日本の最大の民主主義者byインボーデン少佐二宮尊徳こそは、日本の生んだ最大の民主主義者―世界の民主主義者の中でも一大人物である。オルタ13号に富田昌宏氏がインデボーデン少佐が昭和24年に「青年」という雑誌に『二宮尊徳を語る』というインタビュー記事を掲載している。 ※『二宮尊徳を語る』ー新生日本は尊徳を必要とするー(原文のまま)GHQ新聞課長D・C・インボーデン (一)日本が生んだ最大の民主主義者 戦争が終わってからこの夏でまる4年になる。 この間、日本人は一生懸命になって日本の新しい生き方ー民主主義国家の建設ーの足固めに努力してきた。 民主主義という言葉は新聞に雑誌にまた講演に何千万回叫ばれ、綴られ、読まれてきただろう。 善きにつけ、悪しきにつけ、この言葉は戦後の日本人の流行語となり、数限りない議論がたたかわされ、中には強いてその意義を曲解し、民主主義の仮面にかくれて全く別の内容ー全体主義的な思想ーを主張し、宣伝する一部の者さえあった。 また現在といえどもそうした平和撹乱者の数は少なくない。 日本人の大部分は、もはや彼ら似非民主主義者たちの言葉には耳を傾けようとしない段階に達していると思う。 それどころか、口に民主主義を唱えながら、その実、暴力主義を実現せんとする狂信者たちに対して、はげしい憤りの念をすら抱いていると思う。 にもかかわらず、往々にして、米国的民主主義とかソ連的民主主義とか使い分けを耳にするのはどうしたわけか。 真の民主主義に二つあるはずはない。 人間の自由な合理な集団生活方式に歩み寄るため、その社会は個人個人や国によって多少形の相違はあっても、実体は一つであるべき性質のものである。 形式においても、精神においても、完全に対立する二つの民主主義国家群などあり得ようはずはない。 そのいずれが真の民主主義国家であるかは、二つの陣営のいずれの側において個人の自由がより十分に尊重されているかを見ればはっきりわかることである。 ここで私の言わんとすることは民主主義というものは、個人が誤りのない理性と激人間愛をもって真理を追求するとき、必ず到達する唯一絶対の結論であると言うことである。これは人種、国柄の如何を問わない。 一口に封建時代と片ずけられてしまう日本の過去の歴史のなかにも、そうした真理追求のために身を挺した人物はいるのである。 その一人、尊徳二宮金次郎こそは、近世日本の生んだ最大の民主主義的なー私の見るところでは、世界の民主主義の英雄、偉人と比べいささかの引けもとらないー大人物である。 祖先のうちにこのような偉大な先覚者をもっていることは、あなたがた日本人の誇りであるとともに、日本の民主主義的再建が可能であることを明確に証明するものであろう 私は日本に来て、その歴史にこの人あるを知り、地方によってはその偉業がさかんに受け継がれているのを目の当たりに見て、驚きと喜びの情を禁じえない。 (二) 静岡県杉山部落の話 日本人なら誰でもー小学校に通ったことのあるものならーあの肩に重い薪背負い、歩きながら、むさぼるように書物に読み耽っている少年の像を想い浮かべることができるに違いない。 勤勉の生きた姿として、二宮金次郎は、必ずや日本人の一人一人の頭の中に根強く焼き付けられているはずである。 ところで、あなたがたが修身教科書から学び取ったものが、ただ寝食を忘れて勉強する模範少年の型だけであったならば、それは甚だ危険な学び方である。 勿論、勤勉は大きな徳の一つであるが、ただ単に努力家というだけの人ならそう珍しいものではない。 ひとり営々として富を貯え、地位を築き上げた人の話はわれわれの良く耳にするところである。 二宮尊徳の教えるものは、そうしたいわば利己的な立身出世主義ではなく、社会人として践み行うべき一つの大道である。 すなわち 「いかなる人もこの世に生をうけ生を保っていられるのは、天と地と人のおかげである。 したがってその広大な恩に報いる手段として、人は生ある間、勤勉これ努めねばならない」 これが尊徳の主張し、かつ自ら実践した報徳の教えであって、彼の主義とその主義から生まれた経済の方法ーというより一種の道徳にもとずく社会政策ーは死後一世紀に近い今日なお一部地方農村の指標となり、他の町村では見られない効果をおさめている。 私は日本各地を旅行して、その伝統的美風の多くのもの、勤勉、正直、朴訥、隣人愛などが農村にこそ脈打っていることを示す事実に再三ならず出会ったが、なかでも特に心を動かされたことが一つある。 静岡県庵原郡杉山部落を訪れた時のことである。この村では、過去85年の間、ただの1回の犯罪事件のないことを知って感嘆した。 これは世界の歴史を紐どいてもなお稀有のことであると思う。 思想的にも、心理的にも、道徳的にも著しい頽廃を特徴としている戦後の日本社会、あの血なまぐさい帝銀事件をはじめ、下山事件、さては三鷹の無人電車暴走事件などを生んだ同じこの国の一角にこのような犯罪のない村が存在することは、一寸常識ではうなずけないことである。 この村の経営がいっさい尊徳の遺した主義、方法に則っていることを聞いて、はじめて納得がいったのである。 (三) 一生を貫いた百姓魂 二宮尊徳は大地にしかと足を踏みしめて立った百姓である。百姓尊徳は百姓の権威を持っている。 金次郎が18歳の時であった。百姓の子にしては珍しい頭のよさと学問好きに感服した村の和尚が、彼に熱心に出家をすすめた。 そしてこう言った。 「お前が出家すれば、この寺をお前に譲る。金次郎、お前は百姓で朽ちるには惜しい人物じゃよ」 しかし、金次郎はにべもなく答えた。 「和尚さん、折角ですが、それはご免です」。 「坊主はいやか。そうか、だがお前のような人を百姓で朽ちさせるのは」 「百姓で朽ちる?」 金次郎は興奮した。 「その言葉が私には気に喰わないのです。 百姓になることは朽ちることじゃねえ。 百姓くれえ立派な仕事はねえと私は思います。 私が学問するのは、立派な百姓になるためにするんです」 この百姓魂こそ尊徳の一生を貫いたものである。 尊徳は論語を読み、観音経を誦し、老子の学も、神道も究めた学者であったが彼の教えた報徳教は、それらの書物をそのまま鵜呑みにしたものではなく、身をもって実行し、また真偽を確かめ、一度は尊徳という人物の腹の中で消化されたのち、独自の形をもって生み出されたものである。 長年にわたる百姓としての激しい労働、古の聖人賢者の教え、自然を観察した理法、それらすべてのものから結晶して生じたものである。 この精神に導かれて尊徳は家を興し、荒れ果てた町村を復興し、人々の誤りを正し、特に百姓に対して平等と幸福への道を示した。 真理の道はただ一つ。 儒教も、仏教も、道教も、あるいはまたキリスト教も、この唯一無二の真理にいたる道の数多い入り口に他ならない。 当時は民主主義という言葉はなかったが、真理を尊ぶ彼の思想の底には、今日言われる民主主義の本質的な精神が脈々と波うっていたことがうかがわれる。 尊徳は仏陀の「天上天下唯我独尊」という言葉を引いて訓した。 「天下に自分より尊いものはいないと言われたのは、お釈迦様が威張って言われたわけではない。 この御言葉の意味はこうだ。 お釈迦様ばかりではない。 お前さんも私も、天下の人ことごとく、いや犬や猫にいたるまで、みんな自分自身をなによりも尊いとする権利を持っている。 我というものを除いて天地の間に一物もありえない。 ひとりひとりの尊厳。それを認めることが人の世の根本なのだ」 尊徳のこの考え方と、われわれ米国人が民主主義の基礎と思っている独立宣言書の核心との間に、いささかの開きも私には認められない。 独立宣言書はこう言っている。 「万人は平等に創造され、創造主により他に譲り得べからざる権利を授けられてる。この権利の中にこそ、生活も、自由も、幸福の追求もある」 人は自分の我を尊ばんとするならば、まず第一に他人の我を尊ばねばならない。 自由とはそうしたものなのである。 真の自由主義者とは、奉仕と犠牲の精神に燃えて、しかも真理のためには一歩も譲らない人をいうのである。 (四)報徳とは善根をつむこと 『まこと』--尊徳のすべてがこれにつきる。 宇宙の根源はこれにつきる。 宇宙の根源は『まこと』であるという。 『まこと』とは何か。その意義を体得することが人生の第一義である。 「古語に至誠神の如しというが、『まこと』とはすなわち神であるといってよい」ー「二宮翁夜話」の中の一節である。 『まこと』から天と地が生まれる。 すなわち万物は神に帰一するといえよう。 個々の利害や目的を超越した天から見れば、すべての生物が勢いを生成し、発育することは善である。 この点について、稲と雑草の間に善だの悪だのの区別はない。 万物を一視同仁、何ら区別なく平等に見ることーー。 これを尊徳は天の理と呼んでいる。 これに反し、人の世においては、善悪は厳しく区別されねばならない。 ここでは稲の生えるのは善であり、雑草は悪である。 人の目的が稲をとり入れることにあるからである。 もし、人が草を育てようと思っているとき、稲がまじって生えたりすれば、それは悪である。 このように、人が心に抱いている目的により、万物を善と悪とに分けてみる見方が尊徳の言う『人の道』である。 『人の道』にはずれぬようにするにはどうしたらよいか。 尊徳は仏法、すなわち過去、現在、未来の三相にわたる因果の理論を取り入れ、人の命はこの地上だけのものではないと教える。 すなわち 「人は自ら思慮を深く保ち、目先の利益や快楽に誘われることなく、永遠の生命に生きることを心がけねばならぬ。 この世に生ある間、善を行うことにより、善根を生み、善根を積むべきである」と。 人はみな、天・地・人のおかげで生きている。 徳を行う、すなわち善につとめることにより、その恩に報いなければならない。 言葉をかえて言えば報徳とは善根を積むことである。 (五)世界最初の信用組合の創設者 尊徳は『まこと』を口先だけで説いたのではない。 繰り返し言うようだが、彼の場合、思想は常に実行の裏付けをもっていた。 至誠と実行、この二つは不離不即、車の両輪のごときものである。 米国にも19世紀ソーローという人があって、有名な思想家エマーソンの思想に共鳴し、ウオールデンという森の中に掘っ立て小屋を建てて、自然に生きる生活を送った人がある。 この人も思想を実行に移そうとした点では尊徳に似ているが、どこか学者臭く、思想が先にあり、それにしたがって自然の簡易生活に入ったという感じがする。 ソーローにひきかえて、尊徳は生まれつき土の人であり、またどこまでも土の匂いのする人である。 尊徳のいう『おのれの徳』とは、『まこと』の念から燃え上がる感謝報恩のための勤労を意味する。 そしてこの勤労精神こそ、古くから日本に伝統されていた国民精神の一つで、とりわけ、農民の血液の中に最も強く伝えられていたものである。 二宮尊徳はその模範的な体験者であったといえよう。 報徳と実行。 これは尊徳によれば推譲ー譲ることーという形において行われる。 推譲には二つの道がある。 おのれの将来に備えるための貯蓄。 すなわち、おのれのための推譲と他の足らざる者に融通する、すなわち他への推譲を行うことにより、人は善根を積むことができる。 他人へ融通するには、それだけ金銭の余裕が必要である。 このためには分度ということが説かれる。 分度とは、それぞれ生活の分を定め、その分内において日々の暮らしを立てることである。 入るを量って出ずるを制し、収入に応じて生活の程度を定める。 収入以上の生活をしてはならないことは勿論、収入とぎりぎりの生活をしてはならない。 必ず、その幾分かを余して、後日の用にそなえねばならない。 ことに、推譲を可能とする二つの徳ー勤勉と節約が重要となる。 こと経済の問題のように見えるが、小さな私利私欲をはなれ、われ、人ともに生きんとするための勤労と節約であるから、奉仕と犠牲の念なくしては、とても貫き得ないことである。 根本においては道徳的なものであって、物質的なものではない。 しかし、一方物質的な方面から見ても、勤勉と節約は成功への最も確かな、最も速やかな道である。 他への推譲。 これを尊徳は報徳積善会という積立金の中から、困っている人たちに融通することによって行った。 そのもとは用水堀の傍らの水溜りに植えた一握りの棄て苗である。 他の百姓が田の畦に棄てたひょろひょろ苗を、これを生あるものといとおしみ、拾い集めて、それが翌年になると一俵の籾となり、五俵となり、二十俵となる。--共鳴した村人の出資と合わせて、「五常講」という金融機関が誕生したとき、尊徳は何万両という金を動かせる身分になっていた。 もちろん、その時になっても、自分は綿服に足袋もはかず、一汁一菜のほかはとらなかった。 「五常講」は、『まこと』と勤労を無形の抵当とする一種の信用組合である。西洋における信用組合の最初の設立は1850年であるから二宮尊徳は世界最初の信用組合の設立者ということになる。 このことから見てもわかるように、尊徳の分度、推譲の方式は小を積んで大をなすやり方である。 この方法ににしたがうとき、人は巨万の富を積むに至らずとも、その収入を増やし、家を興し、もって自分の所属する町村全体の生活水準向上に奉仕することができる。 また一つの町、或いは村の全員が報徳の教えの遵奉者であるとき、そこには極端な富者も貧者もなくなり、個人の財産が目立って増えることもなかろうが、その町や村全体の生活が安定し、他の町村に比べ、より幸福な、より満ち足りた生活をおくることができる。 原始共産主義が目的とした富者も貧者もない共産社会は、一種のユートピアであり、理想社会だが、神を否定し、物質主義を基底とするマルクス・レーニン主義が極端な独裁政治、血の粛清、数千万の奴隷労働者を生み出している惨たる現状に反して、百年前、『まこと』の精神から発足した報徳の教えによる村々が今日に至るまで、上記の平和な理想に近い社会状態を誇っているという事実は何を物語っているのであろうか。 マルクス・レーニンの共産主義は、ようやく人間の本性に遠い、抽象的なごまかし理論であることを示している。 (六)真理は時代を超越して永遠に生きるもの 尊徳の教えは前にも言ったごとく、あなた方日本の青年男女諸君の耳に、たこができるほど聞きあきた、古くさい、陳腐なお説教と響くかもしれない。 若い人たちは、いつでも何か新しいものに目を走らせ、耳をそばだてたがるものである。 だが、もしあなたが熱心に真理を求める人であるなら、いやしくも真理に関しては、婦人服の流行のように、新しいとか、流行はずれ。 (この部分、活字不鮮明) 権利のみを主張して、義務を忘れた労働者のあり方がきびしく反省され、労働精神の確立が叫ばれている今日、真の民主主義的な労働者の息吹は、あなたがた純朴な勤労青年諸君の中から燃え上がることを私は期待する。 民主主義とは海の向こうから渡ってきた馴染みにくい思想では決してない。 その模範となる大人物はあなたがたの身近にある。 あなた方はただちに実行に移らねばならない。 勤労に限度はない。 もし、あるというものがあるならば、それは必ず国民の耐乏生活に対する不満を扇動し、混乱につけこんで権利をわが手に握ろうとする一部の全体主義的野心家に相違ない。 『こうした口先ばかりの民衆の友』に欺されてはならない。 尊徳の事業は、その精神において深遠なものであったが、武士に非んば人に非ずとされた封建時代に農夫と生まれ、農夫として立っため、後で、大小の藩から財政建直しの顧問や指導者として起用されたが、その手腕は大きく存分に振るわれたとはいえない。 しかし、彼の人格と遺志は全国の復興に試みた方法を、今日拡大発展させ、あなた方の祖国日本再建のため用いることはあなた方の義務であると同時に権利でもあろう。 300年にわたる、かの徳川封建時代の暗雲を高く貫き、ひとり富士のごとく、孤高を描く尊徳二宮金次郎こそは、日本の現状において再認識さるべき第一の偉人であると私は考える。 ☆岡田博氏の「二宮尊徳の政道論序説」180~182ページに佐々井典比古氏の『寸劇 観音』の一部が掲載されている。 「佐々井典比古先生から『観音について、若い時に書いたもののコピーをお送りします』と頂いた、神奈川県総務部考査研修室発行『教養月報』の、佐々井典比古先生ご創作の『寸劇 観音』」である。・・・ 佐々井典比古先生ご創作の『寸劇 観音』は、時代は文化元年(1806)二宮金次郎18歳、善栄寺考牛和尚60余歳の設定で、二宮金次郎が善栄寺へ駆け込む所から始まる。青年金次郎は飯泉の観音様で旅僧の唱えた和訓観音経を聞いて、自ら悟った所を感激をこめて語る、それに考牛和尚が応える。 考牛和尚―うむ。「まさに優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)の身を以て得度すべき者には、即ち優婆塞・優婆夷の身を現じて、ために法を説く。まさに童男童女の身を以て得度すべきものには、即ち童男童女の身を現じて、ために法を説く。」 ・・・・・・そうか。 金次郎―それが、始めは分からなかったんです。おいら無一文のみなしじになって、どうしたら潰れた家を建て直せるか、毎日毎晩考えて来たんです。でも分からなった。百姓が貧乏から起き上がるしかたは『大学』にも、どこにも書いてないし、誰も教えてくれないんです。 考牛和尚―・・・・・・ 金次郎―ところが、去年の春、砂埋めになった地所を掘り起こして、捨ててあった余り苗を植えておいたんです。秋になって刈って見たら、和尚さん、なんと一俵あるんです。一俵ですよ!なんにもない荒地から、おいらの身上が出きたんです。(中略)おいらはそれを天地から教わったと思ってました。しかし、今のお経文で言えば、田んぼも捨苗もみんな観音様で、おいらを助けてくれたことになるんです。 考牛和尚―ウーム。 金次郎―『大学』にある「明徳を明らかにする」ということも、「福聚(ふくじゅ)の海無量なり」ということも、同じだと思うんです。藁には藁の明徳がありますね。縄になったり、わらじになったり。ただ、作らなきゃ明らかにならないんです。一生懸命作るのが「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)でしょ。いいものができれば明明徳だし、わらじ観音、縄観音でしょう。山にも田畑にも、明徳、功徳が埋っている、掘り出し刈り出す程ふえて行く。だから「福聚の海無量なり」だと思うんです。 考牛和尚―(驚畏する) 金次郎―人の間だって、売り手は売って助かり、買い手は買って助かる。「慈眼もて衆生を視る」とあったけれど、衆生もお互いに観音になりっこするんじゃないですか。世の中は。 (『教養月報』第12号、昭和25年4月) これは、『寸劇 観音』の抜粋であるが、気になるのはGHQのインボーデン氏の 『二宮尊徳を語る』ー新生日本は尊徳を必要とする に出て来る和尚が金次郎の悟りに感嘆の余り「お前は百姓にはもったいない、坊主になれ、坊主になってこの寺をついでくれぬか」に反論する場面でそれがこの『寸劇 観音』の流れとよく合うのである。 ※『二宮尊徳を語る』ー新生日本は尊徳を必要とする(GHQ新聞課長D・C・インボーデン 抜粋) 二宮尊徳は大地にしかと足を踏みしめて立った百姓である。百姓尊徳は百姓の権威を持っている。 金次郎が18歳の時であった。百姓の子にしては珍しい頭のよさと学問好きに感服した村の和尚が、彼に熱心に出家をすすめた。 そしてこう言った。 「お前が出家すれば、この寺をお前に譲る。金次郎、お前は百姓で朽ちるには惜しい人物じゃよ」 しかし、金次郎はにべもなく答えた。 「和尚さん、折角ですが、それはご免です」。 「坊主はいやか。そうか、だがお前のような人を百姓で朽ちさせるのは」 「百姓で朽ちる?」 金次郎は興奮した。 「その言葉が私には気に喰わないのです。 百姓になることは朽ちることじゃねえ。 百姓くれえ立派な仕事はねえと私は思います。 私が学問するのは、立派な百姓になるためにするんです」 この百姓魂こそ尊徳の一生を貫いたものである。 このインボードン氏の『二宮尊徳を語る』が『青年』に掲載されたのが、昭和24年で年代的にドンピシャリ当てはまる。つまり、インボードン氏は若き佐々井典比古氏の創作に感銘を受けて引用したに違いないと思われる。『寸劇 観音』の全容を知りたいものである。おそらくは教養月報に載った以上のものがあるのかもしれない。 そして、それは オペラ二宮金次郎 のような壮大な 作品への可能性さえ予見させるかのようである。 ジャンル別一覧
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