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尊徳先生の日常生活 と 地震体験

小田原の報徳博物館が出版している「尊徳門人聞書集」のなかに
桜町陣屋における尊徳先生の日常生活が記されていて興味深い。
少し読みやすくして抜き出してみる。

「深山木」は尊徳先生のよき理解者であった小田原藩の鵜沢作右衛門が天保6年(尊徳先生49歳)6月に書いて、大久保忠真侯に報告したものである。

○金次郎の朝夕の行いですが、昨年も申し上げたとおり、そ飯そ服を用い、
居宅の障子は不用の紙で補修し、畳にいたるまで、見苦しいことは少しも構わず、すべて日用のことは倹約を専らにしております。
また人に施すときには米や金はもちろん、衣類や夜具などにいたるまで快くつかわします。
荒地の起き返しや家の普請などにも、大工・職人・人足なども村内に世話をしてやり、少なからず米などもさしつかわします。
領内で普請や開発など取り掛かるときは、別に賃金をさしつかわすなど、何事にもこれ以上ないほど手厚く取り計らいます。
かつ荒地の開発を行うとき、また堰や掘割、普請などに取り掛かるときは、平生の心持より格別の違いで、物入りなど構わず精力を尽くし、すでにこの春以来7軒も新規に家を建てております。そのほか、用水用の堰も正月からとりかかってすでに出来上がっております。(略)
村のためになるよう、この春に多くの杉の苗を植え付け、その後もおいおい植えております。
小作の者たちは、たびたび恩沢を受けて、子供のように懐くよう自然になっていき、その風がいつとなく、近隣の国や近郷に響いて、すでに細川長門守様、川副勝三郎様より依頼があり、そのほかにも依頼が来ております。


「桜街拾実」は、烏山藩仕法の中心人物になった菅谷八郎左衛門が天保13年(尊徳先生56歳)に書いたものだ。

○平生、衣食住とも決しておごりがましきことはなく、木綿(もめん)の服のほか絶えて用いることはない。
冬も重ね着をせず、もちろん足袋(たび)なども用いたところを見たことがない。
食はただ空腹を補うまでで、一汁か一菜のほかは用いない。
たとえ一飲一食といえども無益には用いない。
畳は琉球表の縁のないもので、障子は不用となった紙で補修してある。
万事このようで、いたって質素であり節倹に勤めている。

「尊徳の森」に「高慶復命書の教訓」が載っていて、高慶が相馬藩に送った手紙に「進物等の儀は、いささかにても、かねて受けられず候。ことにかえって立腹のことにござ候。」と記述されている。「桜街拾実」の2年前であり、尊徳先生の土産等は一切受け取らないという姿勢がより詳細に理解できる。

「二宮家伝来資料の中に『富田高慶復名書状写』(県文一-188)一枚がある。冒頭に「5月8日、富翁、国元へ送りし書翰の抜書」と記され、内容から天保11年(1840)のものと認められる。前の年に9月に桜町で入門を許された高慶は、12月初めからこの年の夏まで尊徳に随行、「助勢人」の一員として小田原仕法に従事した。一行の本拠は箱根塔ノ沢の福住から竹松村の河野幸内方、さらに曽比村の剣持家へと転々したが、このところ少し健康を害した高慶は、竹松村の医師大内玄周のもとに逗留していたようである。この資料は、26歳の彼が、数か月師事して得た尊徳の居常・性向や、小田原藩内の情勢などについて国元の老臣に報告したもので、いろんな意味で参考になる。」とある。
その富田高慶の手紙を佐々井氏が読み下して紹介されている。であり、

「・・・・・・さてまた当地様子、その後委細申し上げ奉るべきところ、種々取り込み、延引仕り候。小田原御領分のうち、曽比・竹松村と申す二か村趣法にて、種々万端の取り計らい、筆紙に難くござ候。二宮氏器量抜群にて余人の及び申さざる儀、目を驚かし候ことにござ候。趣法の旨、委細申し上げ奉りたく候えども、いずれも多端にて認(したた)めかね候。そのうち四~五カ条、相認めさし上げ候間、御覧下さるべく候。・・・・・・他見は御用捨願い上げ奉り候。・・・・・・
一 先生、年齢そのほか御宛介(あてがい:俸禄)等の儀、申し上げ奉り候よう仰せ下され、畏(かしこ)み奉り候。一体小田原先君加賀守様思召(おぼしめし)をもって召し立てられ、御分家宇津様の方へ遣わされ、万端引き受け御知行所取り扱い候よう仰せられ、家内引き連れ野州御陣屋へ引き移り、年来住居いたされ候。今もって先生家内は野州に住宅にござ候。もっとも宛介は五石弐人扶持の由に承知仕り候。度々知行も下さるべく、高役にも申し付けらるべき由、御沙汰もこれある由に候えども、固く辞退いたされ、右のとおり少禄にて、役も何役ときまり候儀もこれなき由にござ候。
 子細は、なにぶん知行を受け、あるいは役向き等にかかわり候ては、とてもこの節、大業は相成り申さざる由にて、右のとおりにいたされ候ことに承り及び候。日々何事も節倹を行い、家の見苦しきにも意にかけず、障子等は反故(ほご)張りにて、内室自分に炊(かし)ぎせんたく、あるいは参りおり候面々の給仕等までいたされ候。この節は下女召し抱えられ候由にござ候。事々右等の次第にて、広く百姓を恤(あわれ)み、人の難渋を救われ候ことにござ候。いかようの富家の面々も野州へ参り候には、絹の衣類等用い候は互いに恥じ入り候ことにござ候。先生はじめ御家内かくのごとく、難渋同様の姿にて不自由に暮らされ、多くの人を救われ候次第、一々感心の義に存じ奉り候。
 当地、この節の御仕法にて、両村は申すに及ばず、御領分も格別に人気を改め、民間追々業を励み候よう相なり候。さりながら、当君(大久保忠懿ただなお)ご幼年、ことに役人の面々、あるいは功をねたみ、道も行わず、口に害をなし候人もこれあるやの由。それゆえ下方(したかた)は日々に進み候えども、何ぶんお上は聞きかね候様子にござ候。右につき、ひとまず両村のみにて、野州へこのほど帰国いたされ候様子にござ候。
一 先生へ進物等の儀、仰せ下され候ところ、進物等の儀は、いささかにても、かねて受けられず候。ことにかえって立腹のことにござ候。いささかもって、右等の儀は御心配なし下されまじきよう、願い上げ奉り候。」



二宮先生道歌

飯と汁 木綿着物は身を助く その余は我を責めるのみなり

(二宮先生語録318)
わが道を行う者はよろしく飯と汁と木綿の着物とをもって、自分の生活の限度とすべきである。
道が廃れようとするとき、わが身を助けるものは、飯と汁、木綿着物の生活だけである。
これは鳥獣の羽毛のようなもので、よくわが身を守る。
このほかのものはことごとく自分を攻める敵となるのだ。
道が順調に行われているときは、酒の一杯や、さかなの一皿ぐらいは害がないように見えるけれども、いったん形勢が変われば、たちまち自分を攻める敵となる。
まして賄賂、付け届けにいたってはなおさらのことで、ちょうどいのししや鹿が雪の降ったのち、足跡を覆い隠すことができず、ついに猟師にとられてしまうのと同様である。
深く慎まなければならない。

二宮翁逸話 68 二宮家に奉事したる老媼の懐旧談

余は野州における二宮翁の事績を調査せんため、明治39年の4月宇都宮に行き、県庁の学務係りの人とともに宇都宮材木町菓子商浜田屋事渡邊某の老母うめ子刀自に面会を求め、翁のことをいろいろ尋ねた。
この人は当年80歳で二宮翁桜町の陣屋におられた時、二宮翁の侍女として仕え、後翁が桜町を去って東郷陣屋に移られた時も随従して忠節を励み、翁の息女文子女史の富田高慶に嫁がれた時も、文子女史がこの老母ではなくてはならないというので奥州相馬までも随行し、女子懐妊のため野州に帰られた時もまた随って帰り、文子女史の死なれるまで忠節を励んだ人である。
故に翁の起居動作についてはよく知らるるであろうと思い、わざわざこの老母を訪ねたのである。
この人の談に、「私が二宮様の家に奉公するようになりましたのは、当時私の伯父が名主でありましてしばしば二宮家に出入れしておりました。
その関係から私は二宮様の厚いご厄介になるようになったのであります。
ちょうど私が20歳の時に桜町の御陣屋に侍女(こしもと)として仕えるようになりました。
二宮様の御食事のお給事をいたしましたり、また裁縫をいたしましたり、お嬢様のお守りをいたしたりして勤めたのであります。
二宮様の奥様歌子さんという方はナカナカきかない気のお方でありまして、随分やかましい方でありました。
小田原の方から名主の娘などが奉公に来ましたが、奥様のやかましいので10日と居付いた者はありませぬ。
けれども私は二宮様が幼少の時からかわいがってくださったのでありますから辛抱もできたのであります。
二宮家ではお嬢様の御教育はナカナカ行き届いたものでありまして、桜町御陣屋にいらっしゃった時にお長屋の方へお嬢様の手習いの先生、歌の先生などを招かれまして御教育をなさったのであります。
そうして二宮様はよほどお嬢様をおかわいがりになったのであります。
それから私が二宮様について感じましたのはその気根のお強かったことであります。
朝は大変早くお起きになりまして行灯(あんどん)の下で氷のようになっているお飯に湯をかけて召し上がって御外出になりました。
また時には徹夜で旅をされたこともあります。
そうして疲れると路傍でも宮の内でも構わず寒中でもおやすみになりました。
それで随行の者は外に辛いことはないが、野の中でも山の中でも構わず疲れると寝られるのには困ると要ったそうであります。
先生の従兄弟の民次郎さんも常に先生に随行しておられましたが、この方はなかなか気根の強い方でよく辛抱しました。
この方は小田原から来た人であります。
また弟の三郎左衛門様は時々栢山へ帰られましたがお客分としておられました。
私は二宮家に9年間ご奉公いたしましたが、私がお暇をいただきましたのは東郷陣屋においでの時であります。
二宮先生はナカナカやかましい人でありました。
私が桜町の御陣屋におりました時分には諸方から弟子入りがありまして、一時は100人余もあったかと思いますが、先生はナカナカやかましい方でありましたから、塾の方は皆怖がっておりました。
そんならといって別に小言をおっしゃるでもございませんでしたが、なんだか皆怖がっておりました。
冗談ですか、冗談は言われなかったように覚えております。
家にいらっしゃる時はいつも帳面を調べておいででした。
私の伯父は私が67歳の時になくなりましたが、親は二宮先生と違ってお金を遣うことは好きでございました。
ですから先生の所へはあまり出入りはしなかったのです。
私の生まれた時に二宮様が米を8俵くださいました。
そうしてだんだん生長するに随いまして、「ぜひお前の娘はおれのうちへ見習いによこせ」と言われましたので、私は実は報恩のために二宮家に奉公したのであります。
その時私は母が申しますには、「二宮先生は朝寝が大のお嫌いであるから起こされないうちに起きろ。
その積もりで行かなくなっては辛抱はできない」と堅く戒められました。
お嬢さんですか、「それはナカナカ発明の方でありました。
28で富田さんへお嫁入りになりました。
先生はお嬢様に婿を取ってやろうと考えておられたようでしたが、ナカナカ先生のお気にいる人がなかったので、お嫁入りがだんだん後れましてトウトウ28までおきまりにならなかったのです。
お嬢さんは私を大変お慕いになりまして、相馬に行くときもぜひうめを連れてゆきたいとおっしゃいましたので、先生がうめも嫁入りをしなければならないから、そんなことをしておると嫁入りの邪魔になるから、ほかの者を連れてゆけとしきりに説得されましたが、どうしてもお嬢様がきかないので私を連れていくとおっしゃってお慕いでありましたから、私は嫁入りはできないでもお嬢さんのお気に召すようにしたいと申して相馬におともをしたのであります。
そうして相馬の中村にお嬢様とご一緒におりましたのがちょうど1年ばかりでありました。
ところが中村は片田舎でありますからお嬢様がご懐妊になりましても良い産婆などもございませぬので再び二宮家にお戻りになりました。
ところがおいたわしいことにはお嬢様は産後まもなく亡くなられたのです。
ちょうどお嬢様の亡くなられた時に先生も弥太郎様も日光の方へおいでになりまして、弥太郎様は知らせによってすぐお帰りになりましたが、二宮先生は葬式にも戻られなかったのであります。
なぜ戻られなかったかというとちょうどその時お病気でございました。
けれども富田様がよくご介抱なさいましたので、お嬢様は少しもおさしつかえがございませなんだ。
桜町の陣屋でございますか、
先生の住まれておられた時は陣屋はナカナカ大きい家でありまして住まいと役所との二つに分かれて塾生は多く役所の方にいましたが、随分沢山の人をいれることができたのです。
私が今でも忘れることのできないのは先生の怒られた時は面相が常とは全く変わってその恐ろしさはなんとも申し上げようがないほどでありました。
またそれと反対に笑われるときはさもうれしそうに笑われました。
それは今でも目に見えるようでありますが、目尻が下がってその笑い方はなんともいえない気持ちのよい笑い方をなさいました」
うんぬんと、老媼の昔話は翁当時の状態を描き出して、そぞろに当時をしのばしむるのである。


☆(二宮コウ(金に交)子手記より抜粋)

一 嘉永五壬(みずのえ)子(ね)年四月、二宮家へ手前は嫁し候事故、其後事のみ心覚へ丈け記し申候。其当時御祖父様は御年六十六歳の御老体に候得共、誠に御すこやかにて、第一朝は只今三時半か四時に起、夏冬共同し、直に井戸端へ金たらいを持出、四季とも冷水にてうかひ其他顔洗等済し、全体は信者之方にて神棚を拝し、夫より床にかけ置候不動尊拝し、又金比羅も御心信にて、夫より仏前と毎朝同様之事。

一 その頃は御代官手附の事故、折々真岡陣屋へ御出に相成、羽織小倉の袴、夏は麻羽織くづ袴、大小は例の通り粗末の品、又時により桜町陣屋へ御出に相成候事も有之、父上(二宮尊徳)には日々真岡陣屋へ弁当持にて御出勤相成候事。

一 夕御酒中のお話しには、度々は万兵衛にしかられ候事、又はなし実を食し候事出来ず、かわを食し候事、又は獅子舞が参り候ても一文の銭これなく、雨戸をしめ切、人なき有様に見せ候事など、涙を流しお話し御座候。

一 子年(嘉永5年)の6月頃と覚え候、夕方の御酒飯も済み、座敷の床前にて、御涼みのところ、手前にはうちわにて蚊などを追い居り候ところ、手前への御教訓にもこれ有り候らはん、ただただ道歌を吟じ御出なされ、その道歌は上の五句ちょっと忘れ候えども

 何々の ここをせんととたのしめば
  月日の数もしらぬなりけり

と、幾度となく 繰返し繰返し御吟じのことのこれ有り候

○尊徳先生は、ある日の夜、嫁のコウ子にこう話されたことがある。

「焼木杭(やけぼっくい)も3年保つという譬えもある。

私が大きな火(多くの農村や藩政を改革し、天保の大飢饉の時には数万の人の命を救った)をたいた跡であるから、子や孫の代くらいまでは温かさが残るであろう。
しかし永久に保ちがたい、いつかはさめることもあろう。
もし子や孫が少しずつでも、火が消えないようにたいておれば、永遠に長く栄えよう」と。

(「尊徳門人聞書集」266ページ)

○二宮コウ(「金」篇に「交」)子は、滋賀県の大溝藩の三宅頼母(よりも)の娘として、天保7年(1836)江戸で生まれた。
嘉永5年(1852)4月栃木県の東郷陣屋において、尊徳先生の嫡男尊行と結婚した。
尊行31歳、コウ子17歳、しゅうとになる尊徳先生は66歳であった。
明治元年に明治維新の混乱の中、日光仕法は打ち切られ、今市から相馬の地に移住した。
明治4年にしゅうとめの歌子と夫、尊行を失い、36歳という若さで未亡人となった。
尊親17歳であり、2男2女の養育に心力をそそいだ。

後に二宮尊親は北海道の開拓に従事するが、コウ子は札幌に一戸を構えて、孫を預かって養育につとめた。
この「コウ子の手記」は、嫡孫の徳が札幌中学に通っていた頃、徳の問いに答えて整理したものらしい。尊徳先生の日常生活が伺わる貴重なものである。

☆   二宮尊徳の地震体験
○日曜日の朝、新聞を見ていたら「二宮尊徳の地震体験」という記事が目にとまった。
「小田原市の報徳博物館で十一日午後二時から『嘉永小田原大地震ーその時尊徳はー』と題した講座が行われる」とあった。これは行ってみなくてはと出かけた。

○二宮報徳神社に寄って神殿の前に立ったら、ドドーンと太鼓が鳴った。階段の下に履物があったから、祈願の方がいられたのだろうが、
「よく来たな」と歓迎されたように思われた。
祈る前に聞き遂げられたという気分だ。
 報徳博物館三階の研修室でロの字形に机が並んでいて、ざっと三十人くらいの人がいる。
齋藤清一郎さんが講義され、一円融合会の佐々井典比古会長が隣に坐られる。

齋藤さんは江戸時代の小田原大地震について説明された。
寛永大地震、元禄大地震(1703)、天明大地震(1782)、嘉永大地震(1853)とおよそ七十周年周期で地震が起きてる。
関東大震災が1923年で嘉永の大地震から七十年目、今年は関東大震災から82年目。周期からいうと、大地震がいつ起きても不思議ではない。

 講義の終わりに佐々井さんが
「この中で関東大震災の体験のある方いらっしゃいますか」と聞かれて話されたのが印象深かった。
「私はその時六歳でした。
台所の板間で食事していた時、地震が起こりガラガラとくるなか、ちゃぶ台の下に姉二人ともぐりこみました。
揺れがおさまってから木場、材木置き場に姉二人と行きました。
弟と母とはぐれました。
父は掛川に出張中でした。
弟がトイレにいたのを隙間から見つけた人が助け出してくれて一緒に避難しました。
火が燃えていました。
菓子屋があって、避難した人々に缶入りのビスケットを配って歩いていました。
火が近くなってきて、佐治郎さんがスックと立ち上がって
「一蓮托生だ」
と言ったのを意味は分らなかったけど覚えています。
風向きが変わり火が来なくなって助かったのです。」

齋藤さんは、嘉永大地震の規模を『藤岡屋日記』や福住正兄の『地震日記』などで説明された。尊徳先生の高弟で、湯本の温泉旅館の主となっていた福住正兄の日記にはこうある。
「二月二日の朝飯を食べて、書を読み書き物をしていた巳の刻(午前九時)をやや過ぎる頃、恐ろしい音がして地震が振るい出してそこらじゅう揺れた。やっとの思いで庭に降りたが、火事が心配になって家宝の脇差とかねてから用意していた九折(リュック)を背負って火桶を両手に持って出たが、そこらの鴨居など落ちる様子は恐ろしかった。」
家族で畑の中を歩いているとき、再び強く振動して、土煙が上って、空もくらくなったという。この折の地震で三千戸ほど倒壊し、死者も数十人出たという。それにしても、『かねてからかかる時のくべき心構えしおきたる』と持ち出すべきものを今で言うリュックに用意していたというのは大したものだと聞いていて感心した。
 また4日の日記には千度小路の魚商人が
「2日にいつものように魚をとろうと海へ船に乗っていったところ、伊豆の伊東の山々が動き出し、高くなったり低くなったりすると見ているうちに、海原に一筋の道を立てて同じように揺れだし、早川の流れに入って小田原から雨降山(伊勢原の大山)の方へと動き出した。この筋に折悪しくいた船は損傷してかろうじて陸に着いた。この筋をはずれていれば常と変わりなかった」と福住正兄に語ったという。
断層がずれてその衝撃波が伝わる様子が実に克明に記録してある。
また、12日の日記にはこうある。
「このたびの地震は、専ら足柄上郡、下郡のみで、陶綾(ゆるき)、大住(おおすみ)の2郡、伊豆、駿河の国々には大変軽かった。しかし、駿河の竹の下だけ足柄郡に変わることなく強かった」と結論付け、断層にそって地震が起こったことを証明している。
昔の人の観察力の確かさとまめに日記に記録することに驚かされる。

 二宮先生は、この時江戸麻布の相馬中村藩の中屋敷に居られて、日光神領の仕法受命嘆願中だった。
小田原藩の地震を聞いて、情報を収集され故郷の人々を心配された。
二月十三日仕法が正式に受命され、縁者に知らしたが、十九日に教学院に赴かれ、亡き大久保忠真公の霊前に「御内慮伺い書」を上げられた。大地震にあった小田原の人々を救うべきか、日光仕法に専念するか迷われていたのだ。天明の大飢饉の折、忠真公の命を受けて救済にあたった人々が苦しんでいる。
しかし六月五日付けの小田原藩の高月、小川氏あての手紙にこうある。
「御先代(忠真公)様仰せつけられたように、御領中(小田原藩)のみに限らず、前後左右国家のためになるよう心得申しそうろう間」
二宮先生はご自身で一藩から日本国全体のためになるようにと決せられたのだ。家を断絶して桜町に向ったように、藩から日本国へと意識が高められたのだ。そして日光神領の仕法雛形は、全人類への遺言として、復興プランのモデルプログラムとして構築されたように思われる。

これより前のことだが、福住正兄の「二宮翁夜話」ではこう伝える。
「弘化元年8月日光神領荒地復興の計画書を差し出せと幕府から命令があった。
 私(福住正兄)の兄の大澤勇助が江戸に出て、二宮先生にお祝いを申し上げた。私もその場に随っていた。
二宮先生はこう仰せになった。
『私の本願は、人々の心の田の荒蕪を開拓して、天から授かった善い種である仁・義・礼・智を養って、善種を収穫し、また蒔き返し蒔き返しして、国家に善種を蒔いて広めることにある。』
二宮先生は土地の荒蕪の開拓より「心田の開発」こそが大切だと教えられたのだ。

また、弟子の斎藤高行には「そなた達は、日光廟祭田の区々たる開墾に携わるより、むしろ私の説を書き記して後世に伝えるがよい」と諭された。(二宮先生語録181)。

この時期、尊徳先生の思想が深化されたのではないだろうか。




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