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二宮尊徳先生(年譜66歳まで)

二宮尊徳先生年表

天明元(1780)                 12月大久保忠真公誕生


天明7(1787)<1歳>7月23日(太陽暦9月4日)相模国足柄上郡栢山村の誕生。父利右衛門35、母よし21の長男。

寛政2(1790)<4歳>弟友吉誕生(常五郎、のち三郎左衛門)
同 3(1791)<5歳>8月5日関東地方大暴風雨によって、酒匂川が決壊し、利右衛門の田畑ほとんど荒地となる。
同 5(1792)<7歳>この年、利右衛門は負債して、田を質として開墾に従事する
同 6(1793)<8歳>金次郎この年に童子教、実語教などを学ぶ。
同 8(1796)<10歳>正月利右衛門伊勢参宮をする。  正月大久保公小田原藩主となる
同 9(1797)<11歳>この年利右衛門は病気にかかる。村の医師村田道仙の治療によって治る。
同 10(1798)<12歳>この年利右衛門再び病気になる。少年金次郎は父に代わって酒匂川の堤防工事の仕事に出る。夜業にわらじを作って配り、力の不足を補う。また、わらじを売った代金で父が好んだ酒を買い求め、父に喜ばれる。この年、利右衛門は田地を売却して2両を得て、医者の謝礼としたが、医師は受けず、半金を出して残りを家計に当てる。
同 11(1799)<13歳>2月2日雇賃金の200文で松の苗木を買い、酒匂川の堤に植える。12月31日3男富次郎誕生。

同 12(1800)<14歳>9月26日父利右衛門病没する(享年48歳)
 この年、父没後、富次郎を西栢山の奥津左衛門に託すもすぐ呼び戻す。先生は朝早くから久野山に薪をかり、夜は深夜まで草鞋を作る。薪をとる途中「大学」を読む。
 12月負債を消却するため、7畝余を1両3分で売却
享和元(1801)<15歳>年末貧窮極まって新年の準備をすることができない
同 2(1802)<16歳>正月大神楽が来るが、戸を閉じて留守をよそおう。
 4月4日母よし約10日病んでなくなる。(享年36歳)先生の悲嘆きわまりなし。
6月酒匂川再び決壊。友吉(13歳)富次郎(4歳)を母の実家に託し、万兵衛方に寄食。
同 3(1803)<17歳>菜種7,8升を得て、夜学の灯油に代える。用水掘の空き地に捨て苗を植え、米一俵余を得る。
文化元(1804)<18歳>2月万兵衛方を辞し、名主岡部伊助方に出入りし、農耕の余暇に習字読書の指南を受ける。
同 3(1805)<20歳>廃屋を興し、破損を修理し、独居して日夜夜業に励む。
 3月5日田9畝余を金3両で買い戻す。

文化9年<26歳>服部家の若党となる。服部家では、林蔵と呼ばれていた。
文化12年<29歳>2月服部家より帰る。同月に服部御家政御取り直し趣法帳を起草する。
文化14年<31歳>キノをめとる。
文政元年<32歳>服部家の趣法を引き受ける。
文政2年<33歳>妻キノが家風に合わないといって去る。
文政3年<34歳>4月2日飯泉村岡田峯右衛門の娘、波子(16歳、先生はこのとき34歳で18歳の開きがあった)をめとる。
 9月 大久保候民間の言議を求める
 10月 先生考案の年貢枡を献上する。
 11月 下級藩士のため、低利貸付法と五常講を立案する
 12月 成田村の小源次にあてて忠告の手紙を出す
文政4年<35歳>
 1月5日 伊勢参宮、高野山参拝 2月24日帰宅
 8月1日 宇津家の桜町領復興を命ぜられ、現地調査を始める
 9月25日 長男弥太郎が生まれる
 12月  小田原候より貸下げの金で服部家の第一回仕法を終了する
文政5年<36歳>
 3月  宇津家領地開発を正式に命ぜられる、待遇は名主役格高5石二人扶持
 9月4日 江戸発 6日桜町着
 11月19日 領内の精出して働く者を表彰する
 11月24日 一度小田原に帰る
文政6年<37歳>
 2月  桜町引越料50両を受け取る
 3月12日 家宅器財を6両1分で売却
 3月13日 夫人、長男同行で桜町へ向かって出発
 5月26日江戸出発、28日桜町到着
 7月1日 投票により耕作努力者を表彰
 12月  借金のない14名を表彰し、翌年の年貢を免除
文政7年<38歳>
 7月17日 長女文子誕生
文政8年  関東一円凶作
文政9年<40歳>
 この年桜町駐在の代官が先生の仕法に異議を唱え、村民動揺する。
 先生は辞任願いを申し出るも高田才治許さず
 5月1日 組頭格に昇進、桜町仕法の主席となる。宇津家より横山周平赴任
 7月  新潟から連れてきた百姓の逃亡が続く
 9月  無宿や百姓・町人の長脇差を禁じる。
文政10年<41歳>
 1月4日 横山周平江戸へ帰る。庄助、平右衛門ら騒ぐ
 2月  先生病気のためひきこもる
 12月1日 豊田正作が着任し、仕法をめぐって先生と対立する
文政11年<42歳>
 5月 横田村出水、桜町復興について小田原候に辞職願を提出
文政12年<43歳>
 1月 先生江戸に出て、桜町陣屋に帰る途中に行方不明となる。
 2月18日 横山周平再任
 3月 先生成田山に参篭祈願
 4月8日 祈願満了、桜町に帰任
 5月6日 三幣又左衛門知行所勤務となる
7月21日 宗旨入門別下調べを行う
 9月11日 小路只助45日勤番として来任する
天保元年<44歳>
 夫人郷土訪問
 12月御用之有り出府
 この年宇津家分度生活改革
 従妹りか(川久保太兵衛の娘)を養う13歳
 
 正月 宇津家仕法第一期10年結了につき余米426俵を大久保侯に納める。
    忠真公これを別途に置く、この米は後年小田原領民救済用となる。
 1月11日 小路只助来任する
 1月18日 矢野善右衛門来任する
 1月24日 大久保公日光参詣の途中拝謁、汝の道は「以徳報徳」に似たりと賞賛される。
 11月15日 栢山善栄寺にて亡父回忌執行
天保2年<45歳>
 この年旗本川副勝三郎の領土常州真壁郡青木村の人民救済の志願をもって用人並木柳助、信野勘右衛門、村民を率いて来たり懇願する。先生すなわち糧食を給し、破屋を繕い一時の憂いを除いて、後年青木村の仕法を行う。
 江戸在住小田原藩士の仕法を講ずる。
 12月25日 出府
天保3年<46歳>
 1月6日 荒井新平とともに帰任すつ
 1月19日 牢屋の屋根替を行う
 このころ悟道に関する歌を多く作る
天保4年<46歳>
 3月7日 青木村桜川の堤防修理に着手し、23日までに成功する
 4月27日 夫人郷里を緒を訪れるために出発する
 初夏の頃宇都宮で茄子を食べて初秋の味わいあるに驚いて、またその作柄を見て凶荒の備えを決意し、畑一反歩について二反歩の稗の種を撒かせた。
その租税を免じ、種代を与えて奨励した。
夏の冷気は甚だしく秋の作物は実らず、天下は飢えに苦しんだが、桜町は安全であった。
 9月4日 並木柳助、信野勘右衛門、青木村田方上納願書及び雑穀取調帳を差し出す。即ち収納平均80俵畑方34貫をもって分度定額と行う。仕法成立して約4倍の収納となった。
 9月10日 横山周平(宇津家臣開発方)没する
 9月20日 出府。同24日御用にて保土ヶ谷へ出張、川崎、大師河原、羽根田新田開発検分を行い27日帰任する
 9月30日 大森刑部の領内芳賀郡上間木村人民に金117両貸し付ける
 12月14日 桜町三か村人民より関東取締りに対し、仕法のため無難の由、また仕法仁恵の趣申し上げる旨、陣屋役人中へ申し出る。
 12月15日 夫人及び弥太郎文子帰陣する。出府中は芝田町2丁目松屋半兵衛方にあり
 12月22日 弥太郎病にかかるもたちまち全快する
天保5年<47歳>
 2月 徒士並に昇進される
 この年再び桜町の村々に対し命じて今年より3ヵ年間一段歩までの増減の畑の租税を免除し、前年のごとく稗を作らさせる
(この年老中水野忠成が亡くなり、忠真公勝手掛かりとなり、老中の首班となる)
 6月 小田原藩よりの借米1330俵返納する
 8月14日 早川茂右衛門に対し次の歌を不退堂に書いて与える
     もろともに 無事をぞ願う 年毎に 種かす里の 賎女賎の男
 8月21日 鵜沢作右衛門来任する
 9月26日 亡父の命日に供養を行う、父没する時48歳、先生14歳、友吉11歳。今日先生48歳で弥太郎14歳、文子11歳であるということで、陣屋内残らず招待しおおいにそば振る舞いを行う。
 この月 物井村岸右衛門を賞して一代名主格を申し付ける
 秋 三蔵報徳金毛録及び為政鑑を著作する
 冬 中村玄順が来て面会し、先生に教えを乞う。先生大義を輸す
天保6年<49歳>
 1月18日 中村玄順 茂木へ出張する。
 細川氏の領土谷田部、茂木の仕法を懇願され、君臣の大道を説き、分度を立てて谷田部42カ村茂木27カ村発業の基礎がなる。
 8月 大久保忠真公二宮先生の功労を賞して
「誠者天之道也 誠之者人之道也 誠者不勉而中 不思而得」
(誠は天の道なり これを誠にするは人の道なり 誠は勉めずしてあたり 思わずして得)
と大書して賜る。
 同14日 忠真公の直筆を村役人に拝見させる
 5月から8月まで冷気多雨、大風雨があった。全国的に凶作であった。
天保7年<50歳> 
天保の大飢饉。桜町の3村は毎戸一人5俵以上の貯えあり、役所の倉庫にも千数百俵のたくわえがあった。遠くも近くも賛嘆した。
 7月11日 大暴風雨により、陣屋の板塀、竹垣残らず破損し、大木も倒れた。
 この月「報徳訓」を仕法帳の末に記録して飯泉村の岡田惣左衛門に与える。
 7月29日 大磯川崎屋孫右衛門打ちこわしにあい、ついで入牢する。
 9月18日 大麦151俵を谷田部候に送る。
 9月23日 豊田正作小田原に赴く。
 11月1日 烏山の天性寺の円応和尚来たって面会する。
 11月  菅谷八郎右衛門に金200両を与える。
 12月5日 烏山の臣菅谷八郎右衛門、大石惣兵衛が面会に来たって、同月末に30俵、天性寺あて送る。
 12月 大久保忠真公二宮先生に小田原の救済を依頼する。交渉はすぐには整わなかった。
 12月26日 藩命によって出府。小田原領救済について詮議があった。

天保8年<51歳>
 2月7日 大久保忠真公は重い病にかかっていたが、小田原救済が急迫していることから、お手元金千両を二宮尊徳に賜い、蔵米を開いて民を救うよう命じられた。
 2月11日 江戸を出発し、小田原役人に厳しく談じて用意ができるとすぐ、
3月2日から村々を廻って救援活動に着手した。
(2月19日 大塩平八郎の乱起きる)
3月9日 大久保忠真公逝去。
4月25日 小田原の救援活動が一段落を告げたので、一たん桜町に帰る。
6月   烏山の仕法発業。
12月13日 桜町三村の引渡しを行う。
 ただし、二宮先生と門下生はこの地にあって実務を引き続き行う。
12月28日 天性寺の円応逝去。
この年、旗本小宮山小左衛門の領地常陸国真壁郡棹ケ島ほか5ケ村に仕法を発業する。

天保9年<52歳>
2月  小田原領足柄下郡鴨宮の三新田に仕法発業。
4月10日 伊勢原加藤宗兵衛、片岡村大澤小才太、竈新田小林平兵衛が面会を求め、二宮先生は加藤宗兵衛のために仕法を授けた。
6月 大久保候から金100両を賜り、これを足柄上郡竹松村に貸し付けて野州に帰る。
二宮先生は小田原藩に分度確立を求めたが、実現できず金100両を下されただけであった。
5月21日 川崎屋孫右衛門が伊勢原の加藤宗兵衛とその妻(孫右衛門の妹)の誠意によって悔悟したため、出獄を許される。 
11月 加藤宗兵衛の妻が衣服手道具を売り払い、代金3両2分を報徳金に加えて、川崎屋の家政取り直しを請願する。
12月 小田原領一円仕法取り扱いを命じられる。
この年、駿河領御厨郷中へ注意箇条書を渡される。
12月 石川氏領下館に仕法発業。

天保10年<53歳>
4月24日 米90俵を烏山藩に貸す。
11月5日 小田原に向って出発する
11月  足柄上郡竹松村、曽比村に永安の道を立て一村式仕法を発業する。
この年6月中村藩富田高慶(27歳)が桜町に来たって教えを請うが許さず。9月末許す

天保11年<54歳>
1月14日 駿河藩藤曲村に仕法を行う
2月 神奈川県平塚の片岡村(大澤小才太)に仕法を発業する。
6月9日  伊豆韮山江川太郎左衛門の書簡により招かれて出張し、田方郡多田弥次右衛門の一家再興の方法を講じ1380両貸付け、数日滞在し仕法を立てる。
7月 桜町に帰る。門人ますます多く、在塾出入者100人を下らなかった。
11月 駿河御殿場村に仕法を行う。
12月 相州(神奈川県)金目村(平塚市)兵左衛門のために仕法を授け、負債返済永安の道を立てる。

天保12年<55歳>
1月10日  富田高慶が谷田貝村に出張する。
3月6日  小林平兵衛が来て面会する。
5月6日  富田高慶疱瘡にかかる。
10月14日 川崎屋孫右衛門、宮原屋清兵衛の弟えい洲来て、大学料理の書簡を与える。
11月4日 相馬藩は一條七郎右衛門を遣わして教えを請うも許さず。

○年譜には、天保10年6月4日中村藩士富田高慶が桜町に来て教えを請うも許さず。9月前にこれを許す。高慶27歳とある。「報徳記」の著者である。実に尊徳先生53歳のときの弟子である。これより富田の名が年賦にも頻出する。

「江戸の家計簿」(新井恵美子著)

尊徳が幕臣となる少し前、尊徳を畏敬し、片腕となって仕事をする弟子が二宮家にやってきた。富田久助、のちの高慶である。

富田は相馬藩士斎藤三太夫嘉隆の次男で、5代前に途絶えていた富田姓を興して名乗っていた。
父嘉隆は禄高40石、相馬藩主3代に仕え忠勤を励んでいた。
また子どもの教育にも熱心だった。
久助は、利発で、藩主の子息の勉強相手に選ばれ、長じては若殿の近侍となった。
だが、久助は相馬藩の疲弊を救う救済する方策を見つけるため、天保元年に江戸に単身出てきた。
最初成島司直の塾に入るつもりだったが、成島塾は当時火災で入門できず、屋代弘賢の塾に入った。
屋代は国学史学が専門で、久助は後に昌平校に入学し、儒官依田源太衛門の塾生となった。こうして相馬を出てから10年が経った。
儒学を学んでも、藩を復興する具体の方法を得られないのに絶望感まで味わっていた。
江戸家老草野半右衛門は大人物で藩内の信頼が厚く、富田を心にかけていた。学問をやめて養子にいくことを勧めた。
富田はある日、医師磯野の待合で不思議な話を聞いた。
奥田公民という患者が二宮金次郎という農民出身の男が次々と村や藩の復興に成功しているという話だった。
「この人だ。」
富田久助は江戸の暮らしをたたみ、野州を目指した。
そんな富田に京都の医者荒木勝悦が同行した。

桜町陣屋の日記にはこうある。
「天保10年6月1日
一 下高田村より太助 相馬儒者富田久助殿
  伯耆国荒木勝悦殿は医者
  四ツ半つれ参候事」

尊徳先生は面会を拒絶された。
富田たちは毎日陣屋に通ったが、面会できなかった。
荒木は断念して帰っていった。
富田は相馬藩を救いたいという志があった。
下高田村で寺子屋をはじめ、子ども達を教えた。
その時、久助の講義を受けた子に鶴松と貞助がいて二人は生涯富田久助の弟子であり続けた。

 季節は移り、秋となり、ある日尊徳先生は思い出したかのように
「かの学者はまだ居るか」と聞いた。
「あいかわらず入門を許されたいと待っております」と門人が答えると
「会ってみよう」とここに初めて面会がかなったのである。
時に天保十年(1839)8月17日の午後だった。
いつものように訪ねてきた富田に尊徳先生は面談を許した。
話し合いは深夜まで及び、富田はその頃門弟となっていた川崎屋孫右衛門の部屋に泊まった。
話は次の日も続き実に4日間に及んだ。

この後、一ヶ月を経て正式な入門が許された。

天保10年9月27日 
一 相馬藩中儒者 富田久助 今七ツ時
 谷田貝よりまかり越されそうろう事

と日記にある。 

天保13年<56歳>

3月14日  先生在邸の所へ駿河御厨地内菅沼村名主重右衛門、組頭兵四郎、御殿場村ゑびすや、同国 原村柴田権左衛門同道、竈村小林平兵衛、小田原藩男沢山崎の添書持参仕法歎願する。
納税の通知をなさずとも桜町中日限を違うものなし。
5月    鴨宮名主早野小八の仕法を行う。
この夏  先生小田原藩士矢野筈右衛門方に在りし時曽比村剣持広吉小田原藩士画家岡本秋暉をしてひそかに先生の肖像を書かせる。
7月9日  幕府召命の内報があったようである。
同20日  岡本近江守より小田原藩に対し、二宮金次郎の身分を照会する。藩士竹内晴之丞より、宇津家知行所詰役格であることを答える。
同22日附 閣老水野越前守の召命あり。25日到着する。
同26日  豊田正作、小路只助、富田久助等27人と江戸に出発する。
同30日  幕府勘定奉行に出頭すべき命がある。
8月1日  小田原藩御留守牟禮三郎太夫より沙汰がある。豊田正作及び雨具持仲間一人召し連れて御勘定所へ出頭し、御紋附き帷子を拝領する。
同2日   岡本近江守役宅へ出頭する。付き添いは日下部春右衛門と豊田正作である。
同12日  朝出発一たび桜町へ帰る。
同23日  豊田正作、小路只助、富田久助等23人と江戸へ出発する。
10月2日  幕府御番帳人取扱を拝命する。同日水野越前守の奉書により御普請役格に召し出される。
同3日   小田原藩邸において杉浦平太夫より公儀御普請役格へ召し抱えられる御切米20俵2人扶持下しおかる旨の水野越前守よりの書付をもって仰せ渡されたる旨を申し渡される。
     ・大久保公より御上下御小袖下を賜る。
     ・小田原藩留守居役日下部春右衛門より幕府御普請役元締小田某に引き渡される。
同6日  公務の寸暇を以って小田原領の仕法を指導したいことを申し出て許される。
同7日  利根川分水路見分目論見御用仰せ出される。
同21日  利根川分水路印旛沼治水視察の命を奉じて、普請役猪俣栄三郎、林又太郎とともに出発し11月15日江戸に帰り、見込書2巻を草して上る。
冬    大久保候の邸において中村藩主相馬益胤公の重臣草野正辰に面会し興国安民の法を説く。
この年 安居院庄七が来て教えを請うも許されない。庄七は門外に立ってこれを聞いて会得するところがあって諸方に法をひろめた。
同    柴田順作が来て教えを請う。

天保14年<57歳>
正月22日  幕府直領代官伊東友之助支配所、下総岡田郡大生郷村仕法の命を受け名
主久馬方に到る。同28,29両日検分し、荒地開墾安民法を上書する。
同31日  富田久助の母が大病のため筑波越えで帰る。
この頃  御勘定所手附となる。
3月2日  江戸に出て西久保の大久保候邸に在る。4月まで滞在する。
同6日  山内総左衛門(真岡代官)に麻布笄町の邸で面会する。
4月     小田原町民要請により民業回復の策を授け、基金160両を与える。
これをもって小島忠次郎、竹本幸右衛門、百足屋孫七等小田原仕法組合を創立する。
これが小田原報徳社の発業である。
この頃   小田原報徳仕法に支障が出てくる。
7月13日  小名濱、東郷、真岡三村の属吏すなわち陣屋附手附を命じられる。
7月    幕府の命によりますます公務が忙しくなったため、烏山、下館、細川、
川副、相馬等諸家再興の依頼を辞退した。諸家は驚いて幕府に嘆願し遂に許された。
これによって公然と仕法に従事することができるようになった。
この年   駿河竈村小林平兵衛へ知足鑑を授ける。平兵衛は先生の教えを堅く守
り、三代に伝えた。
8月    小田原新宿の福山瀧助入門する。
この年  下野河内郡石那田村徳次良村の用水堰を修理する。
11月11日 普請役元締渡邉棠之助より戸籍先祖差し出すべき命あり。同15日差し出
す。

弘化元年<58歳>
1月29日   弟三郎左衛門二宮本家増五郎と共に筑波山参詣の帰途立ち寄る。
3月4日 日光御 参の大久保忠愨公に拝謁する。
嫡子弥太郎お目見え仰せつけられる。
4月5日   日光神領荒地開拓調査見込みを上申するよう命があった。先生畢生の力
を尽くしその後3年にして富国方法書(仕法雛形)60巻を草して弘化3年これを献
じた。
11月   相馬藩政180年間の資料を先生に提出した。先生は熟慮して相馬の分度を
確定した。
この年  多く江戸に在り。芝田町五丁目海津傳兵衛方別宅を借り受け、専ら日光仕
法雛形を著す。

弘化2年<59歳>
1月24日   江戸大火で類焼したが書類の大部分は残った。
2月22日   老中水野越前守忠邦辞職する。
4月24日   仕法書提出の督促を受ける。
この頃    斎藤高行入門する。
10月24日  福住正兄(大澤政吉)江戸に来て11月1日入門をする。
11月7日   相馬領宇多郡成田村、坪田村代官高野丹吾の至誠によりこの村に富田
高慶を遣わし仕法を開業し、監督をさせる。
11月20日  小田原公の御手許金三百両を曽比村に下し賜わる。

弘化3年<60歳>
1月17日 富田高慶に金3両を与え仕法丹誠を慰められる。高慶これを加入金とす
る。
1月    下館領内灰塚、下館、野蕨の三村に雛形により仕法を行う。
4月    下物井邑万沢岸右衛門に金18両を賞賜する。
春     相馬領小高郷大井塚原の二村に仕法を発業する。
6月28日 日光再興策富国方法書60巻を献ずる。
この頃  相模克譲社創立
7月16日 小田原藩政方針を変じて「故障これ有り」と報徳仕法を廃止し、領民に先
生と往来することを禁ずる。
領民は夜中に発足して明け方他領を通過し先生のもとに来るなどがあった。先生は青
山教学院の大久保忠真公の墓前に至って謝罪した。
12月28日 仕法廃止に伴って小田原から送付してきた報徳金5千両及び謝礼白銀20
0両を受領すべきでない旨を勘定奉行矢部木弥一右衛門に訴えて指揮を請う。
この年  小田原旅館業幸右衛門の奔走によって、甲州(山梨県)八代郡成田村の
佐々木道太郎知行所1382石200軒(減じて150軒)のところへ無利息金を貸与する。
この頃  先生を殺害しようとする噂があった。西の久保で入浴中槍をもってさそう
とした者があり、僅かに免れたという。

弘化4年<61歳>

3月 相馬藩の宇多郡赤木、立谷、高瀬、御深野等に発業
4月23日  東郷支配内荒地興復歎願許可される
5月2日  報徳金5千両及び白銀200枚受領すべき旨内命がある
5月11日 御勘定所御料所手附を免ぜられ、真岡支配代官山内総左衛門正董の属吏と
なり東郷の陣屋に移る。
同 26日 一家東郷陣屋に移ることとなる
7月15日 東郷に至り大前神社の別当神宮寺に仮住いする
10月15日 相馬藩老功臣草野正辰逝去する
12月27日 剱持広吉報徳仕法を奉じて一村建て直しの功績が顕著であるとして小田原
藩より名主格に進め、木綿5反を賜る。

嘉永元年<62歳>

3月15日 東郷管内の桑野川村の新田開発できず。真岡陣屋の下僚反対する。
4月3日 足柄上郡竹松村新悪水堀開墾、3月31日発業この日に完成する。
3月頃  安居院庄七及びその弟浅田勇次郎と遠州に至り、報徳結社の教えを説く。
5月   福山瀧助同志4名と小田原報徳社整理合資金2朱と永67文
7月12日 山田代官真岡陣屋に入り、先生東郷陣屋に入り一家櫻町より引き移る。
櫻町に在ること26年を数える。
この年 東郷領内の仕法歎願10数ヶ村に及んだが、代官は許可せず、仕法が行われ
ることは困難だった。
9月15日  東沼村名主与惣兵衛に対して仕法出精につき米3俵を賞賜した。
この年   遠州の岡田佐平次が安居院に教えを受け牛岡組報徳社を創立する。

嘉永2年<63歳>

3月   相馬領高瀬村復旧し村民報恩の志を起こし、空き地を選んで杉4万本を植
えてその意を表す。
この年  飢饉の兆しを予知し備えをなさしむ。
9月26日 父母祖先の菩提を弔うため茶湯料50両を善永寺に納める。
10月29日 彰道院大久保忠真公菩提のため永代回向料300両を青山教学院に納入す


嘉永3年<64歳>

2月4日 門人斎藤高行病後静養のため箱根塔ノ沢福住喜平次方に逗留する。
同23日 二宮弥太郎普請役格見習を仰せ付けられ年金3両を下さる。
3月9日 弟二宮三郎左衛門、二宮権衛門、蓮正寺村大沢直次郎とともに二宮総本家跡
復興のために来る。
10月16日 下館に出張する。
10月17日 福住正兄師門を辞する。
同22日   報徳克譲増益鏡を著し、善種金100両を附し、大沢小才太、同勇助、同
政吉に授与する。
12月12日 江川領内荒地復興上納金代地及び百姓相続議定書が成る。
同25日 福住正兄湯本福住家を相続する。
この年  真岡支配内芳賀郡東郷、山本、大島、西沼、桑野川、真壁郡棹ヶ島、花
田、板橋、新田、河内郡山口、石那田、徳次良、上金井、野沢等14ヶ村に仕法発業始めて実施せらる。

嘉永4年<65歳>

正月10日 日光山内御貸付所に金5,500両加入の儀願い上。
12月31日 中郡金目村片岡大沢家に行く。
この年 旗本小宮山小左衛門(400石)のために領土上州真壁郡五所宮村に仕法発業。

嘉永5年<66歳>

正月2日 大山参詣。
同 9日 墓参入湯願い出たること久し。小田原藩常にこれを禁ぜり。漸く許されて帰省墓参し、この日湯本福住正兄方に来り、塔ノ沢福住喜平治方と両方に在り。付近恩顧の者多く慕い来り又これを訓諭す。この間に湯本付近に桜苗3千本を植える。
2月25日 湯本に在り桜苗の植付を検す。
この頃 岡部伊助に相馬公より拝領の鶴しょうの羽織を与える。
3月 宇都宮より東郷に帰る。
4月29日 嫡子弥太郎のために近江高島藩用人三宅頼母の長女こう子(17歳)をめとる。
8月28日 長女文子富田高慶に嫁ぐ。
相馬公より年々500両10ヶ年間日光仕法金申出あり。
この月 河内郡大室村の仕法顕著なるをもって村役人一同を名主関根弥作方に召集し金10両を賞与す。村吏この金をもって鍬鋤を買い二宮の2字を刻し、村民に与える。
12月2日 岡田佐平治来り、相馬屋敷にて教えを受く。
12月24日 宇津ハン之助報恩のため高100石(すなわち貢米100俵)永代寄進すべき文書を送り来る。
この年 下館領内分度確立し仕法を行う。



□報徳教祖 二宮尊徳翁略伝(福住正兄口述)
 
 嗚呼尊徳二宮翁。
 真に命(まれなる)世の偉人というべし。
 しかれども天資謙恭(へりくだりてうやうやしきこと)。
 常に己の功績(てがらいさおし)を説かず。
 少しく門人の口碑に存するもの有りといえども、その万一を得ず。
 今に及びでしかして之を記せず。
 すなわちその徳業 煙散霧消(煙のように散じ霧のように消ゆ)に帰してしかして止む。
 惜しむ勝えべけん。
 故にしばらくその概略(あらまし)を記し、もって略伝となし、その詳なるごときは言行録の著に付すと。しか云う。

翁 名は尊徳(たかのり)。通称金次郎。
相模の国 足柄上郡栢山村の人。
父は利右衛門と称す。
母は曽我別所村。川窪某の女(むすめ)なり。
天明7年7月23日もって生まる。
その先は曽我氏に出づ。
あんずるに曽我太郎平の祐信。
13世の孫。二宮祐周なる者有り。翁はけだしその後か。
翁はじめて五歳。酒匂川洪水。
堤を破り、害数十村に及ぶ。しかして利右衛門田畝害を蒙るもっとも甚だし。
家産これがために蕩尽(トウジン:なくなる)。
利右衛門つとに起き夜には寝(いね)、力を開拓に尽くす。
既にして病にかかりなおざりに歳をわたる。しかして歿す。
時12年9月26日なり。年48。翁年14。二弟某々。なお幼。
既にしかして母また病にかかる。遂に起きず。年36.実に享和2年4月4日なり。
この歳6月。酒匂川再び洪水。田畝ことごとく流亡。ほとんど活路を得ず(食うことがでぬぬ)。
ここにおいて二弟を母の生家に託し、翁自ら伯父萬兵衛の養うところとなる。
日夜農事に淬励(サイレイ:勉強すること)し、かつ幼にして貧困に陥るをもって深く感ずるところ有り。
慨然(なげくこと)としていわく。
天下憐れむべきものは(かわいそうなもの)は、ただ貧のみ。
われもし家を興すを得ば、すなわち博く貧人を救うの法を設けんと。
すなわち天地神明にちかい、須臾(シュユ:しばらく)も忘れるなし。
この歳、春。河辺の磧地を視、油菜(ナタネ)を種へ、実若干を得る。
すなわちこれを市にひさぎもって膏油(ゴウユ:あぶら)に換え、昼は家産を務め、夜は索綯(サクトウ:縄ない)掴鞋(コンアイ:わらじを作る)。
夜半、人寝るに至り、則ち書を読み算術を学ぶ。
萬兵衛ひそかにこれをうかがい、誡めて曰く
「汝これを学び果たして何の用を為す。
 かつ夜寝ざれば、すなわち明日身体瘁労(スイロウ:疲れること)。
必ず業をおこたるに至る。」
翁憮然(失望する)として自ら失す。
謝ってしかしてこれをやむ。
これより暇にはすなわち一意草鞋を作る。
銭に換え、貧人を恵む。
5,6月の候、庭外不種の地を耕し、棄て苗を拾い、以てこれを播し(まく)、耨耘(ドウウン:耕し草ぎり)培養(よく育てること)一苞余を得たり。
以ておもえらく、これ天の賜なりと。
およそ物小を積み大を致す。必然の理。
故に孜孜(シシ:勉強すること)おこたらず。
すなわちこいねがわくば家を興すの資(もとで)と為すべし。
これ他日(のちに)報徳方法のよってしかして起こるところなり。
その明年春、萬兵衛の家を辞し、小田原に到る。
藩閥(ハンバツ:藩の家柄)服部氏三男有り。皆よく書を読む。
翁これをみて心ひそかにこれを喜び、請て家僕と為る。
夜はすなわちその読書の傍らに坐し、側聴(側に聴いていること)倦まず。
遂に四書に通じ、よくこれを暗記し、また請て三子往学(通学)の僕と為る。
すなわち講堂の窓下に立ち、ひそかに講義を聴き、文義に略通す。
一日飯泉村を過ぎ観音に詣で、僧の経を読むを聞く。
問うて曰く
今誦す所は何ぞ。
曰く法華経普門品なり。
曰く
平日聴くところに異なるは何ぞ。
曰く
世の誦するところ音なり。今わが読むところ訓なり。
すなわち乞うて再びこれを読ましむ。
翁憬然(ケイゼン:あきらかに)大いに悟るところあり。
すなわちいわく。
仏の旨もまた世を救うにほかならざるなり。
志ますます堅し。
その後服部氏を辞して家に帰り、専ら産業に従事し、家を興すに汲々(キュウキュウ:つとめる)たり。かつ貧人をめぐむ。
しかれども余資(あまりのもとで)有るにあらず。
親戚の勧めにより妻をめとる。
妻性吝(しわいこと)。
翁の貧人をめぐむの多費なるを喜ばず。
しばしばこれを諫止す。
てん(リッシへんに吉)然(テンゼン:平気なりこと)として顧みず。
ここにおいて離別を乞う。
翁すなわちこれを許す。
独居黽(つとめる)勉意澹如(タンニョ:さっぱりしている)なり。
しかしてますます救恤(キュウジュツ:救い恵む)を行う。

後服部氏禍患(カカン)こもごも至り、家道はなはだ艱し。
しかして執事する者なし。
すなわち翁に請うて興復のことを託す。
翁また服部氏に至り日夜据居(キッキョ:つとめる)前年のごとく数年にしてことごとく積借を還し、更に余財を生ず。
翁またしばしば藩の重臣に説き、本藩の貢米の領収升を改めるを請う。
百方力を尽くし事遂に行わる。
領民大いにこれを悦ぶ。
後ち、また服部氏を辞し、再び飯泉村某の女(むすめ)をめとる。
孜孜汲汲ついに初志を達するを得たり。
文政元年、藩主褒賞金帛を賜い、これを奨す。
これより先、小田原候の支家、宇津氏の采地下野国芳賀郡物井村あり。
およそ4千石。
土地瘠薄(セキハク)これに加うるに天明年飢え、戸口減耗、田畝ことごとく荒れ、貢租随って減ず。
宇津氏の窮もまた極まる。
本藩これを憂い、しばしば若干の金を出し、これを救うといえども、その効を見ず。
候嘆いて曰く、
吾が支家(分家)興復の事、諸(これ)を藩士に委(まか)す。
なお、木によりて魚を求むるごとし。
何をもって済(すく)ふべけん。
やむなけんば、それ二宮子か。
ここにおいて翁に委(まか)するにその任をもってす。
すなわちその地を実験(実地調査)し便宜施治せしむ。
翁固く辞すること再三。
聴さず。
文政4年任地に至りもって建議して曰く、
かの地きわめて薄磽(わるし)。
今、4千石というといえども、また虚額(空しき高)のみ。
すでに若干の金を費やし、これを拓し、しかして税斂(ゼイレン:収税)を厚くす。
百姓何によってか生をとぐるを得ん。
戸口何によって繁殖(ふえる)するを得ん。
故に称して2千石と為さざるべからず。
いやしくも二千石の地と為し、これを拓す。
すなわち、あにその法なからんや。
もしおらざればすなわち為さざるのすぐれるにしかざるなり。
なお詳らかにその法を問う。
翁曰く荒をひらき、廃を興す。
実に易からざるの事なり。
この易からざるの事を挙ぐ。
皇国開闢の大道に由らざるべからず。
それ開闢の道にしたがい、しかしてこれを行う。
すなわち敗亡のうれい無く、事を誤るの理無し。
従来の法のごとき、若干の賜金あれば、故に人皆心を金に奪われ、詐欺(いつわり)百出す。
遂に荒廃にいたる。
故に始めよりこの金無ければすなわちこの弊生ぜず。
思うに開闢の時、海外に金を借りるの事無し。
故に皇国は皇国の力をもって国を治む。
故に志を天孫の豊葦原に下降(あまくだる)するの始めにもとづけば、すなわちそれ敗亡を患るあらん。
何ぞ事誤るの事あらん。
荒蕪を化して沃土と為し、廃邑(はいゆう)を変じて富郷と為す。
けだしまた難からず。
いやしくも、かくのごとくにして、しかして敗亡誤事に至る。
臣それ信決これ無し。
そのほか意見無し。方法無し。
候大いにこれを喜び、文政五年翁を擢(あげ)て藩士と為す。
託するに興復の事を以てす。
翁すなわち前十年の収額を調査し、平均法を以て宇津氏地租の収額と為し、その他総て査せず。
かつ開拓の事に至っては、一々申せず。
十年の間、その為すところ任す。
ここにおいて委託証書を付し、捺するに宇津氏及び本藩の印を以てす。
翁またことごとく田宅をひさぎ奮然志を決して再び故郷に還らず。
家を携えて物井村の桜町に移る。
実に文政六年某月某日なり。
これより翁自得するところの開拓法をもってす。勉めて、挙直奨励法、無利子金旋回貸付法、報徳日課積金法等を施行す。
ならびに行う。
徳化を敷き、数年ならず功績大いに成る。
天保2年藩侯日光に詣す。
翁を宇津宮の旅館に召し、褒賞を賜う。
曰く、経理(国をよく治める)よろしきを得、境界また治まる。
こいねがわくはその制をして永くおちざるよう、汝それ勉めよ。
ここにおいて翁の名、四方にさわがし。
三年日常陸の国真壁郡青木村主、川副氏翁に請うて興復に従事す。
いくばくもなくその功また速やかに成る。
遠近より来たり翁の徳業を欽慕する者はなはだ多し。
しかして業を受くる者、くつ常に戸外に満つ。
翁また4年の大飢を卜し(前もって知ること)、人を諭し、稗麦栗等を蓄えしむ。
その説はなはだ力む。
この年烏山候の領民大いに飢ゆ。
候また興復の事を託す。
五年谷田部候また翁に請うてこれを行う。
六年小田原候また手書を賜う。
翁また7年の凶荒をさとり知って行うところ4年の法のごとし。
しかして貯蓄これに倍す。
2月小田原候翁を召し、その勤労を賞す。礼服を賜う。
翁悦ばず。
改めて金千両を賜う。
駿河・相模・伊豆三州の領中飢民の救恤(キュウジュツ)を託す。
すなわち倉をひらき、大いにその法を行う。
飢民死せざる得る者、小田原領地およそ40、394人。
諸藩諸村を算す。
すなわち10余万人に下らず。
ここにおいて開国の法を小田原封内に施行す。
たまたま候逝す。
事遂にやむ。





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