき、不容易に禿筆を呈し候段ご用捨下さるべく候以上

【2】 
 其以来不得貴意候得共、向寒之砌弥御安泰被成御座奉欣然候、去年中は富田久助御膝下に御教諭被成下候趣、諸事御手厚之御事不少、忝致大慶候、扨追々衰廃之地御引立之御信節、天地神明を御動し被成候儀、同人伝達にて具に致承知候、頻に金言を承度候処、懸隔之儀不任心底、遺念不浅候、久助事夏中より不快にて、推参致遅滞、今般亦々御膝下へ御教誨を蒙度旨申聞候、乍此上奉頼候間、朝暮被召仕、薪水執行の内御教示被下候様伏て奉頼候、在所同役共よりも、願くは尊師を御招請致度時々申越候に付、久助へ物語候へども、中々以容易に御許容有之事に無之候段申聞候、御尤成御事御座候、領分は元来本田六万石、新田改出高三万八千石、〆九万八千石余、家事盛ん成時は、人別九万人、内高十二万 迄収納有之候事、万治より元禄之間迄家事壮に付致収納候、於爰上下の驕奢相募、連々致困窮、如夢人別減少いたし、天明元年には五万人に相減、天明三大凶飢饉に付、壱万六千人死亡離別有之、一度は三万三四千人迄に致減少、当時聊信節之糸口開け、二十五ヶ年以来役人世話を尽し、漸四万人余に相成申候、乍去尊師程之傑出未出顕無之、何れも庸人共に付、今一段之信節行届不申致歎息、送光陰候、若哉不便に御察被下、遠国之領分、興復之御助情被下候はゞ、如何計大慶可仕、元より御功業の相立候処、二ヶ村三ヶ村之訳に無之、宇田郡、行方郡、標葉郡〆三郡之地御開基被下候はゞ、天下へ響御大功にも可相成哉と奉存候、乍去当節御隣領御信義と御結ひ被進候御身上之儀、相願候て無詮事には可有之候へども、職掌難遁、屈思之余り呈鄙章候、余は久助可献鄙言深奉頼候右時候御見舞旁心事万分之一を不尽候恐惶謹言
  天保十一年十一月二十一日
    相馬大膳亮内 草野半右衛門
  二宮金次郎様
 二白寒威強候條無御油断御愛護成可被成候以上

(2)それ以来貴意を得ず候えども、向寒のみぎり、いよいよご安泰なされござ奉り欣然候、去年中は富田久助御膝下にご教諭なされくだし候おもむき、諸事御手厚の御事少なからず、ことごとく大慶候、さておいおい衰廃の地御引立ての御信節、天地神明を御動しなされ候儀、同人伝達にてつぶさに承知いたし候、しきりに金言を承りたきところ、懸隔の儀心底に任せず、遺念浅からず候、久助事夏中より不快にて、推参遅滞いたし、今般またまた御膝下へ御教誨をこうむりたき旨申し聞き候、この上ながら頼み奉り候あいだ、朝暮召しつかわれ、薪水執行のうち御教示くだされ候よう伏して頼み奉り候、在所同役どもよりも、願わくは尊師を御招請いたしたく時々申し越し候につき、久助へ物語り候へども、中々もって容易に御許容これ有る事にこれ無き候段申し聞き候、御もっともなる御事ござ候、領分は元来本田6万石、新田改め出し高3万8千石、しめて9万8千石余、家事盛んなる時は、人別9万人、内高12万まで収納これ有り候事、万治より元禄の間まで家事さかんにつき収納いたし候、ここにおいて上下の驕奢あい募り、連々困窮いたし、夢のごとく人別減少いたし、天明元年には5万人にあい減じ、天明3大凶飢饉につき、1万6千人死亡離別これ有り、一度は3万3,4千人までに減少いたし、当時いささか信節の糸口開け、25ヶ年以来役人世話を尽し、ようやく4万人余にあい成り申し候、さりながら尊師ほどの傑出いまだ出顕これ無く、何れも庸人どもにつき、今一段の信節行き届き申さず歎息いたし、光陰を送り候、もしや不便に御察しくだされ、遠国の領分、興復の御助情くだされ候はゞ、いかばかり大慶つかまつるべく、元より御功業のあい立ち候ところ、2ヶ村3ヶ村の訳にこれ無く、宇田郡、行方郡、標葉郡しめて3郡の地御開基くだされ候わば、天下へ響く御大功にもあい成るべきやと存じ奉り候、さりながら当節御隣領御信義と御結び進められ候御身上の儀、あい願い候て詮なき事にはこれ有るべく候えども、職掌のがれがたく、屈思の余り鄙章を呈し候、余は久助献ずべく鄙言深く頼み奉り候右時候御見舞かたがた心事万分の一を尽さず候恐惶謹言
  天保11年11月21日
    相馬大膳亮内 草野半右衛門
  二宮金次郎様
 二白寒威強く候條御油断無く御愛護成さるべく候以上

【3】
 一筆致啓上候、寒冷相増候共、弥御安泰成御座奉欣然候。抑久助事永々御厄介を受、蒙御教諭、不浅忝奉存候。久助より粗御咄仕候通、領分衰廃之体、庸人共にて急々復興可致体に無之、君臣悲歎難堪候。依之先生御取行之勧農御誠信之儀、御頼母敷一同奉信候に付、今般在所郡代一條七郎右衛門、一ヶ年之勤番手明に付致帰村、幸先生之御教示を蒙度、昇堂之寸志を労し候て、四五日中には爰元出立、御陣屋へ向ケて罷出候間、乍御面倒御逢被下、廃村御取立之御誠信を御諭し被下候様奉願候、当人願くは永く御手に付執行仕度候得共、在役にて永々暇も難相済に付、一両夜之拝謁、御誠信之御一句を御諭被下候様に奉願。差付罷出候て尊慮を驚し奉り候儀如何奉存候に付、従拙者呈禿筆候、右等之趣奉願度如此御座候恐惶謹言
  (天保十二年)十月十八日
       草野半右衛門
  二宮金次郎様
 猶以当年は寒気も急候間無御油断時候之御愛護可被成候以上

(3)一筆啓上いたし候、寒冷あい増し候えども、いよいよ御安泰ござなされ欣然奉り候。そもそも久助事永々御厄介を受け、御教諭を蒙り、浅からずかたじけなく存じ奉り候。久助よりあらあら御はなしつかまつり候とおり、領分衰廃の体、庸人どもにて急々復興いたすべく体にこれなく、君臣悲歎耐えがたく候。これによりて先生御取行の勧農御誠信の儀、御頼もしき一同信じ奉り候につき、今般在所郡代一條七郎右衛門、一ヶ年の勤番手明きにつき帰村いたし、幸い先生の御教示をこうむりたく、昇堂の寸志を労し候て、4,5日中にはここもと出立、御陣屋へ向けてまかり出候あいだ、御面倒ながら御逢いくだされ、廃村御取立の御誠信を御諭しくだされ候よう願い奉り候、当人願わくは永く御手につき執行つかまつりたく候えども、在役にて永々暇もあい済みがたきにつき、一両夜の拝謁、御誠信の御一句を御諭しくだされ候ように願い奉り候。差しつけまかり出候て尊慮を驚かし奉り候儀いかが存じ奉り候につき、拙者より禿筆呈し候、右等のおもむき願い奉りたくかくのごとくござ候恐惶謹言
  天保12年10月18日
       草野半右衛門
  二宮金次郎様
 なおもって当年は寒気も急候あいだ御油断無く時候の御愛護なさるべく候以上

【4】
 一筆致啓上候、追日寒冷御座候得共、弥御安泰可被成御座珍重奉存候、随て私儀去年中、当表詰合被仰付罷登り居、当節手明にて得交代、致帰国候積御座候処、兼て 二宮先生様其御在所御取立之筋、別段之儀と及被御聞候に付、相馬表旧来衰候在辺御引立之筋、私下り掛ケ罷出相伺、得御諭候様被 仰付置候に付、何共乍御面倒近日罷出相伺度、可然様御取成置被下度候、尤別紙草野様よりも 先生様へ御頼被進候交代之仁、昨今当着之日積にて、折角相待罷在申候。着次第中三四日も御用向引渡相済次第出立罷出候、重々御手数恐入候得共、直様御陣屋へ参上仕度、明御長屋成共一両日之間拝借仕罷在度、是等之処可然取計被置可下候、何様交代着之模様聢と不仕、日限取極申上兼候得共、幸便に付右御頼旁御案内申上度如斯御座候、余は得拝顔万緒可申上候。恐惶謹言。
  (天保十二年)十月十九日
       桜田御屋敷より 一條七郎右衛門
  富田久助様 参人々御中

(4) 一筆啓上いたし候、日を追うて寒冷ござ候えども、いよいよ御安泰ござなされ珍重存じ奉り候、したがって私儀去年中、当表詰め合い仰せつけられまかり登りおり、当節手明きにて交代を得、帰国いたし候つもりござ候ところ、かねて 二宮先生様御在所御取立ての筋、別段の儀と御聞き及び候につき、相馬表旧来衰え候在辺御引立ての筋、私下り掛りまかり出あい伺い、御諭しを得候よう仰せつけられ置き候につき、何とも御面倒ながら近日まかり出あい伺いたく、然るべきよう御取成し置かれくだされたく候、もっとも別紙草野様よりも 先生様へ御頼み進ぜられ候交代の仁、昨今当着の日積りにて、せっかあい待ちまかり在り申し候。着次第中3,4日も御用向き引渡しあい済み次第出立まかり出候、重々御手数恐れ入り候えども、直様御陣屋へ参上つかまつりたく、明御長屋なりとも一両日の間拝借つかまつりまかりありたく、これらのところ然るべく取計らい置かれくださるべく候、何様交代着の模様しかとつかまつらず、日限取きめ申しあげかね候えども、幸便につき右御頼みかたがた御案内申しあげたく、かくのごとくござ候、余は拝顔を得、万緒申しあぐべく候。恐惶謹言。
  天保12年10月19日
       桜田御屋敷より 一條七郎右衛門
  富田久助様 参人々御中

【5】池田大夫興国尋問
二宮先生は 大久保侯の御用、質実篤行の君子、国家有益の一人たること不堪感嘆、齋藤生、高明を慕て随付し、羽根田生門尋して教を受く、野州郡村諸民撫育の主法大概を得て相考るに、深切徳化の及所大にして、当世の諸侯治民の体を抽て、真に美政と可謂か、因て以て当領難村の指揮に活用せんと欲れども、旧典旧癖容易に改め難く、異論難評も亦多端なり、是以て貴生に付属して来諭を請ふ。論語曰恵而不費とは、困民の所利而利之と云々、米金を以て恵むことは限有ものにて、譬は一村には及べども諸村ゑは及難の類、又恵に甘へて勤めざるものゝ出来たるを以、此所に至て術尽る也、天地生財の道を能開て与へるを以、利する所に因利するの理となし、田畑生産を与へ、昼は茅かれ、宵は索綯と云様に、深切に教れども、困民の如きは米金なくても亦勧農に至りかたし、冀くは法あらんか。詩曰、無田圃田維莠驕々と云々、民力少く田地多ければ、莠さかんにして労して無功と云り、譬は方十里、山有川有り、防堤有り、古へは土地と人民相当なれども、天明飢饉以来民戸減少して荒蕪となれば、方五里にして甫田なき様には、封境はせばめ難く、用水も亦然り、是において戸口を増益するの主意赤子養育料を与ふといへども、一家二家となるべきには積年重世の上のこと、故来民を呼、戸口を倍すの術有れども、一家十金、或は十五金の用度を以て、荒地を発し、甫田なきようにと精誠を尽せども、十家百金、百家千金、或は千五百金、借財を以すれば利息を負ひ、税法と云へば五年、或は十年の後収納する所、上戸は高八石に不過、下は五六石、上税は四つ、下は三つ、戸数も亦十に六七成就して、余は死走の欠道有、如是にては窮国の財用乏ければ、永続すべきの術なし、冀くは法有んか。論語曰、既庶矣、亦何加焉、曰富之曰富矣、又何加焉曰教之と云々、衛国の民の如き、兵乱の後民生不遂、故に富すを以て先とす。治平の困民は異之、所謂貧は不足より生、不足は不農より生るの理ゆへ、農耕勤々なれば毎畝三升を増すの謂にて、眼前の利を以て導之、奢を戒め費を省き、遊惰を興し、禁末作以教先之、富在其中なれども、旧弊旧染の俗、庸人深切而已にては、一時風化し難し、冀くは法有ん乎。
  天保辛丑孟冬   池田図書

   池田大夫興国尋問
二宮先生は、大久保侯の御用、質実篤行の君子、国家有益の一人たること感歎に堪えず。斎藤生(富田高慶)、高明を慕いて随付し、羽根田生問尋して教えを受く、野州郡村諸民撫育の主法大概を得てあい考うるに、深切徳化の及ぶ所大にして、当世の諸侯治民の体を抽(ぬきんで)て、真に美政と謂うべきか、よってもって当領難村の指揮に活用せんと欲すれども、旧典旧癖容易に改めがたく、異論難評もまた多端なり、これをもって貴生に附属して来諭を請う。論語に曰く、「恵んで費えずとは、民の利する所によってこれを利す」(論語堯曰第20)と云々。米金をもって恵むことは限り有るものにて、たとえば一村には及べども諸村へは及びがたしの類、また恵みに甘えて勤めざるもののいでくるをもって、この所に至って術尽くるなり。天地生財の道をよく開いて与えるをもって、利する所によって利するの理となし、田畑生産を与え、昼は茅かれ、宵いは縄なえと云うように、深切に教うれども、困民のごときは米金なくてもまた勧農に至りがたし、こいねがわくは法あらんか。詩に曰く、「無田甫維莠驕々」(詩経周南)と云々。民力少なく田地多ければ、莠(はぐさ)さかんにして労して功なしといえり。たとえば方十里、山有り川有り、防堤有り、いにしえは土地と人民相当なれども、天明飢饉以来民戸減少して荒蕪となれば、方五里にして甫田なきようには、封境はせばめがたく、用水もまた然り、これにおいて戸口を増益するの主意赤子養育料を与うといえども、一家二家となるべきには積年重世の上のこと、故に来民を呼び、戸口を倍すの術あれども、一家10金、あるいは15金の用度をもって、荒地を発し、甫田なきようにと精誠を尽せども、10家100金、100家1,000金、あるいは1,500金、借財をもってすれば利息を負い、税法といえば5年、あるいは10年の後収納する所、上戸は高8石に過ぎず、下は5,6石、上税は4つ、下は3つ、戸数もまた10に6,7成就して、余は死走の欠道あり、このごときにては窮国の財用乏しければ、永続すべきの術なし、こいねがわくは法有らんか。論語に曰く、「既に庶(おお)し。また何をか加えん。曰く、これを富まさん。曰く、既に富めり。また何をか加えん。曰く、これを教えん。」と云々。衛国の民のごとき、兵乱の後民生遂げず、故に富ますをもって先とす。治平の困民はこれに異なり、いわゆる貧は不足より生ず、不足は不農より生ずるの理ゆえ、農耕勤々なれば畝ごとに3升を増すの謂(いい)にて、眼前の利をもってこれを導き、奢りを戒め、費えを省き、遊惰を興し、末作を禁じ、教えをもってこれに先んじ、富その中に在りなれども、旧弊旧染の俗、庸人深切のみにては、一時に風化しがたし、こいねがわくは法有らんか。
  天保辛丑孟冬   池田図書

報徳記現代語訳  巻之七  【1】池田胤直先生に面謁して治国の道を問ふ

 時に天保13年11月池田胤直(たねなお)が先生に面会を求めた。先生は忙しいからと断られた。後しばしば来て求めて止まなかった。ある日草野と共に来た。先生は始めて面会した。池田はこう問うた。「主家が艱難し領中が衰廃している事実は草野がすでに詳しく述べました。ですから今また余計な事は申しません。多年郡村復興の道を施行しましたが、わたしたちは才能が足らず処置が適当でなく、政治を改革して以来すでに30年ですが、なおまだその益を見ません。いたずらに費用が多くかかって成功することができません。なぜかというと財には限りがありますが困窮した民は限りがなく廃地もまたおびただしいからです。限りある財で限りない物に応じる。これが上下が力を尽してもその功を得ない理由です。そうであるのに先生は野州の民を恵んで廃地を挙げるのに仁沢は余りがあって、余力は他国に及ぶというのはどのような良い方法があるのでしょうか。願わくはこの上もない教えを得て年来の志を遂げることができれば、これにまさる国の大きな幸いがありましょうか。」先生は言われた。
「今、君が仁であって臣が忠である。このようにして民がその恵みに浴して再復の時を得ないというのは他でもありません。その本源が立たないためです。何を本源というか。国の分度がこれです。分度を立てて堅くこれを守る時には、財が生ずること限りが無く、国民はあまねくその恵みに浴して廃地はことごとく挙って必ず旧復することは疑いありません。そうであればあなたの言葉のようではありません。貧民に限りがあり廃田に限りがありますが財に至っては限りがありません。なぜかといえば人民には必ず限りがあります。廃地が何万石あるといってもまた必ず限りがあります。ひとり財を生ずるに至っては今年幾万の米穀を生じ、来年また幾万の米穀を生じ幾千年であっても生々窮まりがありません。どうして限りがあるというのですか。はたして限りがない財を生じ、限りがある民を恵んで、限りがある廃田を開くことがどうして難しいことがありましょう。しかしながら一万石を得る国であってその必要な費用をみたすに足らない。10万を得れば10万余の費用を生ずる。その止まる所を知らない時はたとえ幾百万を得たとしてもどうして余りを生じましょう。これが衰貧・艱難の本ではないでしょうか。天下の大名・小名はその天分の有る所に安んじて自然の分を守って、その度を失わない時は毎年に分外の余財を生じて、大いに国民を恵み救ったとしても、なお余りがあって尽きることがあるはずがありません。たとえば大きな川の水を汲んできて、人の渇きをいやすようなものです。渇く者が万億あったとしても水を得るに余りあって、大きな川はこのため少しも水が減少することを見ることができません。本源のある者はそもそもこのようです。今、あなたが財に限りがあるというものは、桶・カメの水で万民の渇きを救おうとするからです。そして水の不足を憂えるものは、その器の中の水が少なくて尽きることがすぐであるからではないでしょうか。どうして万民を安らかにし恵もうとすれば、国中に仁恵の本源を設けないのですか。本源が一度立つ時にはどうして相馬の民だけ安らかでしょうか。余沢は必ず他国に及んで尽きることがあるはずがありません。思うにおおむかし我が国を豊葦原と唱え、まだ開けない時は一円に葦原でした。これを開かれるのに異国の財を借りて開いたのではありません。一鍬一鍬、百、千、万と積み重ねてこのように開けたのです。異国であっても我が国の財を借りて開いたのではありません。そうであれば我が国は我が国の力で開き、異国は異国の力で開いたことは疑いありません。この当初に当って一つの財を得ようと欲してもどうして財宝がありましょう。ただ木を削って鋤鍬とし、一鍬一鍬の丹誠を積んで遂に原野がことごとく開け、数千年の後にいたって金銀財宝を作り出したのです。これによってこれを観るならば、開田は先であって財宝ははるかに後です。そうであるに今荒地を起こそうとして財がないことを憂えることは、先後を察しないためです。たとえ極貧の国であっても上古の原野に比較すればどれほど豊かであるか知れません。どうして廃地を起こすのに財源がないことを憂えましょうか。財源は開田によって生ずるものです。今、国の租税を調べて10年ないし20年も平均します。その平均の数は自然の数であって天分の分度です。この分度をもって支出を制限し、艱難に素(そ)して民を恵む仁政を行い、廃地を挙げる時は分度外の米穀は湧くように生まれ増えます。これを分内に入れないで国家を再復する用財として、年々怠ることなく仁の恵みを施す時には、どのような貧民も安らかにし幾万町の廃田も起し尽すことができます。これは他でもありません。国家再興の本源を立てるためです。私が野州で廃亡した地を興し、隣国の荒地を開いて、その広大な徳が他領の民に及んだのは皆この本源を立てたためです。あなたの国は多年慈しみ憐れむ道を行い廃したものを興す道を行うのに、藩の経常費を省いてその費用にあてました。このために財源に限りがあってまた費用が多いとするのです。いやしくも私が行う所の本源を確立し、その廃を興す時には国の永安を得ることに何の難しいことがありましょうか。」と。
両家老は大変に感動して言った。
「君臣上下が憂いとしたところが、今、先生の明らかな教えを聞くに及んで憂える心はここに氷解しました。多年はなはだ難しいとしていたものが、今ははなはだやさしく思えます。この明らかな教えによってこの道を行う時には、先代以来の志願が始めて達成することができましょう。」と言って退いて、詳しくこれを藩主に報告した。
藩主は大変に喜んで国家中興の道を依頼する手紙を先生に贈られた。両家老はこれを奉じて先生のところに来て君命をのべて手紙を出した。先生はこれ閲覧して言われた。
「このように君主は仁であって臣は忠である。国の再興することは難しくない。」と嘆称された。後しばしば両家老は来って先生の道を問うた。先生は国を治め民を安らかにする要道、盛衰存亡のよって起る所、万民を慈しみ憐れむ仁の方法をじゅんじゅんと解説すること、物事の筋道があり、細目があり、さんぜんとして明らかであることは白黒を区別するようであった。家老はいよいよ感激が深く心の中にはっきりとした。




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