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下館の仕法

報徳記  巻之六 

【1】下館候興復安民の良法を先生に依頼す

常州(茨城県)下館候(石川近江守)は、下館城の1万3千石、河内国(大阪)に7千石あわせて2万石を領有していた。
天明の凶荒以来、戸数大いに減じ、収納の減少もまたこれに準じた。
上下の艱難ははなはだしく、一藩をまかなう費用も十分でなかった。
負債は3万両に及んで、一年の租税でその利を償うに足りなかった。
百計を尽くしたがこの艱難を除いて永安の道を立てることができなかった。
上下ともに大いにこれを憂えた。
天保9年に至って既に一藩を経営できなくなるに至った。
領民の艱苦もまた推して知るべきである。
しかるに尊徳先生が桜町三村を再復した功蹟や下民を恵む仁術を聞いて、郡奉行の衣笠兵太夫に桜町に赴かせ、上下の憂いを除いて永安の道を立てることを依頼させた。

衣笠はその性、慈仁実直であり、大変人望があった。
国家(下館藩)を憂えること深かったため君主自らこの大事を命じた。
天保8年10月、衣笠は君命を奉じて桜町にき来て先生に面会することを求めた。
先生は事務に暇がないとこれを断られた。
再三求めたが面会することができなかった。
衣笠は、下館に帰って次のように言上した。
「それ賢人に逢うことを求めても面会できないのが古今の常です。
貴い身分で賤しい者にへりくだるのがその賢を貴ぶゆえんです。
今、君命を奉じてかの地におもむきましたが、二宮は固辞して逢いません。
その賢はますます明白だというべきです。
再三おもむいて君の敬礼信義を通ずるのでなければ面会することはできないでしょう。
ましてや国事の依頼を受けることがありましょうか。
それがしは、ふたたびかの地におもむいて君意の切実であることを述べましょう。」
君は言われた。
「しかり。
これは予の誠不誠にある。
汝は再三往って信義を通ぜよ。」
ここにおいて天保9年9月、衣笠は再び桜町に至ってしきりに面会を求めて止まなかった。
先生はやむを得ず面会された。

衰貧の起る所には必ず根源がある。
その本を察しないで、いたずらに目前の憂いを除こうと欲する。
この故に力をつくしながら、かえってその憂いを増倍するものはたくさんあって皆このことによる。
今、下館候は天下の一諸侯として、その禄2万石を領有されている。
しかして衰貧の極に至ることを免れないのであれば、小禄小給の者は誰一人としてこの世に立つことができようか。
諸侯でこの憂いに及ぶのは他でもない。
諸侯の任は下、百姓を安ずることである。
しかしてその任を怠って安んずることができないのみでなく、
下民が汗水たらして辛苦の末収穫した穀物を、奢侈の用にあてて、民の父母である道を忘れたためではないか。
ここにおいて領民は年々に窮して農力を失い、衰貧に陥って、租税が減少して遂には上下の艱難となるのだ。
猶、その本を省みないで居ながらにして、商人から財を借りてその不足を補おうと計り、天から与えられた分限を省みて節度を立てようとするの行いもなく、また借債というものは国家を亡すの仇敵であることを知らないために往々衰極を致すのだ。
いったんその本源を明かにして仁政を行うのでなければ、どうして国の衰廃を挙げて永安の地を踏むことができようか。」

衣笠は大いに喜んでこのように言った。
「主家は連年艱難に迫られ借財が数万両に及んでいます。
元利を償還する道がありません。
年を経るに従って借金が増え、既に一藩を経営することができなくなっております。
この艱難を除かなければ、ついに災害が並びいたって亡国となるに違いありません。
君臣ともに百計・焦思すると雖も凡慮の及ぶ所ではありません。
我が君がこのために寝食を安んずることなく、先生の高徳仁術の良法を聞いてしきりに欣慕し、御尊諭を受けてこの艱難を除いて、一度上下を安らかにし忠孝の道をつくすことを願って、私に命じ国家再興の事を先生に依頼させました。
願わくは先生どうか下館の上下の困苦を憐んで、再復・安堵の良法を授けていただき、我が君の心を安らかにしてくださるようお願いします。
先生は言われた。
「私はこの三村に村役人としてこの民を撫育する事でさえ、まだ力が足らないため君命を辱しめてしまうことを恐れています。
どうしてほかの諸侯の要請を受け、その艱苦を除く余力がありましょうか。
かつて小田原先君(大久保忠真候)は私にこの地の再興を委任されました。
これを辞退すること三年、そして命を下すことはいよいよ切実です。
私はやむを得ずこの地に来たってこの事を成じたのです。
先君は小田原領を再興しようとしてしばしば私に問われた。
私は申しあげた。
小田原上下の勢いは四時の中の秋に当たります。
秋は百穀が皆熟し一年中で最も豊かであります。
小田原藩は旧来の艱難を少し免れ、下民の艱苦を知りません。
租税を重くして目前の逸楽を好んで国の本を薄くしてその末葉を厚くすることを主としております。
これを病者にたとえれば逆上の病いと同様です。
一身の気が頭上に登って両足が冷たく、気血は下に回らないで遂に重病に至りましょう。
これを治そうとするならば上気を下に降ろして両足を温暖にし血気が体中に循環するようにしなければその病気は治らないでしょう。
しかるに下部が冷え切ったことを憂慮しないで逆上を幸いとするならば、ついには一身を失うという害を生じましょう。
今、下民は艱難して穀物を分度以上に納めさせて、これを一藩の喜びとなすことと何が異なりましょうか。
危ないところに身を置きながら安泰であると思っています。
この憂いを除かなければ不朽の平安は得ることはできないでしょう。
それ治平の道はどのようかといえば、上を損して下を益し、大仁を下して下民を撫育し、国民をして豊かにするならば、逆上の憂いは去り、国の本は固くなって上下安泰となることでしょう。
しかれども一藩どうして民を憂い、自ら艱難に安んじようとずる心がありましょうか。
だから道は善美であるといっても、現在の人情では行うことが難かしいのです。
自然と艱苦の時が至るならばまた行われる時もありましょうか。
しいて秋に臨んで春陽の道を施すならば、事は成就しないで憂いを生じましょう。
良法があってもその時でなければいかんともできませんと言上しました。」

衣笠はこれを聞いて大いに感動しかつ嘆いて言った。
「あゝ先生の教導は誠に至れりというべきです。
小田原先君は賢君であって仁義の道を行われたことは世間が称するところです。
しかしながら小田原の時勢は既に秋に当たって、仁政が行はれ難いと先生が言上され、賢公は大志を懐きながら空しく過されたということは、その時でなければ聖人であってもいかんともすることができないということです。
この君にしてこの臣あり、しかしてなお行われず、
今下館の時候は何というべきか。
春夏にもあらず秋にもあらず、これをたとえれば厳寒の時というべきでしょう。
どうしてこの憂いを除く事ができましょう。
たとえ衰廃が極ったといっても、人力の及ぶ所ではありません。」
と大きくため息をついて、まさに退こうとした。
先生は言われた。
「そうではない。
小田原は秋の時候であるために、人々は目前の利を利として仁道が行われ難い。
下館は既に極寒になっている。
陰が極る時は一陽来復しないことはない。
上下が艱難に困却している。
ここにおいて春陽の道を行う、その時が来たというべきではないか。」
衣笠は大変喜んで言った。
「先生が下館再盛の道がないわけではないとすることは一体どうしてですか。」
先生は言われた。
「万物は一つとして、その一所に止まることはない、四時が循環するようなものだ。
人は富む時には必ず奢りに移り、奢る時は貧しきに移り、貧が極まる時は富に赴くというのが自然の道ではないか。
今、下館は貧困が極まっている。
どうして再盛の道が生じないということがあろうか。
しかしながら君臣が共に心力をつくし、上下一致して誠心が立たなければ大業を成すことができない。」

衣笠は大いに感激して下館に帰って、先生の言を君に告げた。
君は深く歎賞されて群臣に告げた。
群臣もまたその確言に感動した。
これが下館仕法の始めである。



衣笠は下館に帰って復命した。
君公は尊徳先生の教えに大いに感じて、時の家老の上牧に命じて、艱難再復の仕法を先生に依頼させた。
衣笠も同行した。
桜町に来たって君命を述べ伝えて良法を施行することをお願いした。
先生は私が及ぶ所ではないと固辞された。
両名は、切実にお願いて止まなかった。
先生は言われた。
「私は小田原藩の微臣である。
どうして諸侯の政治に関係することができましょうか。
また、どうして、ひそかに諸侯の委託を受ける道があろうか。
元来、小田原の仕法は先君の遺命によってこの地の再復の事を行いました。
ゆえにこの方法は私の方法ではなく小田原の方法です。
先君は既にこの世にはありませんが、なほ当君がいらっしゃいます。
下館候は、国家を再興しようとされるならば、その趣旨を小田原に相談されるべきです。」

ここにおいて下館に帰ってこの事を下館候に報告し、使い小田原候へお願いするに前条をもってした。
小田原候は使いをもって次のように答えさせた。
「分知の宇津家の領地の復興を二宮に命じて、再び小田原領中の事を命じている。
これに加えてほかに諸侯の委託を受けよとは命じがたい。
二宮にもし余力があってその委託に応じることがあれば、ともに喜悦する所である。」
使者は復命した。
ここにおいて再び上牧と衣笠を、桜町に至らしめて依頼させた。

先生は言われた。
「諸侯の任は専ら領民を安心して暮らせるようにすることではありませんか。
しかるに民を治める仁政を失ったために今この衰貧に至ったのです。
君臣がともに前に犯した過ちを後悔し厚く民を撫育しようとすれば、たとえその事を行うことができないとしても、なおその本を知っており仁政の志があるといえましょう。
しかるに下民が安心して暮らせるかを度外視してこれを憂慮する心がなく、専ら君臣が目前の艱苦を免れようとしてその道を私に求めようとする。
これは私が聞く所ではありません。」
両人は言った。
「国民を撫育しこれを安じようとすることはもとより君臣の願いとするところです。
しかしながら現在の租税の過半は借金の利子を払うために費え、一藩を経営することができません。
どのようにして下民を恵むことができましょうか。
借金が減少する道が得られれば、必ず国民を恵む事もまたこれによって生ずるでしょう。
先生願わくはまずこの急難を除く道を教えてください。」
先生は言われた。
「ああ惑っているというべきである。
君臣ともにその本体を失い、この衰貧に至って、なおその本に帰ることができず、国の本であるの艱苦を後にして、その末の憂いを除くことを先としている。
このように本末・先後の道を失い、国家を再興させようと欲する。困難ではないか。
しかしながら君臣の憂える所は借金にあって困窮が胸中に迫っている。
どうして国家の本源を論ずる暇があろうか。
この借金衰貧は何によって起ったのか。
国家の分度が明らかでなく、「入るを計って出ずるを制する」(礼記)の道がなく、国用が足らなければ他の財を借りて一時の不足を補い、少しも後難を思慮しない。
ついに貧困がここに至ったのではないか。
まずこの憂いを除かんことを欲するならば、国家自然の分限を明らかにしなければならない。
分限が一度明瞭になる時は貧富盛衰のよって生ずる所、衰廃再興の道理が自ら了然となる。
よって以前十年の租税を調べて、豊凶十年を平均しその度に当たるものが則ち天分の動かすべからざる分度である。
しかして出財を制する時、国家の基本が始めて明らかになる。
次に数年の借債のうち古借・新借を分って元利を明白に調査し、その金額を明かにして、その後その償還すべき道を参考にしなければ何によって当然の道を見ることができようか。
すぐに筆算ができる臣をこの地に派遣しなさい。」
両名は大変感じいって諸士数十人を桜町に派遣してこれを調査させた。
しかるに一藩の扶助に充てるべき穀物がなく、まさに飢渇に及ぼうとすることを憂慮しているという。
尊徳先生は大きくため息をつかれてこれを憐んで、穀物若干を下館に贈ってその急を補い、その後に数月の間、昼夜丹誠を尽くして両条の調査を成就した。


【3】先生上牧某を教諭す

あるときに尊徳先生は下館藩家老の上牧にこう諭(さと)された。
「国家の衰貧に当たって下館候の禄は名目は二万石といっても、その租税は三分の二ほど減少してしていようか。
しからば一藩の恩禄もその減少これに従うべきである。
衰時の天命にあたって君禄の限りあることをいかにしようか。
天命が衰貧の時に当たっては「艱難に素(そ)しては艱難に行う」(中庸)ことは臣下の道ではないか。
しかるに君禄の減少を知らないで自分の俸給の不足を憂慮し、そのあるはずもない給与を受けることを欲して怨む心を免れない。
国体の衰弱を知らないためであるとはいっても、誠に浅ましいことではないか。
国の政治を執る者(家老)は、天分を明かにし、衰時の自然を明らかにわきまえ、一藩の惑いを去って、その貧しきに安んじ、専ら国家に忠義を尽くさせるのが職分であり、最も先務とする。
しかるに家老以下なおこの天命をわきまえなければ、どうして一藩を諭すことができようか。
しかして家老がその天分を明かに知って一藩を諭したとしても、なお怨望の心は止み難いものがあるであろう。
なぜかといえば衰時の天命に従って、国家にあるはずのない所の物を渡す方法がないことを明示しても小禄の臣下は必ずこのように言うであろう。
家老以下在職の方々は俸禄が私達の十倍ほどです。
減少したからといってどうしてその困窮が私達のようでありましょうか。
人の上にいて高禄を受け、他の艱難を察することができず、天命衰時に当たるから無いものは渡す方法がない。
艱苦に安んじて専ら忠義を励めとは何なる言い草か。
執政の任務について仁政を行い、国の憂患を除いて、艱難を救い衰国を再び盛んにするのがその任務ではないのか。
もしその任に在ってこの事を行うことができないのならばその職を貪っているというべきです。
どうしてすぐに退職しないのですか」と言うであろう。
これは怨望が止まないためである。
このように怨望する者は、もとより臣の道ではなく、大いに本意を失っているけれども、この怨望の心をなくならせるのが執政の道である。
一藩の怨望は明らかに理解を待たないでたちまちに消除し、その艱難を安んじ忠義の心を起させる道がここに一つある。
あなたがこれを行わなければ国弊を矯正し上下の艱難を救うことはできないでしょう。
あなたはこの道を行うことができますか。

上牧は言った。
一藩の人情は誠に先生が明察されるとおりです。
私は多年にわたってこれを憂えておりますがいかんともすることができません。
今私の行いによって一藩の卑しい心を解消することができるならば上下の幸いはこれにまさるものはありません。
その道とはどのようなものでしょうか。
先生は言われた。
「その道は他でもありません。
ただあなたが恩禄を辞退するだけです。
そのときこのように言うのです。
『今、国家の困窮は既に極っています。
君は艱難を尽くされておられます、臣下の扶助を完全に行うことができない状態です。
一藩の艱難もまた甚しいというべきです。
私は家老の任にあって上は君の心を安らかにすることができず、下は一藩を扶助することができません。
これすべて私の不肖の罪です。
今、二宮の力を借りて衰国を再興しようとしております。
先ず私が恩禄を辞退していささかなりとも必要な資財の一端を補い、無禄で心力を尽すことが私の本懐です。』
このように主君に言上し、一藩に告げて禄位を辞退し、国家のために万苦を尽くす時は衆臣必ず言うでしょう。
『ご家老は国のために肺肝を砕いて再復の道を行い、恩禄を辞退して忠義を励もうとされている。
しかるに我等は国家に力を尽くさないで空しく君禄を受けている。
どうしてこれが人臣の本意としようか。
たとえ禄の十分の一を受けてもご家老に比べれば過ぎたものではないか。』
積年の怨望は氷解し、始めて無駄に食事をしている罪を恥じるの心が生まれ、日々活計の道に力を尽くし、他を怨まず人を咎めず、どのような艱苦をも安んじて、これを常としこれを天命として、婦女子に至るまでその不足の念慮を去ることでしょう。
しからば則ち一藩を諭さなくても現在の艱難に安んじ、忠義の一端をも励もうとする心を生ずるでしょう。
この艱難の時に当たって家老たるものが上下のために一身を責めて人を責めず大業を行うの道です。
しかしてただこれを行う事ができないことを憂いとします。
この道を行わないで人の上に立って高禄を受け、弁論で人を服さしめようとすれば、ますます怨望が盛んになって国家の災いはいよいよ深くなることでしょう。
どうして衰国を挙げて上下を安らかにすることができましょうか。」
上牧は大いにこの言葉に感激して言った。
「謹んで教えを受け直ちにこれを行いましょう。」
下館に帰ってこの事を主君に告げて、すぐに恩禄300石を辞退した。
微臣の大島という者と小島という者がこの事を聞いて感動し、二人ともに自俸を辞退して無禄で奉仕した。
先生はこれを聞かれて言われた。
「上がこれを好むときは、下はこれより甚しきものありという。
上牧が一度非常の行いを立てたら両人がまたこの事を行う。
古人の金言はなんともっともなことであうことか。」
そこで尊徳先生は上牧、大島、小島の三人に一家を扶助する米粟を桜町から贈って、その艱苦を補われたという。

尊徳先生は下館藩の過去10年の租税を調べ、その中をとって、過不及がない所の分度が既に定まった。
しかし年々3万余両の負債の利息の償還だけで2千余両にもなっていた。
このために租税の過半を失っていた。
先生は家老以下にこう言われた。
「年々負債の利子のために多数の米金が消え、何十年をへて幾万金を出してもその利息を補うだけで、元金の3万は少しも減らない。
しかも用度に節度がなく、雑費は増倍し、なお借金でこれを補おうとしている。
このようにして歳月を送るならば、ついに国の租税で負債の利息に充てても足らないようになるであろう。
そうであれば、2万石という名があってもその実は既に亡国に異ならない。
実に嘆かわしいことではないか。
一日も早くこの大禍を除かなければ、後で後悔しても及ばない。
しかして今この大患を除こうとするに、何か他に方法があろうか。
ただ上下が「艱難に素して艱難に安んじ」内を節約してこの憂いをなくすだけである。
しかるにいながらにして艱苦を免れようと私に請求しても、私が他国の租税を取つて、下館の不足を補うことはできない。
また借金を踏み倒して下館の憂いを除くこともできない。
また私の区々たる微力で、諸侯の不足を年々補うことはできないのはもとより論を待たない。
しからば大小各々節倹を行って艱難を凌ぎ、上下一致して丹誠を行うよりどのようにして憂いを除く方法が他にあろうか。
もし敵国が兵を挙げて下館領を攻撃することがあれば、一藩これを傍観して国の滅亡を待つであろうか。
あるいは一身をなげうって粉骨して苦戦をつくして国を全うしようとするだろうか。
国が危い時に当たって国のために命を棄てることは、もとより人臣の常道であって誰であろうと憤激戦闘の労をつくさないものはない。
しかるに今、借金のために領中の多くの租税を失い、君主がこのために安心できない、臣下もまたこのために困窮に迫られている。
事は異っているようだが、紛乱の世に当たって、敵のために領中をうち取られることに変わりがあろうか。
しかるに手をつかねいて年を送るならば、一国を失ったのと等しい大害となろう。
このような危い時に当たって、一藩が身命をかえりみず国の再復に心力をつくすのが人臣の常道ではないか。
しかるにこれを憂えず、ただ目前の扶助の不足を憂えて、国家に生じない米粟を豊かに受けることを望めば、どうしてこれを忠としようか義としようか。
惑いの甚だしいものといわないわけにはいかない。

およそ国家の衰弊が極まる原因は君主が君主の道を失い、臣下が臣下の道を失うためである。
これを再復しようと欲する時は、君主は群臣に先立って艱難をつくし、臣下は恩禄を辞退し、自己の勤労を以て活計の道とし、上下一致し力をあわせ国の憂いを除く時には、たとえ何十万の借金があろうとも償却すること十年を待つことなく皆済できるであろう。
このようにして上下の永安を得るに至るならば、君臣が共に「艱難に素して艱難を行っている」といってよい。
しかしてこれを戦争や粉骨砕身の苦労に比べれば、なおやさしいことは同日の論を待たない。
どうして成し難い事があろうか。
たとえ衰えた時代の人情であり、君主の扶助を残らず辞退し、この事を成しとげることができないないとしても、国の米粟が減少して扶助の米金もなく、他の財を借りてこれを渡し、このために歳月を経過すれば国は危亡に瀕するであろう。
しかして恩禄を受けて自ら安んじているようであれば、また災難も甚しいであろう。
君主も国家の憂いを増長して一藩を扶助しようとするのは君主の過ちである。
たとえ君主が過ってこのようにされるとしても、臣下がどうしてこれを受けるべき道が有ろうか。
これを君臣ともに至当の道を失っているといって間違えているか。
今、国の患いを消除する方法は他にない。
君主がこの道理を明かにして一藩に示し、国になきものを取ろうとするの心を改めて、艱難の天命に随って大借を皆済すれば、必ず艱難を免れることは疑いない。
この故に借債一年の利息に出すものを上下の用度に配して、その減少分を計算するに平均分度のうち二割八分の減に相当している。
これは自然の天命であって人の作ったものではない。
この減数を君の用度一藩の扶助を制し、その余は決して得るべきの道がない事を明らかにし、艱難をつくし年々利息を送るならば、三万両の借債は減らなくても、毎年に増借する災いは免れるであろう。
もしこの自然の分度に安んずることができなければ、国家の一粒の出所がなくなるまでにならなければ止むことがないであろう と教誨された。

家老以下大いに先生が明示された至当の論に感激し、この事を実施しますと言った。
下館に帰り先ず君主に報告し、次に一藩に示して減少当然の用度を立てることができた。
分度は既に定り、一藩艱難に対処して行った。
家老以下再び桜町に来てこれを先生に告げた。
先生は喜んで言った。
「下館の上下が天命を知り、その本は既に定った。
この時に当たって負債償却の道を設けなければならない。」
ここに数日、先生は沈思黙慮されて遂に数巻の書を作成し、これを家老以下に示して言われた。
「今、君臣ともに艱苦に安んじ年々利息を支払う道は備ったが、元金の三万両はいつまでたっても減ずることができない。
減じない時は国の患いは消除する時がない。
しかれどもこれを減じようとしても一金の出所もない。
やむを得ず、元金が減少する道を考慮したがここに一つある。
来年亥年の正月二月の両月の国用、米財私が仕法の米金を贈ってこれを補おう。
七八両月の米財は下館の市井の富商が常に君家の用財を弁じてきたもの八戸にて之を補わせよう。
また、宗家の石川候は慈仁であって憐恕の心が深い。
今、下館の君臣が艱難をつくし旧来の衰弊を挙げて永安の政を行おうとしていることを具陳すれば、必ずや補助をなしていただけるであろう。
しからば三四五六の四ヶ月の用財を補っていただくようお願いしなさい。
下館が再復すればその時に至って本家並びに商家の出財を償うことも甚だ易しいことだ。
このようにして当戌年に下館領村の租税で借債を償うがよい。
しからば元金の莫大なるのを減じて、従来の利息の支払で消えていたもののうち、多くの財を余らすに至ろう。
これを以て毎年元金を償うならば、ついに三万両の借債を償却することも困難ではないであろう。」
家老以下、尊徳先生の仁にしてかつ大知なることを感歎して、大いに悦んでこの事を詳しく本家に伝えた。
本家は先生の誠意を感じて四ヶ月の用財を贈られた。

先生また下館の商家八人を呼んで、国家を再盛し上下の艱難を除いて、永安の道を得る大理を教諭した。
そして前のように告げた。
富商等は大変感激して言った。
「私たちは家産をことごとく出せといわれましても、君命であればわかりましたと差し出すほかありません。
今、先生は下館にすこしも縁もゆかりもありません。
しかるにこれを旧に復しようと万苦をつくされております。
それだけでなく多くの米財を贈られました。
お礼を申し上げることもできないほどです。
私たちの出財はもとより願うところです」
ここに一年の貢税を以て遅延し難い負債を先立ってこれを償い、莫大な元金を減じた。
これが三万両の負債を償った始めであった。

☆以前、現在日光市となった今市の尊徳先生のお墓を拝んだことがある。
今市の二宮神社の奥にこんもりと土盛されている。
DSCF1395.JPG
尊徳先生は亡くなられる時、墓石は立てるな、木を植えるだけでよいと遺言されたが、
奥様のご意向も有り、墓石を作ったとも言われる。
その墓地で印象深かったことの一つは「下館藩」と刻んであるおそらくは尊徳先生が亡くなった当時の有志が寄贈したと思われる石柱が先生に侍うようにたたずんでいた。
きっと下館談話記にあるような、尊徳先生の熱い心が同時代を生きてその偉大さに触れえた感動のさせる業であろうか。

下館談話記(富田高慶筆記)は、嘉永3年10月二宮尊徳先生が、下館の重役らに説いたところを記録したものである。
当時、下館藩は仕法開始当時の熱意が薄れ、再開するか廃止するかの岐路にたっていた。
尊徳先生の肉声が聞こえてしそうな文章である。
「尊徳門人聞書集」221ページ以下に載っているが、漢字・カタカナをひらがなに直し、読みやすくしてみる。

【1】嘉永3年戌年10月4日、先生常州下館に至る。
家老牧志摩・柴田利兵衛・雨森頼母、奉行衣笠兵太夫など下館藩の豪商中兵の宅に集まって食事をとった。

尊徳先生は言われた。
このたび、わざわざまかり出たのは別義ではありません。
去る天保9戌年御領分の御立て直し御永安の仕法、先君の直書ならびにおのおの方まで厚く頼み入られたため、やむをえず種々の再復の御世話もうしあげたのです。
はたして数万金の借財も減少つかまつり、おいおい無借にもならるべく、したがって難場をしのぐ道も立ち、なおまた民間の再興の糸口も開けてきたではありませんか。
灰塚村一村も皆様ご承知のとおり起き返し、村人一人もその処をえない者なく安心いたしました。
いよいよ戌年に頼まれたときのように、憤発されとり行っていけば、きっと領内の再復は勿論、積年の借財も皆済し、上下永安の道が立つことは必定と思います。
私が幕府に召し出されて以来、以前のようには世話も行き届かないとはいいながら、皆様方が手堅くとり行っていけば安心するところですが、またまた借財がかさんで困っている次第を、先日衣笠氏から種々お話を承りました。
最近私も忙しく暇はないのですが、戌年以来既に10有余年に及んで、1年ごとに安心されていくところ、今になってかえって借財がかさんで困っているとはどういうことでしょうか。
このままほおっておけば、先君が厚く頼まれたかいもなく、また一身をなげうってお世話をした甲斐もないと嘆息しております。
やむなく万事を差し置いてここまで出てきて相談に及んでいる次第です。

(略)

下館談話記【3】

先生下館大夫(家老)に語っていわく、

草木の栄枯はその根の盛衰にあり、
故に根を肥やすときは随って枝葉花実栄え、
根をきれば随って枯れる。
一木これ永く栄えんことを求めば、その根に糞培するのほかに術なし。
その根をきって枝葉の栄えを求めば、人これを狂人といわん。
万物は一なり。
草木の栄枯と国家の盛衰と同じ。
それ国の根は百姓なり。
人君臣下は花実枝葉なり。
君の永安を求めるときは、百姓を恵恤(けいじゅつ:恵みあわれむ)すべし。
百姓足らば人君の安富尊栄求めずして至ること必せり。
農民の五穀を生育するや、糞培もってその根を厚うす。
身の労を厭わずして五穀を養うものは多くの実りを得、
安逸をのみ求めて五穀を養わざるもの、実り少のうして飢渇の憂いを免れず。
堯舜禹湯文武(中国古代の聖帝・賢王、堯・舜・禹・湯王・文王・武王)万慮を尽くし、兆民を撫恤して身の幸いを求めず、しかして天下の幸福これに帰す。
桀紂(けつちゅう:桀は中国古代の夏の最後の王、紂は殷の最後の王で悪王として並び称される)一身の富栄を求め、民に取ること度なく、万民の艱苦をもって一身を富まさんとす。
故に天禄永く終わり国亡ぶ。
その求めるところと至るところと相反する事、古今不易の常理歴然として明らかなり。
何をか疑い何をか惑わんや。
自然の理人作をもって変ずべからざることかくのごとしといえども、往々草木の繁茂を欲してその根を断つのたぐい絡繹(らくえき:続いて絶えないさま)として絶たず。
常に小人はこれを好み、君子はこれを悲しむ。
それ木の根を切れば、その憂いの直に達するは必ずしんに至り、枝葉の憂いは急ならず。
しからば民を虐ぐればその憂い直に人君に帰す。
その害の人臣に及ぶはまた時を経て緩し。
借財は領民に与らざるものににて左にあらず。
一国の聚斂(しゅうれん:きびしく租税を取り立てること)不足して他の財を借るは、なお木の根遠くさして水を運ぶがごとし。
この理根を切ればたちまち木のしん萎(しお)る。
故に借財をあがなわずしてこれを倒し、貸す者の恩を棄て一朝の安きを求めば、その害国君に帰する事恐るべきの至りなり。
世の才あるもの往々かくのごときの謀(はかりごと)をなし、かえって自ら国の憂いを除きたりとし、君もまたこれを賞す。
人君禍を受けるに及んでは何の故を知らず。
嘆くべきの甚だしきにあらずや。
およそ人臣たる君の災いを成す、不忠これより大なるはなし。
しからば、君につかえるものよく国家の大体を明らかにし、節倹を行い、分度を守り、国民を恵み、借財あらば敢えてこれをあがない、君の多福を生じ、国家永久の憂いなからしむるもの、忠臣の行いなり。 


下館大夫これを聞いて大いに嘆称す。

【4】尊徳先生が衣笠に言われた。
「むかし、曾子は門人に告げて曰く
『わが手をひらけ、わが足をひらけ、戦々恐々として深淵に臨むがごとく、薄氷を踏むがごとし、今まぬがるることを知るや、小子』と言えり。
桜町亡所を興した実業を見て、下館2万石復興のことを委任されてより、身を忘れ、財をなげうち、日夜の労煩辛苦を厭わず、盛衰存亡栄枯の根源を明らかに調べ、その中を執って、国家政務の大本を立て、数万の借債を消除するの道を立て、衰廃再興の道を行いし以後、既に10有余年、その功験も少なからず。
しかるを善と見て強く行わず、また敢えて廃せず、悠々緩々しては惰弱に流れ、つまり道を廃するの基なり。
何ぞこれならば、始終一のごとく憤発勉強せざるや。
もし非ならば何ぞ速やかに止まって我に任ずるの荷を除かざるや。
戌年以来の諸帳面を閲し、これも不可なり、彼も非なり、行に足るものなしといわば残らず焼き捨てるべし。
一書も余さず焼いてしかる後我もまた下館のことを免れるを知れり。
善を見て行わざるも勇無きなり、不善を見て捨てざるも勇なきなり。
人生限り有り、何れの時を期して一定せざるや。
それ戌年の頃、一国の急難極まれり。
かの時をしてこの仕法なくんば、困窮月々に増し、歳々に迫らん。
上困すれば下に取る度なし。
下限りある財をもって限りなき望みに供す、数年ならずして国中衰微し、民飢寒を免れざるに至らん。
かくのごときは国ありといえども何ぞ亡国に異らんや。
然るをこの大患を免れるのみならず、10有余年無難の星霜を経、あまつさえ数万金の借債をあがない、今日に至る。
その事功平常のことにあらず。
もし仕法なき時は市中の財尽き、困民離散疑いなし。
今、戸々の潤沢戌年以前に倍せり。
中兵(下館藩の御用商人)才ありとも、いかにしてかくのごとき豪邸を造るを得ん。
ほか7人衆も何をもって今日の安きを得ん。
これ皆国の憂いを我背負いたる故に衆人の幸せ存せり。
一藩もまた然り。
我はこれに異なり、人の幸せを先にして身の幸せを捨て、
人の安居を為して身の安居を計らず、
専ら2万石の憂いを除くをもって先とせしが故に、10有余年の今に至りて一日の安居なく、
2人の子も処置もせず。

しかるにこれは嫁を取り、彼は孫を産み、これは婿を取り、彼は相続の道立ち安心せりという。
元より衆人の望みを得させんがために困苦せしことなれば、この仕法をいよいよ厚く行い、終い遂げるならばもっとものことなれども、いったんの難場をしのぎえて、銘々の苦をまぬがるるやいなや、帳面をも調べず、あるいは約を変じて分度を越え、国の度に無き物を一藩(一同)へ渡し、借財をもってその不足を補い、千辛万苦の丹誠を廃し、再び亡国の大患を招き、空しく歳月を送る。
あに道といわんや、義といわんや、忠といわんや。
・・・
余は既に60有余歳、かくのごとくして歳月を送らば妻子皆迷わんか。
余初め桜町4千石亡所を興起するに千慮を尽くし万苦をなめ、20有余年、全く再復するまでに、己の力不足として下館へ助力を請いたることなく、又一金の財を借りたることなし。
・・・
衣笠氏曰く、
ああ過てり過てり
皆ことごとく一国の過ちなり。
先生いわく、
「過ちて改めるにはばかることなかれ」
なんぞ過ちと知り改めざるべからず。
10有余年の過ち、今速やかに改めるべし。
よく改めよく行わば、幾万の荒地も起きかえり、幾万の大借たりとも悉く皆済の道立ち、国家の永安疑いなし。・・・
予の所行は万世不易の仁道なり。
正に心魂に徹し、当に筋骨に刻んで怠らず忘れず、必ず勉強して行うべし。


衣笠再拝して曰く「謹んで命を聞けり」。

一 先生渋谷子(憲蔵)に謂いて曰く、世々貧富大小の不同ありといえども、己に備わる処の分限を守れば、よく富貴を保ちて貧窮の憂いなし。分限を守らざれば貧困常に離れずして亡滅の憂いあり。1年10両金を得るもの、分を知らずして20両を以て経営する時は、年ごとに10両ずつの不足を生ず。誰か是を補うことを得ん。商家1年の利益を得る100金ならば、この100金の分度より外に得べきものなし。然して年ごとに200金の用費を為せば、貧困たちどころに至る事常人も明らかに知る所なり。然らば下館御領分2万3千石、豊凶平均して9千俵余の内、

☆下館(しもだて)藩の立て直しー報徳仕法の導入と下館信友講(しんゆうこう)
(「江戸時代 人づくり風土記8茨城県」の7より)

<下館藩の状況>~<報徳仕法の導入>

<報徳仕法の展開ーまず藩財政の見直しを>
 尊徳は、下館藩の立て直しの手始めに、藩主の負債の整理と、2割8分(最初は1割9分3厘)の減俸という藩士の緊縮生活策を取った。
その時、天保9年(1838)の支払いを済ますと、翌10年分の藩の扶助米(藩の諸経費を賄うための米)がないという困窮ぶりだった。
そこで10年の1,2月分は桜町で調達し、3月から6月までは下館城下御用達の町年寄中村兵左衛門ら8名で調達、7,8月は本家である伊勢国亀山藩主石川日向守勝手元(会計)に立て替えてもらうことになった。
このように藩が一丸となって財政再建に取り組むことになり、藩主総貨(ふさとみ)の直書が尊徳宛に出され、また一部に反対があったものの、藩士も俸禄を辞退するなど、決意のあとがみられる。
 尊徳は、下館藩の財政立て直しに当り、綿密な調査をし、「為政鑑土台帳」を作成した。それによると、下館領は1,317町余で、天保10年より10ヶ年平均の詰め込み高(総収穫高)は14,256石6斗6升9合、うち私田米(しでんまい:領民の実際の収穫高)8、お42石9斗6合8勺5才(57%)、公田米(こうでんまい:田畑合計の領主への租税)6,213石6斗8升2合1勺5才(43%)となっている。
そして公田米のうち4,412石をもって藩の分度とし、これによって暮らしを立て、借財の返済と荒地の開発を進めれば、生活の向上が期待され、財政の基礎も固まると考えた。
負債の償還状況を見ると、次の3期に分けることができる。
第1期 仕法着手から天保14年まで
第2期 弘化元年(1844)より嘉永2年(1849)まで
第3期 それ以降のkもの
 第1期は、尊徳の示した2割6分の減俸を基礎とした時期で、償還も順調に進んでいます。しかし、領民を安住させるための仕法については、まだ着手するにはいたらなかった。
 第2期は、尊徳が弘化元年(1844)の幕府の命によって、日光仕法の雛形作成に努めていたために、下館の仕法にはあまり専念できなかった時期である。また、天保14年(1843)に藩主総貨が、大阪詰めお役目を解かれて帰国すると、弘化2年には2割8分の減俸を撤回した。
 この2割8分の緊縮は、藩主と尊徳との紳士協定であって、仕法完了まで継続するはずのものでした。
しかし総貨が独断で撤回したため、仕法は、停滞した。その結果手違いが生じ尊徳から報徳金(尊徳からの融資金)の返済を迫られ、藩としても相当困惑し、再三交渉し、嘉永3年(1850)にようやく解決した。
 弘化元年には新しい借金の記録はなく、借財元年も大幅に減少しているが、それ以降は償還能力が弱まった。
 第3期の嘉永3年になると、尊徳は幕領以外の私領地でも仕法を実施できることになった。
下館藩でも同年より分度を更新して、改めて償還の道を立てることになった。この時の負債は12,564両で、仕法開始前の35,066両の約3分の2がそれまでに償還されたことになる。
 嘉永3年7月からの1ヶ年間、藩士の給与召し上げや、上納金と御用達の負担で900両が作られれば、だいたい利息つきの負債は完了し、残りは10ヶ年年賦の方法で返済できるという新償還案が提示された。
 「二宮尊徳全集」にみられる下館藩の財政史料は、安政3年(1856)の「趣法書(しゅほうしょ)」で終っているため、その後の詳細な改革の内容は不明である。しかし3年の借財調査によると、嘉永5年末で6,800両余に減じた負債が、3年間で9,350両に増え、同年の予算でも900両ほどの不足となっている。
 このように、尊徳仕法導入によっても、下館藩の借財返済は順調にいかず、藩財政の収支のバランスは崩れていったことが分かる。

<各村への仕法の実施>
 尊徳は、次いで領内の村々にも仕法を行った。これは、嘉永5年(1852)2月、尊徳が富田高慶(たかよし)に命じて、下岡崎・蕨(わらび:下館市)の2村に実施したことに始まる。
 その前に灰塚村(はいづか:下館市)では、5町4反余の耕作人のない田地が生じたので、天保13年(1842)より尊徳に、試業仕法として開発の指導を受けていた。田地耕作の問題は、そもそも村の怠惰から生じたことではあったが、一軒について米1俵、干鰯(ほしか)1丁、新鎌2枚を与えて、油断なく耕作させるようにしました。また、教化式仕法を行い、家作用悪水路(つまり上下水道)、道路、荒地の開発に至るまで直接指導した。
その結果すべての問題が解決し、附近の模範となった。
 灰塚村の他に谷中が特別指定仕法地として仕法が進められ、嘉永5年には全領内に行うこととなった。
各村とも事情が一様でないため、開発順序を、灰塚・谷中の両村を除いた28ヶ村で、1村1票ずつの投票によって決めた。
 第1回は天保5年正月、蕨村と下岡崎村が1等当選、翌6年は、蒔田(まくだ)村・大島村が当選した。
1等当選の村では、村内の働き者と親孝行な者を村民に投票させ、当選した者には賞を与えるという方法を取った。
また無利息で金を貸し付けて家政の立て直しや、福利増進の策も取った。
なかでも、蕨村の小貝(こかい)川の堤防工事は有名である。
また、その当時飢饉に備えて食料備蓄のために作った郷倉が現存する。
 その後さらに下館町や、和泉、中館・小林(おばやし)・石塔・口戸などの各村に仕法が実施されていった。

<下館信友講>
 天保14年(1843)正月、下館藩の仕法導入を契機として、江戸藩邸と下館に、藩士の自助機関である「報徳信友講」(江戸で「報徳信友助成金」といった)ができた。
これは、報徳結社の創始といえるものである。
下館では最初47名で、その後70名に増えたが、安政2年(1855)57名を数えた。
江戸は最初17名だったが、48名に増加した。
 講の運営方法は、各自が4文ずつ積み立て、それがある程度の額となると記名投票によって貸付者を選び、無利息で貸し付けるというものだった。
これに加われば、藩政にも寄与することになり、加入者自身の福利にもなるということで、加入者が増えていった。
 信友講は、報徳仕法によって藩政も改まり、民治も進んだことにより、藩士自らも報徳仕法そのものの心・道徳を実践する必要があるということで結成されたものである。
これによって、幾度か藩士の経済的行きづまりが救われ、思想の啓発にもなった。
 この下館信友講は、書類上では安政2年で絶えたことになっているが、明治維新以降も盛んであったといわれる。
 明治30年(1897)、産業組合法が発布されると、いちはやく下館信用組合が設立された。これも、かっての下館信友講の精神を継承したものといえる。
そして、その後のわが国における信用組合運動の発展は、この下館信友講が始まりであろうとする説もある。(川俣正英)

二宮翁夜話巻の2
【23】下館藩に高木権兵衛という人があった。
報徳信友講という互助の結社が成って、発会の融資の投票の時にその入れ札に、
「私は不幸せで借金も家中第一である。
人間がたしかなこともまた家中第一である。
しかしながら、自分で自分へは入札できない。
これによって鈴木郡助」と書きつけて入れた事があった。
年を経て、高木氏は家老職となり、鈴木氏は代官役となった。
尊徳先生はおっしゃった。
「今日にして、往年入札の事が思い当った。
自ら藩中第一のたしかなる者と書いたのにも恥じず、
またこれによって鈴木郡助と書いたのにも恥じない。
本当に私のない、無比の人物というべきである。」


この夜話の話を「報徳の裾野」358ページ以降で佐々井典比古氏が二宮尊徳全集から次のように検証されている。

下館藩士の互助組織である報徳信友講は、天保14年(1843)、江戸と下館の両方にできたが、これは下館での話だ。
最初の講員47人が何かと工夫・節約をして1人1日4文ずつの割で積み立てたものが、丸1年で銭70貫500文、金にして10両3分2朱余になった。そこへ尊徳から「奇特の趣にて」報徳金20両の賛助があたから、資金は一躍3倍になった。これを講中の入札(投票)で上位5人に貸し付けることにしたが、一番札は8両、5番札でも4両2分2朱と、各自の積立額の20倍から35倍にあたり、しかも無利息7か年賦なのだから、まさに「褒美貸し」の名に値する、ありがたい貸付金であった。
 それだけに入札は重大で、信友講の「議定書」にも噛んで含めるように説いてあるが、要は論語の「挙直錯枉(さくおう)」の趣旨により、「全く正業にして常々心掛けよろしく、つまり上下のためにも相成り候程の者」でなおかつ現在困窮しているといったものを「挙揚」するのだから、「一統の見比べ」をもって「少しのエコ・私なく」入札しなければならぬ。そしてその結果は「十目の視るところ、十手の指さすところ、それ厳なるかな」にならなければならぬ、というのである。なお投票が記名投票で、当選者の無利息金返済について連帯保証の意味をもつことも、他の報徳仕法の場合と同様である。
 こうした趣旨が十分徹底した上で、歳末に入札が行われた。2名が出張不在のため、参加したのは45名であった。開票の結果は、一番札が6票で高木権兵衛、2番札は5票、3番札と4番札が4票、5番札が3票の中から選ばれた。ほかに3票が3人、2票が2人、1票が10人と、広く票が割れていた。鈴木郡助は2票で、第10位であった。
 1番札の高木軍兵衛は、他の1名とともに鈴木郡助に投票した。ただし、その票には『拙者儀、もとより難渋この上もこれなく、志すところ宜しきやに存じ候えども、わがことは申し述べ難し。よって鈴木郡助と存じ候』と端書があったのである。




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