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報徳の人・鈴木藤三郎

村松梢風に鈴木藤三郎について記した本があると知って、県立図書館から借り出してきた。村松梢風氏は、「鈴木藤三郎伝」(鈴木五郎著)に「発明王の面影」という序を呈している。その梢風氏に鈴木藤三郎について記した本があると知って、探していたのだが、ようやく県立図書館にあるとわかって昨日借りてきた。
「梢風名勝負」(読売新聞社」の「砂糖と醤油」というのがそれであるが、図書館にもなかなか蔵されているところは少ないのである。
11月28日、29日には、森町で「町並みと蔵展」があり、今回のテーマは「発明王鈴木藤三郎を生んだ町」である。
それにあわせて少しずつ紹介してみよう。

村松梢風氏は、「鈴木藤三郎伝」(鈴木五郎著)に序文を寄せられている。それによると、鈴木藤三郎と福川泉吾氏が創設した「私立周智農林学校」で教員をされていて、修学旅行で生徒を引率して上京するときに鈴木農場に一泊し、その際鈴木藤三郎を見たとある。">序文を寄せられている。それによると、鈴木藤三郎と福川泉吾氏が創設した「私立周智農林学校」で教員をされていて、修学旅行で生徒を引率して上京するときに鈴木農場に一泊し、その際鈴木藤三郎を見たとある。

郷土の偉大な先輩について綴る村松梢風の目は温かい。


 砂糖と醤油

  遠州森

 遠州の森というところは、近年、森の石松で大層有名になった。事実その以前には、広く世に知られているほどの地名ではなかった。東海道筋から、北にはいること3里、秋葉街道の関門にあたる。山間の小都邑(とゆう)である。太田川がその傍(かたわ)らを流れ、南の一方は僅(わず)か開けてはいるが、東西に山が迫っているから、発展しようと思っても発展する余地がないといったような、昔からちっとも変わらない田舎(いなか)の町である。近年どこでもやるように、隣接の4,5か村を合併したため人口も増加したであろうが、本来の森町は1万にも満たぬ人口で、それが殖(ふ)えもせず減りもせず、日本全体の膨張とはまるで無関係であるかのように、同じような状態で、半世紀も1世紀も経過して来た、かなり古風な町である。
 それが森といえば、すぐに石松という。石松だって実際は森で生れたわけではない。幼くして父を喪(うしな)い、あわれな孤児(みなしご)となってさ迷っていたのを、森の五郎という侠客(きょうきゃく)が拾い上げて育ててやったのが、後に清水の次郎長の子分となって、森の石松と名乗ったのである。
 石松ばかり有名になったが、ほんとうをいえば、もっと特筆すべき人材が森から出ている。本編の主人公となるべき鈴木藤三郎はその第一人者だが、それ以外にも伝えるに足る人物がないではない。それらのことは追い追い書くとして、いったい文化の根源のないところからは人物が出にくいものである。
 森というところは、城下町でもなく、今もいう通り発展も飛躍もしない山家(やまが)の小さな町だが、不思議に、旧幕時代から引き続いている文化の流れのようなものがあったらしい。ずっと古いことは分らないが、慶長の頃(ころ)、有名な知恩院の梵鐘(ぼんしょう)を鋳た、日本鋳物師総大工山田七郎左衛門という人は、遠州森の住人であること、鐘の銘によっても明かである。降(くだ)って徳川中期とか、幕末の頃までは、この土地の商売はかなり繁栄したらしい。ある年十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が江戸を立って東海道を上って来た。「膝栗毛(ひざくりげ)」で、この文人の名は海内(かいだい)に騒がれていた。それを知ると森の旦那(だんな)衆数名が相はかって、どこでどういう風に頼んだか知らないが、十返舎一九先生に、東海道から3里も奥へ入った森へ、わざわざ駕(かご)をまげて来て貰った。
 その時旦那衆の考えでは、何しろ膝栗毛の作者だから、無類の通人で洒落(しゃれ)沢山の人だろうと予想していたところが、一九もその頃は鬢髪(びんはつ)霜をおき、顔に深い皺(しわ)をたたえて、口数少なく、酒も飲まず、扇子を額に当ててさしうつむいていることが多く、問えば物静かに答えるといった態度であるので、一同案に相違したという伝え話を、私は土地の故老から聞いたことがある。
 この話は、あの滑稽(こっけい)本の作者の真面目(しんめんぼく)を現わしてもいるが、私がここに引用したわけは、当時の森の旦那衆には十返舎一九を招待するほどの、文化的興味と教養があったことが想像されるからである。
昔は、遊歴の画家、詩人、書家などが多かった。相当高名な人でも、居すわっていては自分の書画が売れないので、旅に出て、土地土地の人の求めに応じて揮毫(きごう)をするのだ。この風習は、明治の末頃まで残っていた。そういう遊歴の先生たちが、森へは盛んにやって来て、長く滞在したものだ。文雅の好事家(こうずか)が多かったというよりも、この土地の経済力がそれだけ高かったことを証明しているのだ。
 ある有名な詩人が森へ来て、作った詩の中に、この土地を京都になぞらえて「宛然(えんぜん)これ小京都」とかなんとかいって礼賛(らいさん)した。多分にお世辞がまじっていることは勿論(もちろん)だが、東西に山が迫っていて、町に添って流れている太田川の清流を鴨川(かもがわ)にたとえ、その山紫水明(さんしすいめい)をたたえたことは満更当っていないことはない。
 とにかく森には富商が多かった。前に書いた日本鋳物師総大工山田七郎左衛門の後裔(こうえい)は連綿として続いて中町という所に住居し、代々先祖の名を継承して釜屋(かまや)即ち鋳物業を営み、維新頃まではずいぶん栄えた名家であったらしい。明治の終りまでもその家は残っていたが、家道は傾いて昔の面影はなかった。
 海道筋を離れたこの山間の小都邑(とゆう)が繁栄した主な理由は、先(ま)ず秋葉街道の関門であることを挙(あ)げなくてはなるまい。ここから秋葉山までは山道8里である。火伏せの神といわれた秋葉三尺坊大権現は、全国に信者が多く、秋葉講という講を作って、春秋2期には参拝者が幾万の数に上った。汽車も電車もない時代だから、それらの道者(どうしゃ)は東海道から陸続として歩いて来たのだ。そして最後の泊り場が森であるわけだ。翌日8里の山道を一気に歩いてお山に到着するのだ。だからこの土地には旅籠(はたご)屋が多く、旅の道者が落して行く金も少なくなかった筈(はず)である。

次が、森には古着屋が断然多かった。この古着商が断然多かった。この古着商は、近村の百姓を顧客にするだけではそう発展する道理はない。彼らはかなり手広く商いをしたものらしい。
 その一人に福川泉吾という大商人があった。彼は明治の末頃80歳ぐらいの高齢で歿した人だから、旧幕府時代すでに働き盛りであったわけだ。
 この福川の仕事のしぶりは、番頭手代を連れて上方(かみがた)へ行って古着を大量に買い込み、それを伊勢の四日市辺から船に積み込んで奥州(おうしゅう)へ送って売り捌くのだった。当時の上方と奥州地方との富の差がこれをもっても知れる。
 福川はこの仕事を年々歳々くりかえして、富を築いたが、そのうちに横浜が開港になって、外国貿易が始まった。炯眼(けいがん)な福川ははやくもこれに着眼し、国産の茶を輸出することを考えた。試みに遠州のお茶の見本を持って来て外商に見せると、忽(たちま)ち商談が成立した。
 彼は国へ帰って茶の買い集めに奔走し、荷物がまとまると、それを同国相良(さがら)の港から横浜へ輸送した。
 遠江(とおとうみ)は昔から、京都の宇治、武蔵(むさし)の狭山(さやま)と並んで茶の産地であった。・・・遠州でも、茶のよく出来る土地は、周智(すち)、小笠(おがさ)、榛原(はいばら)の3郡であって、その中でも、周智郡の中心である森町付近の茶は最もすぐれているとされていた。
 福川泉吾は、遠州全体に亘(わた)って茶を買い集め、後には駿河(するが)の安倍(あべ)郡あたりからも買い求めて、横浜へ送った。・・・
 福川泉吾は、茶の輸出で巨利を博して大富豪となった。彼はその金で山林を沢山買い、他県までも手をのばして日本一の山持ちになった。養嗣子忠平の代になると益々膨張して日本の長者番付でも個人では1,2位にあげられるくらいになったが、基礎は傑物泉吾が築き上げたのである。
 泉吾はこのような大商人だから、散ずべきところには散じたであろうが、私生活には一文も徒費しなかった。実に倹約無類の人であった。彼は一厘(りん)をも惜しんだ。森から東海道線の袋井とか掛川へ行くのに、電車も馬車もない時代で、人力車ならあったが彼は決してそんなものには乗らないで草鞋(わらじ)ばきで歩いた。毎年の氏神の祭礼の時は各町内が山車(だし)を出し町中を練り歩き、浮かれ回るのだが、福川家だけは祭礼の提灯(ちょうちん)も出さず、夜9時になると石油のムダ使いをしないために家の中の灯火も消してしまった。
 泉吾の倹約に関する逸話は無数にあるが略し、要するに遠州森の環境は大凡(おおよそ)以上述べたような土地であった。
 この遠州森へ、本編の主人公鈴木藤三郎は安政2年(1855年)11月18日に生まれたのである。後年彼が偉大なる発明家となり、産業革命の先駆者なったのも、この環境に刺激(しげき)された点がなかったとはいえないだろう。
 又(また)ここに蛇足(だそく)を加えるならば、筆者の私も挿絵(さしえ)の富永謙太郎氏も、共に森の出身なのである。両者が協力して、郷党の大先輩の生涯を世に伝えることになったのも、一種の奇縁として、感慨なきにしもあらずだ。


幼 童

紺屋の話と藤三郎への改名

茶商売と藤三郎の結婚

 その正月に、藤三郎は生家の太田家へ年始に行った。何となく話し込んでいるうち、茶の間の片隅(かたすみ)においてある一冊の薄っぺらな本が目についたので、手に取って1,2枚読んで行くうち、藤三郎の心は、全くその本に引きづられてしまった。
 それは遠江報徳社から発行された、二宮尊徳の「報徳」の教えを書いた本であった。(※1)
藤三郎は、名状しがたい絶大の感動をその本から与えられた。その本に書いてあることの中には、読んだだけでは解(わか)らない点もあったけれども、大体として、人が生れて来て、生きて行く上の心得、つまり道徳をわかりやすく、しかも実生活に即して、訓(おし)えているのであった。藤三郎はこれまでそんな問題について考えて見たことはなかった。商人は、只(ただ)金を儲(もう)けさえしたらいいのだと思った。しかし実際はそんなものでなく、自己の存在に対しては必ず他がある。他あっての自己である。自分の行為が他人、あるいは社会に対してどういう影響を与えているかということが分らなくては、人間社会の秩序は保たれない。自分を益することは同時に他を益することでなければならぬーそういったような人間の歩むべき道を、簡単ながらこの本は教えている。(※2)
 藤三郎は「はっ」と眼(め)がさめたような気もちがした。実際この出来事は彼の「第二の誕生」だといってもよかった。



 心機一転ー茶商いを止め家業に専念し、また学問に励む

 藤三郎は、明治10年1月から、自分の家業を、報徳の訓えの、誠心、勤労、分度、推譲、の4か条にあてはめる決心をし、それを実行した。
 それまで、彼の家の経済は、養父も別にこくめいに帳面など付けなかったから、全く不明であったが、彼が調査して見ると、1か年の家の経費が260円で、売上げ金額が1,050円であった。これで見ると現在の純益歩合は約2割5分ということになるが、菓子商で2割5分の利益は少し困難で、確実なところは2割である。そうすると50円ばかり不足になる。
彼は報徳社から、尊徳の経済復興法の基本になっている「家政経費調べ」という本を借りて来て、これにならって自家に経済を分析して見た。その結果、食物衣類をはじめとして経費の項目が凡(およ)そ130余種あったが、その中には、ぜひとも欠くことができないものと、欠いてもさして苦にならないものとある。それを一々よりわけて見ると、節約の出来る経費が50円位あることが分った。
 藤三郎は朝は5時に起きることにきめた。しかし困ったことに、この2,3年茶貿易をやっていて茶の出盛り時期の外は用がないので朝寝坊のくせがついていた。又この年の上半期は夜学に通っていて12時前に寝ることがないので、朝もなかなか目がさめない。といって人に起して貰うのはいやだから、何かこの習慣を改める法はあるまいかと考えていると、「眼ざまし時計」というものがあって、浜松の宮代屋という小間物商(こまものしょう)が名古屋から買って来て持っていると聞いたので、わざわざ5,6里離れた浜松へ出かけていって、無理に7円50銭で譲ってもらって、いよいよ明治10年1月1日から、この目覚し時計で5時には必ず起きて仕事をやりだした。
 二宮尊徳が小田原侯から、野州桜町の4千石の領地が非常に荒廃してしまったので、その復興を頼まれた時、
「決して金はいりません。この荒地を興すには、荒地の力で致します。わが国を初めてこの地上に拓(ひら)いた人は、決して外国から金を入れたのではない。わが国固有の力で拓いたのです。私もそのやり方で、桜町4千石の復興を致します」
 と答えて、「荒地の力で荒地を興す」方法で、開拓が出来上ったことは有名な話である。
 藤三郎は、自分は商業だけれども、二宮尊徳のこの精神と方法でやって見ようと思ったのである。
 藤三郎は朝5時にはキチンと起きて、しかも元日から仕事を始めたから、家の者はみんなびっくりした。こんな工合(ぐあい)に一心に働いて、さて年の暮になって総決算してみると、売上高が1,900円余に上って、経費は予算の通りだったから、100円の金があまった。
 そこで翌年は、すでに100円手許(てもと)にあるから、250円経費が掛るとしても、2,000円の売上げから、150円儲かればいいわけである。ざっと7分だが、先(ま)ず1割の利益をうればいい。それだけ品物を安くすることができる。つまりこれが「推譲」である。ところが、値が他の店より安いから、売上げ高がずっと増して、2年目の終りには3,500円となった。
 このやり方で5か年間続けると、5年目には売上高が1万円、利益は僅(わず)かに5分とっても十分引合うようになってきた。資本金も1,200余円出来た。
「荒地の力をもって荒地を拓(ひら)くという主義は、どんな事業にも応用されるものだ。世の中にこれで出来ないことはない」
 と藤三郎は固く信ずるようになった。
 彼は町の若者達に料理屋へ誘われるといつも快く同道したが、そんな時彼はわざと酒肴(しゅこう)をうんと註文(ちゅうもん)して、費用が驚くほど掛るようにした。それで「鈴木が一緒だと高くなって困る」ということになってついに誰も誘いに来なくなった。
 彼は帳簿の記入を綿密にした。記録の整頓(せいとん)と計算の正確とには最も注意して、一銭一厘もおろそかにしない。
 養父の伊三郎は非常に酒が好きだったので、藤三郎は毎晩必ず晩酌を捧げていたが、一、何銭酒代と一々帳面に記録するので、養父はそれが面白(おもしろ)くない。
「そんなことをして飲む酒はうまくない」
 といって養父は不服だったが、藤三郎は根気よく報徳の道とその仕法を説明したので、後には養父も快く晩酌の盃(さかずき)を取るようになった。
 ともかくもこの体験で、藤三郎の二宮尊徳の報徳の訓えに対する信念は不動のものとなった。そしてこれは後年、なおこの仕法を、大工業に、植民地農業にまで応用して、素晴らしい効果をえることになるのである。



砂糖


氷砂糖完成

 明治12年、藤三郎が24歳の暮に長男が生れて嘉一郎と名付けた。藤三郎も父になり、家業は報徳の仕法で年々盛大になって行ったから、そこに文句はないが、夢中になって、無駄(むだ)に蜜ばかり煮つめているのが、一家の悩みの種であった。
 また2,3年たって、明治15年の秋、二宮尊徳の27回忌が野州今市宿で行われるので、森町の報徳社でも参拝の有志をつのり、藤三郎も誘われたので、社中の数人と一緒に出掛けることになった。
 一行は野州今市へつくと尊徳の墓に参り、そのあと数日に亘(わた)る法会にも列席し、全国から集った先達たちの講話を聴いて、又帰路についた。宇都宮まで来て、稲屋という宿屋に泊った。
 この晩、奇蹟が起った。一同床を並べて眠っていたが、夜半ふと藤三郎が眼をさますと、隣室の話し声が襖越しに聞える。(※)聞くともなしに耳を澄ましていると、それは化学の話である。しかも、日頃知りたいと念じていた結晶の学理を、一人の人が熱心に相手に説いているのであった。藤三郎の眼は冴(さ)えかえった。体中を耳にして聞いた。一語一語、心をうたれることばかりだった。自分が今までやっていたことは、全く学理にそむいていることを教えられた。
 藤三郎が独(ひと)り旅であったなら、夜中でも起きて行って、隣室の人からもっと詳しく話を聞いたであろうが、つれがあるのでそれもできなかった。しかしこの話だけでも、失敗の原因が分ったので、将来の実験に対する希望が湧いて来た。彼は一刻も早く郷里へ帰って実験をやり直したくなった。
 それにしても、宇都宮の宿屋で、結晶の学理(注:「砂糖は純になれば、自然に結晶するものだ」藤三郎談)を話していた人はどういう人であったろう。藤三郎にもそれは分らずじまいであったが、聞いたことは事実であった。後年藤三郎の精製糖事業が大成した頃になると、あれは二宮尊徳の霊が、彼の熱心に感応して、奇蹟を現わしたのだという風に、この話は神秘的に伝えられた。・・・


※ 藤三郎談(「斯民」第1編第9号)によると、「一寝入してから便所へ参りますと、遙か離れた座敷で2,3人の客人が何か声高に議論をしている」とある。

熱心凝結して砂糖塊まる
ところが誠に不思議な機会から目的を達する端緒を得たのであります。それは明治15年の10月、二宮先生の27回忌に、日光今市へ友人2,3名とともに出かけた時の事であります。不便な時節でありますから、往復におよそ1ヶ月を費やしました。今市では始めて二宮尊親氏にお目にかかり、その他奥州の人たちにも逢いました。その帰り道であります。宇都宮に一泊しまして、その頃一新講(明治6年に静岡で結成された講で全国主要街道筋の真面目な優良旅籠を指定した)の定宿をしていた稲屋という旅館にとまりました。ところがその夜、一寝入してから便所へ参りますと、遙か離れた座敷で2,3人の客人が何か声高に議論をしている、書生さんというふうであります。その話の中にただ一言「砂糖の結晶」という語が耳にとまり、ハット思って縁側につっ立ったままで、耳を立てておりますと、その話は永うございますが、要するに、砂糖は純になれば、自然に結晶するものだというのであります。これを聞いて、はたと心に覚ったことがある。今までは砂糖は人の力で固めるものと思い、何か外部からくっ付ける算段ばかりしていましたが、天然に結晶体の定則があって、純になれば自ら固まるべきものであったのを、今までは自然の理法を妨げておったのであったと心付きましてからは、一日も早く家に帰りたくなりまして、東京に道連れを残し一人で遠州へ帰りまして、早速この原則に基き、今まで付けよう付けようとしていたのを、反対に取ろうという考えで実験にかかりましたところ、果して程無くごく小さな結晶を見ることができるようになりました。その時の嬉しさはなかなかお話することができません。


お父さん、氷砂糖が出来ました

砂糖が始めて結晶する時は、電気の作用であるか、ぱっと美しく光り、それから段々結晶するのであります。

  助ける神

 岡田の1万円貯金も、たしかに悪いことではないだるが、藤三郎の心境とは甚(はなは)だ距離がある。又岡田はしきりに新事業は危険を説くが、事実危険もが多いだろうが、すべての人がそれを恐れて新事業に手を出さないとしたら、国家の産業の発展は有りえないのである。勤倹貯蓄ということも、いたずらに金を積んで、その利殖を手を束(つか)ねて待つというような、消極的態度をすべての人がとるとしたら、国家の前途のためにむしろ憂えなければならないことだ。多年の後に1万円が蓄積されたとしても、それを受けつぐ子孫に、それを活用する手腕がなかったならば、ただ財産を当てにして怠惰な生活をする無気力な国民を養成するだけの結果となるのだ。
 藤三郎の考え方は、岡田とまるで違っているが、岡田と議論をしても始まらないから、黙って暇(いとま)を告げ、新村と一緒に大場の宅を出て、森をさして帰って来た。
 新村は自分の骨折り甲斐(がい)がなかったので、藤三郎にひどく同情して、徒々(みちみち)もいろいろと慰めてくれたが、さてこれ以上に彼にも名案はない。
 新村と別れて家に帰りついたのは、もう夜も10時であった。藤三郎の家から2軒おいた隣が「泉忠(いずちゅう)」という福川泉吾の宅である。その家の前を通ると、門口の障子にまだ灯影(ほかげ)がさしていた。その瞬間に、福川に相談してみたら、という考えがフと浮かんだ。
 福川泉吾は大商人でもあり、大富豪でもあるが、私生活は極端に質素で、それも度を越して1厘1銭を惜み、町の氏神の祭礼に、当然出すべき町内の寄付金(きふきん)さえ出さぬという締り屋である。遠州の山奥へ番頭を伴(つ)れて山廻りに出掛ける時、茶店で休んでも一銭お茶代もおかないので有名な人であった。そういう風だから、町の人とも交際(つきあ)いはしない。
 藤三郎は同じ中町で2軒隣に住んでいるといっても、身分も違い、年齢も違うので、外で会えば朝夕の挨拶(あいさつ)をするとか、黙って頭を下げるだけでこれまで泉吾と話などしたことはない。そういうわけだから、今度の氷砂糖の件についても、福川に資金の相談をするなどということは、全く念頭に浮んだことさえなかった。
 今福川のことを思いついたのは、溺れる者は藁(わら)をもつかむという気持である。信頼しきっていた岡田に冷たく断られてしまった以上は、確信をもって相談のできるという相手はないが、福川はともかくも大金持である。当って砕けろという気持で、いったん我が家へ入ってから、書類を持って、再び福川を訪ねて見る気もちになったのであった。
 泉吾はまだ起きていて、店の間の帳場で、ただ一人で、帳面を見ながら算盤(そろばん)を入れていた。
「才さ、何か用かの」
「折入ってお願い申したいことがあって、夜分ですけれどお伺い致しました」
「まあお上んなさい」
泉吾は帳場格子(ごうし)の中から出て来た。でっぷりと太った体で、眉(まゆ)は太く下り、眼は鋭く、大きな鼻で、一見して異相だが、さすがに長者の風格は争われない。
 藤三郎は、ここ数年来のことを語り、いよいよ工場新築の資金を得ようとして岡田氏に懇請したが断られたてんまつを詳しくのべた上で、氷砂糖創業予算表やその他を差し出して一覧を願った。
 それまで無言で、藤三郎の説明を聞いていた泉吾は、それらの書類を手にとって一つ一つ丁寧に見ていたが、見終わると、静かに顔を上げて云った。
「私は、あなたの事業は見込みがあると思いますな。ことにあなたの事業に対する精神がよい。薄利の予算に基いて一生懸命努力したなら、世の中で成功しない仕事はない。それを世間の人は、初めから大層儲かるような予算を立てて着手するものだから、結局費用倒れして、たいていの事業は失敗するのです。しかし、事業の初めに、最低の利益を見て予算を立てるということは、なかなか出来ないものです。よろしい、承知しました。事業に直ぐお掛りなさい。資本は私が御用立てしましょう」
 藤三郎は自分の耳を疑ったくらいであった。しかし泉忠の、鋭く輝く眼は、じっと自分の上に注がれている。
 藤三郎は意外に思ったが、福川は軒を並べてすぐ近所に住んでいるのだから、この数年来藤三郎の氷砂糖製造についての熱心さや、それが完成したことや、この新事業の有望であることはとっくに見抜いていた。そして藤三郎の人となりについても、将来のある青年と、ひそかに望みをかけていたのである。
 福川泉吾は自分の生活に対しては倹約無類であっても、他人に対して強欲(ごうよく)非道ではなかった。事業家としても眼が利(き)く上に、胆力があって、有望な事業に対してはどしどし融資した。余談にわたるが、筆者(村松梢風)の父なども、祖父の代から金方をしていた森町の「酒八」という大酒造家が倒産したので、それの整理の必要上、この福川から数回借金をしたが「泉忠さんほど気持よく金を貸してくれる人はない」と云っていたのを憶(おぼ)えている。事業の資金でなくても、筋が通れば貸してくれたので、しかも高利ではなかった。
 藤三郎はこれで浮び上った。灯台もと暗しで、大廻(まわ)りをして、最後に最も手近に手をひろげて待っていてくれた真の後援者を発見したのだった。強情我慢である一面、自分を信じてくれる他人の好意に対しては人一倍感激性の強い彼の眼からは、涙があふれ落ちて来た。


精製糖事業での藤三郎の功績の一半は、実に吉川のものであるといっても過言ではない

村山商店、東京での精製糖事業協力を断る

藤三郎は考えた。東京への工場移転も、他の援助に頼ろうとするからこういう結果になるのだ。それよりは郷里で今の工場を拡張して、利益を積んで、自力で東京へ出られる日を待つより外にないと。
帰りつく早々福川に一伍一什(いちごいちじゅう:一から十まで)を報告し、自分の考えを話して、工場拡張費としてなお数千円の融通を頼むと、この事業の有望なことを十分認識している上に、藤三郎を心から信頼していた福川は快くこの申込みに応じてくれたので、12月から第2工場の建築にかかり、翌18年4月には落成した。東京移転は失敗したが、事業は急激に発展した。
この勢いでゆけば、2,3年のうちには東京へ進出することも確実になったが、その時藤三郎の健康は非常に衰ろえていた。多年の辛苦で心身が疲れている上に、事業の急激な膨張発展で、しかも製造から販売まで一人でやらなければならないのだから勢い過労になる。彼はそれを自覚していたので、今後のためにもよい協力者を求める必要がある。それも一心同体になって事業をやってくれる人をと、周囲を見渡したところ、吉川長三郎の外に人はなかった。早速吉川を訪ねて、率直に自分の気持ちを話し、
「おかげで氷砂糖工場は予期以上の成績をあげているので、この調子なら2,3年のうちには東京へ出て、精製糖事業にも着手出来ると思うが、それにはこの事業のために、私とともに生命も財産も投げ出して協力してくれる人が必要だ。私はあんたに、それになって貰いたいと思うのだが、どうだろう」 
 若い吉川は、日頃尊敬している藤三郎からこう云われて、興奮に顔を赤くしながら即座に答えた。
「はい、私でよかったら、どうか一緒にやらせて下さい」
 これを聞いて、藤三郎は会心の笑(え)みを洩(も)らしたが、なお念をおして、
「しかし、氷砂糖はともかく、精製糖ということは、尋常の努力でやり遂げられる事業ではない。今までも、政府の保護まで受けてやりかけた人もあるが、皆失敗している。東京の砂糖問屋などは、精製糖事業は日本では出来ないものだときめているくらいなんだ。それほどの事をやろうというのだから、財産はもとより、生命もかけるつもりでなければならないが、あんたに、それだけの覚悟がありますか」
「はい、私も男です。やりかけた以上は、どんな困難にもヘコタレないつもりです」
「それまでに云って貰えれば私もうれしい。だが中途で内から苦情が出ても困るから、家の人や親類とも相談して皆なの同意を得て下さい」
「承知しました。早速相談して、御返事をすることに致します」
 もうこの時分になると、藤三郎の事業や、その熱烈誠心無比の人柄に対して、町の人は皆驚嘆の眼をみはりかけていた。だから長三郎が家族や親族に相談すると誰も異議をとなえる者はなかった。
 そこで早速2人は、新村理三郎に立会い人になってもらって誓約書を取り交した。今後、共同出資の責任を、藤三郎7分、長三郎3分とすること。互いに毎期の利益はすべて拡張費に投じて、決して事業外に取り去らないこと、などが書かれてあった。
 この時から吉川長三郎は、明治40年(1907年)9月30日に東京で死去するまで、約22年の長い間、藤三郎の無二の女房役として助けたのであった。藤三郎は火のような性格だが、吉川は温厚で人に対しても当りが柔らかい。いつでも調停を買っていた。藤三郎の精製糖事業での功績の一半は吉川のものであるといってもよい。
 氷砂糖工場は、第一に福川泉吾の援助で、第一工場第二工場が完成し、明治19年正月からは、吉川長三郎の協力をえて全般の支配を任せ、その下に工場員としては、身内の鈴木竹次郎、鈴木喜代司、太田文平等。吉川の弟の安間熊重、中根太吉等が幹部として働き、更にその下に相当多数の職工を使用するようになった。
 藤三郎はこれらの人々に、単に仕事ばかりではなく、この事業を経営する根本精神を会得させるため、毎月10の日の夕方、作業が終ったあと全員を一室に集めて、報徳訓を説いたり、共に研究することを始めた。これは東京移転後もずっと続いた。
 全従業員は一致協力して努力したので、忽(たちま)ち従来輸入していた清国福州産の氷砂糖を市場から駆逐してしまった。したがって事業の成績も予期した通り、明治19年以来は毎期の利益が1万円に上るに至った。


東京進出

工場焼失

藤三郎は、早速翌日、横浜へ人をやって、荷物を受け取り、深川の三菱倉庫へ預けた。こんどはそれを担保にして銀行から1万円借りて、5千円の手形は期限前に返済して、すぐに工場の運転を始めた。何しろ原料が極度に欠乏している時であったから、製品の市況は活発で、非常な利益をおさめた。
秋のころになると、戦争は陸、海軍ともに連戦連勝で、銀行も警戒をゆるめるし、清国人商人も追い追い帰って来始めたが、政府も内測を出して彼等を保護したから、原料の輸入も円滑に行われるようになり、藤三郎の事業は戦時中にもかかわらず順調に発展していった。
戦争がすんで、明治30年の夏、藤三郎が欧米視察旅行の帰途、香港へ立ち寄ると、広万泰本店では、彼を賓客として歓迎し、
「あの時はお蔭で没収を免れることができて、じつに有難うございました」
と心からの感謝と手厚いもてなしを受けたのであった。
この広万泰事件を一段落として、藤三郎の事業も、苦難時代を乗り越えて、国運と共に順調な発展をとげたのだった。
日清戦争は日本の勝利に帰し、明治28年4月17日に馬関条約が締結され、一時割譲された遼東半島は三国干渉の結果清国に返還されたが、3億テールの償金を獲得し、台湾は日本の領土となった。
このことは日本の糖業界に黄金時代を招来する根本原因となった。
日本の資本主義は、日清戦争を堺として、一大飛躍をとげた。近代産業革命の花が咲き始めたのはこの時からであった。
 鈴木製糖所の事業も、戦後急激に花々しくなった。
その年、戦勝の勢いに乗って開催された第4回内国勧業博覧会に出品した鈴木製糖所の製品は、
「鈴木藤三郎出品の精製糖は、品質外観一も間然する所なく、香港(ホンコン)の温糖に異ならず。氷砂糖亦然(またしか)り。而(しかし)て其(その)産額は逐年(ちくねん)多きを加へ。昨27年度に於(おい)ては実に425万斤を製出し、氷砂糖の産額又少なからずと云ふ。殊(こと)に欧式の精巧なる50馬力の蒸気機械を装置し、一時に多量の製品を出すに至りては、大に他の当事者の模範となすに足れり。他の地方に於ても続々斯(か)くの如き事業の興起せむことを望む」
と好評を博した。
しかし藤三郎はそれだけでは満足しなかった。砂糖と石鹸の(せっけん)の消費量は一国文化のバロメーターであるといわれている。わが国の砂糖輸入量は、明治元年2,200万斤、10年後には5,400万斤、20年目には1億3,100万斤、明治31年には4億3,600万斤と上って、金額にすると、明治元年に87万円であったのが、31年には2,838万円となって、数量で19倍、価格で32倍となって、綿花類に次ぐ我が国第2位の輸入品となった。
この増加率は加速度的である。そこへ古くから原料糖の産地として有名な台湾が日本の新領土となったのだから、製糖事業は近い将来に国家の一代産業となるべきことは明かである。だがその機運に応ずるには莫大(ばくだい)の資本が要(い)る。これは到底個人の力ではやれない。株式会社組織として多数の力を集積するより外に道はない。それには戦後の企業熱興隆の現在以上の好時機はない。
「やるなら今だ」
と藤三郎は考えた。
吉川長三郎にその考えを話すと、吉川も全く同感だった。
そこで2人で相当具体的な案を立てて、昨年から財政援助を受けている第三十九国立銀行の長尾三十郎に相談すると、彼も国家財政上から見てもこの事業は一日もゆるがせにできないことだと、双手(もろて)をあげて賛成し、なお一層援助をしてくれることを約束した。
横浜の砂糖商安部幸兵衛は、藤三郎から事業発展のため会社組織にする希望であることを聞いて、
「それなら渋沢さんに話してごらんになったらいかがですか。渋沢さんも先年製糖事業の必要を考え、松本重太郎氏等と共に事業の計画をしたが、適当の経験のある人が得られないので、中止してしまったのでした。渋沢さんにあなたの今度の計画を話されたら、必ず喜んで賛成すると思います」
と云った。藤三郎はそのことを長尾に相談すると、渋沢のような財界の有力者が同志に加わってくれるならそれに越すことはないと長尾もいった。安部は早速仲介の労をとってくれたので、渋沢から8月17日に面会したいという招きがあった。
渋沢栄一といえば、当時すでに財界の第一人者であった。東京へ出てからようやく7年、まだ40歳前の藤三郎は、その日を待って、大きな希望を抱いて出かけていった。
その席には、渋沢のほかに、浅野総一郎と横浜の砂糖商増田増蔵と安部がいた。
藤三郎が席について、ひと通り挨拶が終ると、すぐ渋沢は訊(き)いた。
「あなたの御生国はどちらですか」
「遠州の森でございます」
「最初から砂糖の製造をなさっていられましたか?」
「いえ、若い頃の家業は菓子商でございました。それから氷砂糖の研究を致しました訳で」
「それで、学校はどちらを御卒業でしたか」
「いえ、私は学校教育は全く受けておりませぬ。幼少の時寺子屋へ行ったのと、20を過ぎてから1年足らず夜学へ通っただけでございます」
それを聞くと渋沢は失望の色を顔に浮かべて言った。
「ほほう、そうでしたか。先年、私の甥(おい)に、ガラス瓶(びん)の製造を熱心に研究した者があって、なかなかうまく出来るようになったので、相当な事業になろうと思って資本を出してやりましたところが、じきに失敗してしまいました。どうもチャンとした学問の力がないと小規模にやっているうちはよいが、少し大きくやり出すと駄目なようですな。殊に、精製糖事業などというものは、私もわが国に最も必要な事業と考えて、先年も、その道の学者にもいろいろと聞いて見ましたが、一人もはっきりとした説明を与えてくれる人もなければ、製造の方の責任を引き受けようという人もありませんでした。それで私も、この事業は一と通りや二た通りの学問でやれるものでないと、痛感した訳でした。あなたが、その方の学問もあまりなさらずに、大規模な精製糖事業を経営なさろうというのは、少し危険だと思いますな」
藤三郎は、自分は学校教育こそ受けていないが、砂糖精製のことに関しては、多年の研究と実験の結果、今ではどんな博士よりも精通しているという自信を持っているから、渋沢のこの言葉を聞いて彼の方でも失望してしまった。自分に対してこの程度の理解しか持っていないのではいくら弁明してみたところで無駄であると思った。
「精製糖事業は、素人(しろうと)がやろうとしても、なかなか面倒なものには違いございません。しかし私は長年専(もっぱ)らこれを研究いたしました。小規模ではありますが、その製品がどんな物であるかは、ここにいらっしゃる安部さんや増田さんがよく御承知でございます。大体、土を砂糖にしようというのならむつかしいでしょうが、砂糖を砂糖にするのですから、大してむつかしいことではございません、ハハハ・・・」
一座はそれで白けてしまった。
藤三郎は、渋沢が、もし親身になって聞いてくれるならば、十分に説明をしたいと思って、詳しい書類も作って持って来たのだが、こんな具合で、それを見せる機会もなく、そのまま帰ってしまった。
藤三郎は後年になってこういった。
「自分は生涯に3度人を信じそこなったことがある。初めは岡田良一郎氏で、次は村山商店、最後は渋沢氏である」
渋沢の協力を得る見込はなくなったので、初めの計画通り自分達の範囲だけで会社を創立することになった。
しかし渋沢はその直後から精製糖会社の創立を目論(もくろ)んで、明治29年1月大阪に日本精糖会社設立の認可をうけ、そして作業を開始する前に技師2名をイギリスに派遣して、機械の操作と精糖事業の実習をさせた。又精糖技師3名をイギリスから招いたりした。そして製品が市場へ出だしたのは、明治31年になってからだ。
こんな風に、渋沢自身が精糖事業に野心があるために、藤三郎を中心とする精糖会社には、最初から好意を持たなかったのかも知れない。
藤三郎の方は、明治29年9月1日、長尾三十郎の別邸である亀戸(かめいど)の江東梅園で発起人会を開いた。集まった発起人は鈴木藤三郎と吉川長三郎、福川泉吾、岡田良一郎、神谷伝兵衛、安間熊重、長尾三十郎に森一馬、村上太三郎、恒川新助等であった。資本金は30万円として、先ず半額を払い込んで仕事を始めることになった。株式の大半はこの人々で持つことになったので、創立事務は円滑に進んで、間もなく満株となり払い込みも終った。
11月7日は創立総会を日本橋倶楽部(くらぶ)で開いて、予定通り資本金30万円の「日本精製糖株式会社」が設立され、長尾三十郎が社長に就任し、藤三郎は専任取締役兼技師長になった。専任というのは専務よりも一層重い責任を負っているという意味であった。吉川長三郎も取締役になった。
藤三郎と吉川の2人は、会社創立と同時に、従来の精製糖と氷砂糖の両工場を会社に譲渡したので、長年の負債から全く免かれることができた上に、相当の余裕もできた。
いままで鈴木と吉川の住宅は、小名木川の南岸に工場と並んで建っていたが、今度工場拡張の敷地として提供する必要が起ったので、工場の南裏に広い土地を求めて両家の新築にかかった。
 いままで鈴木と吉川の2人は、会社創立と同時に、従来の精製糖と氷砂糖の両工場を会社に譲渡したので、長年の負債から全く免かれることができた上に、相当の余裕もできた。
 いままで鈴木と吉川の住宅は、小名木川の南裏に広い土地を求めて両家の新築にかかった。藤三郎の宅地は7,000坪、吉川の方は3,000坪という風で、どこまでも7分3分の10年前の約束を守って行く吉川長三郎の心情は床(ゆか)しいものであった。藤三郎は宅地内に馬場をこしらえて、健康のために乗馬を盛んにやり、人々にも乗馬をすすめた。
藤三郎は明治21年、32歳の時から冷水浴を始めて、生涯励行した。彼は最初の氷砂糖製法発明のために多年日夜苦心したので、知らず知らず過労となり、23歳の頃は体重は11貫500匁位になったが、冷水浴を始めてからは健康が増進し、42歳の時は15貫500匁になった。彼は自分ばかりではなく、協力者たる吉川を始め工場の幹部達には皆これを勧めて励行させた。
 晩年60歳に近い彼が発明した乾燥機の事業で、北海道の釧路へ行った時など、真冬の早朝、起きると直ぐ宿屋の風呂(ふろ)場へ行って、水槽(すいそう)の水を被って水を浴びたので、壁一つ隣りの部屋に寝ていた宿の女中たちは、その音を聞くと寒くて寝ていられなかったという笑い話もある。

梢風版「鈴木藤三郎伝」 その26 世界旅行

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梢風版「鈴木藤三郎伝」 その28 フランス・ドイツ→ジャワ→台湾→神戸


観世音
 藤三郎は、実生活では二宮尊徳の報徳の教えを基礎としていたが、精神生活上では観世音菩薩を深く信仰していた。毎朝冷水浴をしたあとで、仏前に向かって観音経1巻を読誦(どくじゅ)することは、どんな朝でも欠かしたことはなかった。急用が出来て、汽車の時間が迫っているような時でも、必ずやった。時間がないので、大急ぎで上げている藤三郎の読経の声を聞きながら家の者は「こんな忙しい時は、一と朝くらいやめたってよかりそうなものなのに」とひそかに笑ったものだ。しかし藤三郎としては、これが一日の活動の源泉であったのであろう。どんなことがあってもやめなかった。
 藤三郎が観音を信仰するようになったのは、家の宗旨が禅宗であったことよりも、二宮尊徳が観世音菩薩を信仰していたことの影響の方が多かったらしい。
「報徳記」に、尊徳がまだ14歳の金次郎の頃、隣村の飯泉村の観音堂に参拝した時、そこへ行脚の僧がやって来て、堂前に坐って読経した。その経を聞いていると、金次郎はなぜか歓喜に堪えない気持になった。それでお経が終ってから坊さんに、
「いまのお経は何経ですか」
ときいてみた。
「これは観音経であります」
と坊さんは答えた。金次郎は不審に思って、
「私は観音経なら今までたびたび聞いておりますが、今のように心にしみ通るように分ったことはありませんが」
と尋ねると、坊さんは、
「それは、普通は呉音で棒読みにするから意味が分らないのであるが、今のは国音で訓読みしたから分ったのでしょう」
といった。そこで、金次郎は、懐中をまさぐって銭(ぜに)200文を取り出して、
「これをお供え致しますから、今のお経を、もう一度読んでお聞かせ下さい」
と頼んで、再び聞いてすっかり観音の信仰を得たということが書いてある。


 藤三郎の読んでいたのもやはり訓読で、分りやすい観音経だった。
 ある時、三男の五郎が、
「お父さん、観音経では、どこが一番ありがたいと思いますか」
ときいたところ、藤三郎は即座に
「それは観世音菩薩が、仏心(身?)を以て得度すべき者には、即ち仏身を現じて説法し、童男童女を現じて説法するというように、あらゆる相手の要求に広現してこれを済度する無礙自在(むげじざい)身を持っていられるところだな」
と答えた。
 藤三郎の信仰の中心はそこにあった。
 そして彼の猛烈な発明活動も、もちろん名誉欲や利得欲をも含んでいたであろうが、その奥には、衆生(しゅじょう)の要求に即応してこれを実現してゆく観世音菩薩の一応現(おうげん)でありたいという念願の発露であったのだ。


 藤三郎は鈴木鉄工所で、観世音菩薩の銅像を4体鋳造させた。原型は大熊氏広の作で、丈(たけ)は1丈余り、眉間(みけん)の白亳亳(びゃくごう)は藤三郎の金のカフスボタンを鋳(い)つぶして入れた。
 一体は郷里森町の菩提(ぼだい)寺のある一藤山に、一体は深川の日本精製糖会社裏にある本邸の庭に、あと一体は明治35年8月台湾橋仔頭(きょうしとう)工場の構内に建立した。


台湾観音図

森町に建てたのは、実母ちえの7回忌追福のためであった。当時の曹洞宗(そうとうしゅう)管長西有(にしあり)穆山(ぼくざん)が、
「福寿界無量の功徳有難や 母の為とて建てし御仏(みほとけ)」
という御詠歌を作って、福寿観音と称して今でも同地の霊場となっている。


梢風版「鈴木藤三郎伝」 その36-4 観世音その4

その賞状左のごとし。
   第三回内閣勧業博覧会褒賞証
         静岡県周智郡森町 藤江勝太郎
  烏龍製茶 紅茶
 二種共に香気馥郁(ふくいく)風味また美なるを以て最も外人の嗜好(しこう)に適するを徴す。加之(しかのみならず)さきに台湾に航し烏龍茶を研究して広くその製法を伝う。その有功はなはだ嘉賞すべし。
けだし君、帰朝以来製造に係るウーロン茶はことごとく英米に輸出し、大いに声価を博す。而してその価格のごときは我が国緑茶に比してほとんど一倍の増額を得るに至る。君、しきりに緑茶をして勉めてウーロン茶に改製せしむるの策を講じ、大いに世人の信用を得、勢いあたかも旭日の東天に昇るがごとし。ああ、君の忍耐にしてすなわち剛胆なる、遂に我が国製茶業上に一段の光彩を発揮せしめたりと云うべし。
西人のいわゆる霜雪に遇はわざれば春に逢わずまたいわく、山の よく巨石を穿(うが)つ。君の霜雪に忍耐したる所のもの終に日本商業史に特筆大書すべきの春色の光栄を貽(い)すというべきなり。


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