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「クラークの一年」太田雄三著 抜粋

「クラークの一年」太田雄三著
P169-170 クラークのドイツ留学中の手紙
1851年3月7日付け 父宛

 しかし、科学においてはドイツが優越していることを認めなければなりませんけれども、宗教においてはニュー・イングランドがその本家であることを認めざるを得ません。真の霊的宗教が学問の最高の達成と結びついているような国が出現するとしたら、その国こそ真に幸福な国といえます。いつかは宗教と学問のそのような結合が実現するでしょう。そして、私が思うに、それはまずアメリカで実現することでしょう。というのは、キリスト教と科学は決して矛盾しないのですが、人々が聖別されていない知識の思いあがり、誤った微妙さ、および過度の洗練から生ずる悪影響の氾濫にさらされる前にキリスト教が人々の間にしっかりと確立していなければならないからです。
 ここ〔ドイツ〕では、宗教の形式には幾分の注意が払われています。しかし、その精神はどこにあるでしょう。私はこの市〔ゲッティンゲン〕にはイースト・ハンプソン〔クラークが8,9歳の頃両親と移り住んだ〕の住民100人のうち99人までがやっているような厳格さで安息日を守るドイツ人は一人もいないと思います。教授たちは日曜日に人を食事に招いたり、遠足をしたり、勉強をしたりしながら、自分たちを非常に立派なキリスト信徒と思っています。ザルトリウスの教授が先週当地で陪審員を勤めました。そして、私に一人の犯罪人の話をして、言いました。
「かわいそうに。その女は全然宗教教育を受けなかったのです。だから、彼女がこんなことになったのは無理もないじゃありませんか。」
 教授は日曜日に仕事をし、旅行をします。でも、うそをついたり、物を盗んだり、人殺しをしたりはしないということで、宗教的人間なのです。ヨーロッパではピューリタン的考えをなくすのは容易です。しかし、私は」できれば自分のピューリタン的考えを保持するつもりです。




「クラークの一年」太田雄三著

P5-7 クラークの第1信 妻あて。1876年5月21日付。発信地、フィラデルフィア市内コンティネンタル・ホテル。

 いまはちょうど10時で、サンフランスコに向けて出発しよう出発しようとしているところです。サンフランシスコは次の土曜日に着く予定です。今晩はちょうど当地に到着した晩のようで、とても暑く、またはげしい雷雨になっています。私の健康状態は最良で、意気も上がっています。吉田氏と西郷将軍は私のしようとしている仕事に対して非常に大きな関心を示し、日本の役人らについて非常に有益な情報を私に与えてくれました。2人は黒田長官や他の高官に手紙を出してくれたとのことです。
 7月の札幌行きの汽船に乗ることがどうやらできそうもないので、私は陸路札幌に向かい、途中で通過する地域の農業視察をする計画をたてているとこrです。東京から札幌まではおよそ2ヶ月間の旅行になるはずです。
 昨日は私は全部でおよそ300冊の本のつまった3つの大きな箱を発送しました。我が家に縦、横、高さが24インチ、16インチ、12インチの大きさで、もう一つの箱と同じように裏打ちがしてあり、縛ってある箱があるかもしれません。あったら、裁縫室に置いてある本の中から一番上等な本を選んでそれに詰めてください。また、大型の薬きょう100個を前のように箱に入れて、本の真ん中、大学の便覧類の間に詰めてください、それから、小型のもの100個もお願いします。その箱の表には「日本国、札幌、W・S・クラーク宛。サンフランシスコ経由」と書いて、それから上杉君〔上杉勝賢。当時マサチューセッツ農学校留学中〕に日本語で「開拓使で使用する品物在中」といった意味の言葉を書き添えてもらってください。それからそれをウェルズ・ファーザー・エンド・カンパニー運送会社を通して発送してください。
 昨日、私はブレイン〔共和党政治家〕の選挙応援のためにシンシナッティ州に行くローリング博士に会いました。彼はとてもていねいな人で、私と一緒に一時間ほど見物して回りました。ネッド・ストロングと彼の妻、ノウルズ氏と奥さん(ネッドの姉)は当地にいます。
 今日、札幌農学校の教授陣は聖ステファノ教会へ行き、それからフェアモント公園の中を散歩しました。この散歩は素敵でした。
 私への手紙と新聞は横浜に送ってください。それらが着く前に私が横浜を立つ場合は、転送してもらうようにしますから、8月1日以降は、特に私が別の指示をしないかぎり、日本国北海道札幌を私あての手紙の住所に使ってください。
 私たち一行のメンバーは、吉田夫人の親戚の女性であるハルさん、日本公使館の秘書官で到着後いろいろ私たちの世話をしてくれる外、航海中に私たちに日本語を教えてくれることになっている浅野氏、ホイラーおよびペンハローの両教授、それにかく言う学長の私からなっています。
 この手紙は大急ぎで書かれたものです。解読できれば幸運と思ってください。
                         W・スミス

「クラークの一年」太田雄三著

P18-20 クラークの第2信 妻あて。1876年5月30日付。発信地、サンフランシスコ。

 私たちは昨日の午前4時ころパレス・ホテルに着きました。そして、ただちにこの
すばらしく立派な建物の千ばかりある客室の中の我々に割り当てられた部屋に行って
休みました。私の部屋は大きな居間、寝室、浴室それと玄関からなっています。床に
敷いてあるじゅうたん、備え付けの椅子、鏡等はみな豪華きわまるもので、照明には
14の、かさのついたガス灯があるといった具合です。そして、部屋は中庭に張り出
した素敵なバルコニーへと通じています。この中庭は広さが100フィート四方以上あ
り、歩道から100フィートの高さのところにあるガラス張りの屋根でおおわれていま
す。700万ドルかけてつくられたこのホテルはあらゆる点から見て世界一のホテル
で、有名な故ラルストン氏を記念する建築物となっています。
 昨日、私たちは市の中国人地区に行ってみました。そして、これらの奇妙な人々が
市の最もよい建物や通りのいくつかを占領しているのを見て驚きました。昨夜、私た
ちはロイヤル・チャイナ劇場に行き、私たちの中国人研究を終えました。私はこれ以
上見たい気持はありません。この市には5万人の中国人がいるとのことですが、貧し
い白人たちの増大するねたみの結果、血なまぐさい暴動の起こる危険は大です。
 今日、私たちは馬車に乗って郊外に出、また海のそばの絶壁に行ってあしかを見る
つもりです。当地の気候は快適そのものです。乾期が始まっています。小麦、牧草、
それにじゃがいもがいま収穫の最中です。ここでは冬までもう雨が降りません。
 市はとてもよく作られています。そしてさらに急速な改良が加えられているところ
です。すてきな住宅の前の庭にはレティノスポラス、フクシア、いとらん等の異国情
緒をただよわせる木や潅木がいっぱいです。
 私はロッキー山脈の中でいくつかの植物を採集して、それらを私の旅行案内書の間
にはさんでアーティーに送っておきました。それらの名前はあとで調べれば分かると
思います。
魚の化石はシャイアンの近くで見つけました。私たちは旅行の手はずをすっかりとと
のえました。万事うまくいっているように見えます。




「クラークの一年」太田雄三著

P26-27 クラークの第3信 妻あて。1876年6月1日付。発信地、サンフランシスコ。

私は汽船に乗り込んでしばらくの間故国を離れようとしているところです。あなたが
私と一緒に行けたらと思いますが、子どもたちがいてはしかたがありません。皆、健
康で私がいなくともとても幸福にくらしてくれるものと信じます。そうすれば、私が
帰ってきたとき、あなたを2倍も幸せにしてあげましょう。
昨日、私はヘノス・クラークに会うため、また、大学を見るため、バークレーに行き
ましたが、彼は東部の方に行っていないとのことでした。それから私は大学をざっと
みました。それはよい場所にあって立派な建物を有しています。構内にはさまざまな
種類の木や潅木が植えてあります。
 サンフランシスコで事業を経営している人々がみな住んでいるオークランドは、こ
の地方としてはとても盛んな美しい所です。しかし、マウント・プレザントの方が
もっとずっと素敵です。私はアーティーに大学構内のまだ枯れていないオークの木に
付いていた地衣を送ります。

「クラークの一年」太田雄三著

P28-32 クラークの第4信 妻あて。1876年6月5日付。発信地、太平洋上の汽船、グ
ラート・リパブリック号。

 私たちはうまく行けばあす横浜を立ってサンフランシスコに向かっているシティ・
オブ・ペキン号に出会う見込みなので、私たちの旅の様子や現在の状態について簡単
に書いてみることにします。
 私たちがちょうどサンフランシスコを離れようとしていたとき、あなたの5月30日
付の電報が私のもとに届きました。とてもうれしかった。あなたや子どもたちがみん
などうしているか知ることができたこと、またあなたがみんなの様子を私に知らせよ
うと願ったことは私を喜ばせました。
 私たちはこれまでは何も変わったことのない航海でした。不思議なことに、私たち
一行のたいていの人は船酔いに悩んだのに私は全く平気でした。ホイラー、ペンハ
ロー両教授は二日間ほとんどずっと横になったきりで、海神との勘定をとても念を入
れて計算していました。今日は海が穏やかで、二人とも大丈夫です。私たちはこれま
では陸に近かったためたいてい霧や雲や風につつまれていましたが、ようやくいまは
広い太平洋のまっただなかに乗り入れたといってもまずよい所まで来たので、これか
らはずっとよい天気が続くはずです。私たちは一日におよそ175マイル進みます。今
月26日以前に目的地に着くことはまず望めないと思います。
 この船にはさまざまな国籍のおよそ30人ほどの一等船客と300人か、それ以上の数
の中国人の男女および子どもたちが三等船客として乗っています。水夫やボーイはみ
な中国人で、英語を知らないことは驚くほどです。でも、まあ能率よく働いていま
す。この船の高級船員たちは有能で親切そうに見えます。
 今日私は日本語のイロハ47文字を習いました。それらは初歩の学習者がおぼえやす
いように韻文の形にならべられています。
 乗客の中には日本の紳士が7人、婦人が一人います。私は吉田氏〔駐米公使〕の秘
書官の一人の浅野氏と一緒です。彼はアーティーくらいの大きさのとても気持ちのよ
い、頭のよい紳士です。私は外国語を習得することにとても天分をもっているので、
日本に到着したとき、幾分なりとも実際に役立つくらいは航海中におぼえるつもりで
います。
 農学校やうちの一人一人については万事うまくいっていると思います。アーティー
にいろいろなことを自分でやって、あまりカナバンさんに何もかもまかせきりにしな
いように言ってください。幾分でも責任を分担して物事がどのように処理されるかも
自分で覚えるのは役に立つでしょう。私がうちや農学校の事情になるたけ通じていら
れるように、うちや農学校のさまざまな事柄について手紙に書いてください。アマス
トの町で起こっていることについては新聞で読むだろうと思います。
 パーサにパパのベッドの中ではとてもやさしく機嫌よくして、ママをけとばしては
いけませんよ、と伝えてください。
 ヒューティーは一生懸命勉強して私が帰るまでに読んだり、単語を綴ったり、書い
たりすることができるようになっていなければいけませんよ。私は彼が立派な学者に
なると思っています。ヒューティはできるだけたくさんの植物のラテン語の名前を覚
えなければなりません。そしてアーティーは彼を土曜日ごとに植物採集に連れていか
なくてはいけません。
 ドティーは料理を習ってママの家事の手伝いをしなくてはなりませんよ。私は彼女
がうちでも学校でもよくでき、よい感じを与えるだろうということがわかっていま
す。
 リリーは毎日大きなじゃがいもを4つと十分な肉をたべさえすれば、よい女の子に
なるでしょう。もし、学校に行くことが彼女を弱らせるなら、ぜひ彼女をペットと一
緒にかごに入れて、たくさん食べさせてください。私は彼女が強い元気な子どもにな
ることをとても願っています。
 ミンとファンについて言えば、私は彼女たちはこれまでのところかなりよくやって
いると思います。私が二人にあらゆる面でいっそうよくなることに大きな野心を抱く
ことを希望します。ミニーにそれがどんなに努力を要する難しいことに感じられても
足の指を外に向けるように言ってください。やろうと思えばできます。そして、それ
を実行すれば何年かたってそのことをとてもよかったと思うようになるでしょう。ミ
ニーには音楽を、ファニーには絵をなまけないでやらせてください。二人がよい文章
を書くように気をつけてください。
 私はアーティーが卒業までにさまざまな種類の乾燥した植物のすばらしいコレク
ションを作り上げるだろうと思いますが、彼が熱心に植物学を研究する一方、自分の
他の義務を怠らないことを望みます。もし彼が、悪い習慣を身に付けず、自分の健康
に十分な注意を払うならば、彼には科学者としてのすばらしい将来があるかもしれな
いと私は思います。
 私たちの「ハニー」については、私はどんな忠告を与えるべきなのか分かりませ
ん。彼女は善良にしてかつ役に立つ人間であるように努めさせなさい。そうすれば、
誰かが彼女のために素敵な場所を備えてくれるでしょう。
 そしてあなたにはどんな勧めをしましょうか。「元気を出しなさい、そうすれば神
があなたの心を強められるでしょう。」


クラーク第10信(「クラークの一年」p102-106) 妻あて。1876年8月14日付。発信地、日本国札幌。

 大急ぎで一筆したため、あなたに私が北海道の荒野から無事帰還したこと、また、東洋における最初の農学校である私たちの札幌農学校の開校式が成功裏に終わったことをお知らせしたいと思います。
 式は今朝10時に農学校の校舎内で挙行されました。その校舎の前にはときわ木と花で作られた美しいアーチが立てられました。黒田長官はいま言った時間に到着して、講堂へと案内されました。そこにはきちんとした感じのよい淡黄色の制服を着た学生たちが集まっていました。学生たちの後には開拓使の役人と雇い人が立っていました。長官の右手には調所校長、学長[クラーク自身]、教職員が並び、閣下の左手には陸軍将校たちと、2人のアメリカ人を含む来賓が並んでいました。長官の外はだれも座ることが許されませんでした。式はまず長官の式辞によって始まりましたが、それは日本習慣に従って一人の役人によって代読されました。
次に調所校長のあいさつが同じように別の役人によって読み上げられました。
ここまではすべてチンプンカンプンの日本語で行われました。
それから一人のヤンキー[クラーク自身]の声がその国ではじめて響きわたりました。
それは学長が立ってすばらしい西洋式のやり方で「長官閣下、校長、札幌農学校教職員と学生諸君、ならびに来賓の諸紳士、云々」と演説を始めたからです。
その演説は即席のものでしたし、演説についていける通訳は一人もいなかったので、演説者ははじめから終りまで自分で思う通りの演説をしました。
それで、もし彼の演説が開校式という場に本当にふさわしいものでなかったとしたら、それは彼のせいで、彼だけがそれに対する責任を負うことになるでしょう。
この演説者の名前はスミスといいました。
それから堀副長官のあいさつが代読され、最後に学生の所感が彼らの一人によって立派に述べられました。
私たちは次に隣りあった建物に用意された軽食を明るい気持ちで食べました。
学長の席は長官の右隣りにありましたが、彼らに2人とも、彼らが知るかぎりでは万事がとてもうまくいっていると思うこと、また、彼らは「何らの困難も予想できない」ことにおいて一致しました。ウォーナー教授[アマースト大学教授で「何らの困難も予想できない」は彼の口癖]
 かくして、愛するアマ-ストを立ってから3か月目の終りに私は最初の第一撃を繰り出しました。
そして私たちは、あまりせっかちにならずに、明後日に時間割を決めはじめ、その翌日から実際の授業を始めようと思っています。
(略)


【解説】8月14日の開校式について、クラークのこの第11信にかなりくわしく、少しユーモアをまじえて書かれている。
ただし、クラークの開校式の演説が彼の言うように即席のものであったとは考えられない。
この演説は「開拓使日記」明治9年19号に「札幌農学校開業ニ付教頭ダフルユー・エス・クラーク氏演説」(「新北海道史」第7巻、p1228-1229)として、その全訳が掲載された・・・訳される前のクラークの演説は例えば北海道大学図書刊行会から1975年に復刻出版された「札幌農学校」の中に印刷されているが、これを見てもクラークの開校式での演説は注意深く用意されたものである。
ただし、クラークは式場で原稿を取り出してそれを棒読みにすることはせず、恐らく演説草稿の内容をあらかじめよく頭に入れておき開校式の当日はほとんど用意した原稿を見ずに演説したのである。
だから、聞き手はクラークが即席で演説しているような印象を受けたかもしれない。

「北大百年史編集ニュース」第5号掲載の大島智夫「大島正健の東都遊学」の中に一期生の大島正健がクラークの演説を聞いてその日のうちにその内容を書きとめた記録が収められている。大島正健の記録は全く記憶だけに頼ってまとめられたものらしいから、それが「開拓使日記」に載ったクラーク演説の1300字あまりに対して、500字弱の長さしかないのは驚くにあたらない。しかし、ちょっといぶかしく思われるのは短い大島正健の筆記にあって、3倍近くの長さのあるクラークの演説草稿(およびその訳)と思われるものの中に対応するものがない事項がかなりあることである。
これはもしかするとクラークが必ずしもはじめから終わりまで用意した草稿通りしゃべったわけではないことを示すのかも知れない。(p107-108)


クラークの第18信 キャプテン・ウィリアム・B・チャーチルあて。1876年11月19日付。発信地、札幌。

 親愛なる弟へ。
 あなたのよい手紙とイラストレイテド・クリスチャン・ウィークリー〔絵入りキリスト教週報〕のはいった貴重な包みありがたく受け取りました。今日私はそれを私の聖書を読むクラスの生徒達に配りましたが、うまいぐあいに、神の摂理か、私に書面で「聖書を教えてくれるよう」請願した16人の気高い若者に対してその新聞が16部ありました。私は明日の朝、農学校の授業を聖書の一部を読み、学生達と一緒に主の祈りをとなえることによって始めようと思っています。今日学生達はみんな出エジプト記第20章の最初の17節〔モーゼの十戒〕をあやまりなくとなえることができました。このように日本政府の統制下にあるすべての学校、大学では法律によって禁止されているにもかかわらず、聖書は札幌農学校において一つの教科書となったのです。
 神は私に黒田長官に関して特別な恵みを与えてくれました。黒田長官は東京にある日本政府の最も勢力のある高官の一人であり、北海道においては彼の意志が最高の権威を持っている人です。この夏、長官と一緒の旅行中、私は彼と宗教について自由に語り合い、最後に農学校で聖書を使用する許可を求めました。彼は個人的には異議はないけれど、法律と政府高官の意向の手前聖書使用は禁止せざるを得ないと答えました。私は彼に、聖書は書物中の最善のもので、日本でも遠からず他のすべての文明国におけるようにきっと聖書が教えられるようになるに違いない、長官が彼の新設の農学校に聖書を導入するのを許せば、大いに彼の誉れとなるだろうと言いました。彼はそれに対して、私が聖書の含む真理を学生に教えるのは構わないが、聖書をみんなの前で読んだり、個人的使用のために学生に聖書を配ったりするのは困ると言いました。私は、それは非常に残念だ、と言うのは、私は既に聖書を30冊持っているから、でも命令には従います、と答えました。それから約一か月後、長官は私を呼んで、学生によい道徳教育を施してもらいたいと言いました。私は、自分は聖書に絶えず言及せずに道徳を教えることはできない、だから道徳を教えると長官を怒らせるようなことになるのではないかと恐れる、と答えました。翌日、彼は聖書の使用禁止は撤回する、思うようにやってよろしいと私に言いました。それで私は手持ちの聖書を配って、それらを活用することにしました。さて、注意することがあります。あなたはこのことが全然新聞に出ないように気をつけてください。そうでないと波風が立つかもしれません。ご承知のように、日本は台風の国ですから。
(略)



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