留岡幸助&加藤拙堂☆「留岡幸助の研究」(室田保夫著)抜粋留岡幸助は、明治維新の4年前、1864(元治元)年、備中高梁(旧松山藩,現在の岡山県高梁市)の地で生を享けた。理髪業を営む吉田万吉とトメの次男として生まれ、誕生後すぐに、米穀・雑貨商を営む留岡金助と勝夫妻の養子になった。 藩主の板倉勝静(かつきよ)が幕府の老中を務めていた松山藩は、保守的、且つ耶蘇嫌いの土地柄で、明治時代になっても身分制などの伝統的な価値観が色濃く残っていた。幸助は、士族の子供も町人の子供も一緒に学ぶ伊藤武一郎の寺子屋に1872 年から通い始めた。ある日の帰り途、町人出身の幸助は、口論となった士族の子供に木刀でひどく撲りつけられたために、相手の手首に噛みついた。その結果、幸助の父は、その士族屋敷への出入りを差し止められ、幸助は、怒った父に激しく殴られてしまった。このとき幸助は、士族であること、町人であることの理不尽さを強く感じた。幸助が、16 歳のときにキリスト教を信仰するようになった理由もこの理不尽さに関係していた。西洋の軍談講釈の類いと誤って聞きに行ったことに端を発している。何度か通ったキリスト教宣教の場で幸助は、「士族の魂も町人の魂も神の前に出れば平等だ」という教えに心をとらえられた。 「そうしますると、ある日、子どものことですからどちらが善いか悪いか判りませんが、何でもないことがー口論から喧嘩になりそして私はひどくなぐられました。四民平等というものの当時と実際と致しましては士族と町人の間にはまだ区別がありました。士族の子どもは腰に木刀をさしており町人の子どもは素腰でありました。それで喧嘩はどういう理由だったか判りませんが、口論の結果私は士族の子どもから木刀でさんざんなぐりつけられ、大いに口惜しがって・・・なぐった子どもの右の手を両手で引き寄せてその手首に食いついてしまったものです。歯型が翌日でもはっきり付いていたといいますから随分ひどく噛み付いたものと見えます。その子が痛い痛いと叫んで泣いて帰って行くのを今でも憶えています。」 「この事件は私の8歳の時でありましたが、・・・子どもには子どもの理屈がありましてどうにも私が悪いと思われない。悪くない自分を木刀でなぐるからやむをえず食いついたのだ、それだのにおやじが呼び出されて叱られ、その上米が売れなくなり、あまつさえ私がまたもや散々なぐられたということはどうしても道理が立たない。いったいこの世の中はどうなっているんだい。こういう感じを抱いたのであります。」 「ある日の説教中に 士族の魂も、町人の魂も赤裸々になって神様の前に出る時は同じ値打のものである、と申されたことが私の心を捉えました。・・・神様の前に出る時は同じ値打だという教えは16歳の私として、これはよいことを聴いたものだ、いい教えだと痛感せしめられた事でありました。」 留岡とキリスト教との出会い 幸助は、12 歳で高梁小学校を終え、その後は家業の手伝いをした。 「12の年までは小学校に通学していたが、ある事情のためにその学校が廃校となったために、子ども心にも憤慨の余り、他校に転ずることはしないで直ちに八百屋になった。そしてその頃、予の国で商人となる者がその第一階ていとして誰でも一度はやったように、予もボロ、紙屑、古着類を買い集める行商人となった」 「少年時代に青物の行商を見習いし時に、2銭7厘のネギを売りて2銭5厘を得しが、2厘の損失を気にして養父に語るを躊躇せしに、かえって養父より尋ねられ、恐る恐るありのままを報告せしところ、養父は敢えて咎むるところなく、商人は損をしながらも生活するものなり。常に儲かるにきまったものであなし。心配に及ばぬと教訓せられた」 幸助は、高梁から一里のところにある川上郡の玉村に買い出しによく行き、その度にそこの水を飲んでいた。そのため、16 歳の頃に、その地方の風土病である肺ジストマにかかってしまい、幸助は、キリスト者の医師、赤木蘇平(あかぎそへい) やドクトル・ベリーの治療を受けるようになった。 「高梁から一里、高梁川を下りますと、川上郡の玉村という所がありまして、そのところへ私は12,3から14,5歳の頃、タケノコ、松茸、綿、葉タバコなどを買出しに行ったのでありますが、その村に数々出入りしている間によくそこの水を飲みました。その水の中に肺ジストマがおりましたものと見え、私は肺ジストマにかかりました」 やがて、幸助は、赤木医師宅で生活するようになり、1882(明治15)年には洗礼を受けた。父、金助は、警察署長に説得を依頼したり、腕力、拘禁策を使ったりして棄教を迫ったが、幸助はその要求には応じず、2 度の家出を企てた。 この養父金助から棄教を厳しく迫られ、しかもその迫害が幸助の信仰を深めた事件は当時の事件として新聞等で報道されたという。 明治16年3月15日の『山陽新聞』には「老爺子を殺さんとす」という記事では 「備中上房郡高梁南町吉田金助は19年前にある家より一歳になる男の子を貰いうけ昨年まで18か年養育せしに、彼は多病にて商業に従事する能はざるにより、同所の医師赤木蘇平といえる者に治療を乞い同人方へ寄宿させ置きしに、蘇平はヤソ教の信者なれば金助の養子某を達者なる身に回復させてゆくゆくはその教えに引き入れんとの存念にて治療に力を尽せしに、その功ありて、某も漸次に回復なしければ、蘇平は某を勧めてこの教えに引き入れ洗礼まで受けさせしに、金助は某の病気が癒えたるを喜び度々呼び返せしも、この教えは上帝よりほかに親と尊ぶものはなきゆえ養父などの命には従いがたしと主張して、一向帰らざるにより金助は大いに怒り、上帝よりほかに親と尊ぶものはなしなどとは言語道断の至り、打ち殺して遣らんと刃物を持ち出さんとせしに止めるものありて金助は思い止り・・・この為に中止せしがこのために一紛議を惹起し、目下例の悶着中なりという」 一方当時の「福音新聞」はこのように伝える。 「備中高梁教会に留岡幸助という青年の一信者あり。・・・両親も得心の上昨15年洗礼を受け教会に入りたる者なり。然るにいかなる故なるかその父は心を変じ昨年の12月頃よりにわかに幸助氏の信仰を妨げはじめあるいは言論をもってし、あるいは腕力をもってして実に筆舌にも尽されぬほどの迫害を加えて止まざりき。然れども幸助氏はこれらの迫害にも屈せずいよいよ柔順に孝道を尽し商業を励み種々父の心を慰めて信仰の自由を得んと欲するも更にその功なく父はますます猛り迫り種々なる手だてを以て苦しめてやまず。本年に至り一夜既に生命も危うきまでに苦しめられしかばその迫害に堪えかね夜中父のもとを逃れ西京に至り暫く同志社におりしが(略)」 室田保夫氏はいう「迫害があればこそ留岡の信仰はますます強固となった」と。 ○留岡幸助は、岡山県に元治元年(1864)4月9日に髪床をしていた吉田万吉。トメの家に生まれた。 万吉は子沢山で近くの米屋の留岡金助・勝子夫妻が子どもに恵まれないため、今度生まれた子は養子にさしあげましょうと約束していた。 そこで生まれた子は生まれて間もなく養子にいった、それが留岡幸助である。 明治5年(1872)、幸助は士族屋敷のある新町の寺子屋へ通い始めた。 寺子屋からの帰り道、幸助は士族の子どもと喧嘩になった。 幸助は武士の子に噛み付いてやっつけたが、武家の家から米屋の義父が呼び出され出入り差し止めになった。 義父は幸助をはげしく折檻した。 そのことをきっかけとして、幸助は人は神の前で平等と唱えるキリスト教に関心を寄せるようになった。 幸助は明治13年頃筋ジストマにかかり、赤木蘇平という医者の家に住み込んだ。 義父は幸助が体が弱いために商人より医者の見習いをさせようと思い立ったのである。幸助はそこで医薬の初歩と漢学を学んだ。 赤木は明治15年に教会を設立したキリスト者であり、偉業に携わるものは、廉恥心を持ち、患者に親切にし、貧富を問うことなく、また一人でも多く治療の機会を開くべきであると説いていた。 義父の金助は幸助を赤木のキリスト教の影響から離そうとやっきになるが、明治16年幸助はかえって京都に脱出し、同志社の新島襄のもとにころがりこんだ。 新島の日誌には「明治16年3月28日、備中高梁の留岡幸介なるもの、父の迫害を蒙りしに、能く脱出してこの地に来る」とあるという。 しかし幸助はすぐに連れ戻され、金助から「キリスト教をやめろ、やめないなら離縁する」と申し渡される。 「生まれてから俺を育ててくれた義父には恩がある。今、親子の縁を切ったら恩返しができなくなる。しかしキリスト教は捨てられない」と幸助は悩む。 そして親子の縁を切らないで脱走するのである。 2年近く今治に潜んでいた幸助は徴兵検査を受けるため高梁に戻ってきた。 検査は不合格で、もう義父もあきらめ幸助と和解した。 幸助は義父の了解を得て、同志社に進学した。高梁教会が神学課程への学費を援助した。 同志社大学で神学を学んだがそこには、底辺に向かって志す、下積みに尽くすという気風があった。 上級生は実によく下級生の面倒を見た。 幸助の同窓の吉田清太郎は、貧乏でその日の食を欠く山室軍平に自分の食事を与え、自らは猫の死体を見つけてそれを食って飢えをしのいだ。 幸助は後にそれを知ってこのエピソードに同志社の特色があるとした。 留岡は日本の社会の闇は監獄と遊郭にあると考えた。 明治21年(1891)幸助は同志社を卒業する。 卒業生は伝道のため各地に散った。幸助は丹波第一教会に赴任した。 丹波の牧師をしていた幸助のもとに東京の番町教会の金森牧師から一通の手紙が届いた。これが幸助の人生の大きな転機となる。 「北海道空知(そらち)の監獄から同志社出身で教誨師(きょうかいし)になってくれる者を探してくれないかと頼まれた。君が適任だと思う。」 留岡幸助は明治24年(1894)北海道空知監の教誨師になる。 そこで、監獄からだけでは人を救えないことに気づき、囚人を通して監獄に入る前の保護が大事と考えた。 囚人の初発年齢が10才を超えた頃だったことから、感化事業を志す。 「君子になるか、盗賊になるか、それは学問や知識の有無に左右されるのではなく、家庭の空気の陶冶によるのです。今の家庭は下宿屋に過ぎません。」 留岡幸助は、明治27年~29年、アメリカへ留学する。監獄学の勉強をしようと思い立ったのだ。 ボストンの近くのコンコルド感化監獄でそこの工場で囚人と一緒に働きながら生計を立てると共に研究を続けた。 感化監獄(Reformatory)は懲罰を含む学校組織であり、技能養成学校であった。 留岡幸助はニューヨークのエルマイラ感化監獄でも学んだ。ここには不定刑期主義に基くブロックウェーがいて、互いに語り合った。 ブロックウェーは言った。 「This one thing I do.われこの一事をつとむ。これが私の座右の銘です」 この一言を留岡幸助は「一路到白頭」と意訳した。 自分はこの道を髪の毛が白くなるまで歩み続けよう、という決心であった。 「要は実践にあり。人は口先の聖人にして実行の非人。神学議論上の英雄にして実地の敗将。・・・ああ神よ、わが目的を遂げさせ、同胞の疾苦を安んずるにもっとも近き道を開きたまえ。われは汝を離れて何事もなしあたわざるを知る」 至誠と実践を重んじる、後に二宮尊徳を尊崇するゆえんである。 明治32年巣鴨に家庭学校を創設する。生徒はたった一人であった。 巣鴨の地の所有者は山本忠次郎であった。 「あなたはここを何になさるおつもりですか」 「学校をつくるのです」 「それはいい。これまで墓場にしたいというばかりだった。ぜひ買ってください。」 土地の値段は3200円。留岡には資金がない。 同志社の恩師ゴルドンから千円、吉村鉄之助から2,200円の謝金をした。 建物については渋沢栄一から寄付を受けた。 「留岡さん、私は金を儲ける友人はたくさんいるが、儲けた金を人のため世のため使いたいという友人はほとんどない。仲良くしてこの道に尽くしましょう。」 明治33年3月、巣鴨に新しい校舎ができた。 学校概則第一条には、「本校を家庭学校と称す」とした。 留岡の考えによれば、不良少年は憎むべきものではなく、憐れむべきものである。彼らの多くは家庭に恵まれず、しらずしらず悪の道に落ちてしまう。その環境を変えることが大事であると。 彼は「家庭にして学校、学校にして家庭たるべき境遇」を生み出すことを目指した。 留岡の口癖は「口で教えるだけでなく、身をもって教えよ」であった。 朝は5時半起床。6時に礼拝堂で礼拝。教師がやさしい話をする。 6時半に一斉に校内の掃除。食事のあと、8時から12時まで授業。 1時間の昼休みのあと、午後5時まで生徒はそれぞれ作業に従事する。 まき割り、農業、大工、工芸など。 夕食後、8時まで学習して就寝。これが家庭学校の日課である。 分校として大正3年北海道家庭学校創設は50才の頃であった。 北海道に学校を創設したのは、厳しい自然が人間に与えるものは大きいと考えたためである。 家庭の愛があるところに人格が作られるということから、夫婦で子どもの世話をする方法をとり、7つの家族寮にそれぞれ10人程の子どもが収容され、大家族のように生活する。 留岡の考えた家族寮形式(夫婦小舎制)は全国の教護院(現在は児童自立支援施設)で取り入れられた。 留岡は北海道の地に1000haの土地の払い下げを受け、新農村の建設と慈善事業を行った。 子どもたちは厳しい自然の中で、汗を流し、心身の健康を得ること(流汗悟道)や、よく働き、よく食べ、よく寝ること(三能主義)を体験する。 チャペル内に掲げられている額の 「有難」とは、困難はありがたいという意味である。 苦しみを知って、人の痛みがわかることから、子どもが自分で困難を乗り越えていくことが大事である。 そのため、危険を避けようと親が代わりに行ってしまうなど、子どもの困難を取ってはいけない。 その体験から子どもは手足に知恵を付けて行くのだから。 留岡は、内務省の嘱託となり全国を視察。農村振興、地方改良に関心をもち、愛郷心を訴えた。 二宮尊徳の報徳思想に共鳴する。 留岡は現場(家庭学校)では、垂直に切り込んでいく働きをし、一方では全国を水平に見て社会活動する、広がりと深さをもって一つの人格をなしていた。 筆まめな留岡は300冊以上の手帳を残している。 日記、要約、講演時のメモ、見聞録などが留岡幸助日記(全5巻)としてまとめられ、彼の思想と信仰を知る手がかりとなっている。 留岡幸助は、昭和6年、脳出血をおこし、昭和8年に校長職を退任した。 そして昭和9年、70才で東京の自宅で死去した。 「二宮尊徳とその風化」自序より もし余(留岡幸助)に二宮翁を研究せんと志せた導火線があるとすれば、内務省参事官の井上友一君の勧誘は、確かにその重要なものの一つである。 井上君は地方行政に深い知識を有し、かって余に静岡県の報徳社を視察することを勧めた。 余はその勧めに従って、明治36年の春、友人相田良雄君とともに、旅装を整えて、静岡県に出発した。 行く行く庵原、静岡、掛川、袋井、見付、浜松等の各地を巡察し、終に伊豆の稲取村に出て、くわしくその状況を観察することができた。 この旅行で得たものは、実に山河の美、風俗の雅なことだけではなかった。 それは人に関することで、戸々立つところ、一村一郡自ら有機体を組成して、民政の実績は自ずから他にぬきんでていた。 余はこの旅行の最後に至って、偉人二宮尊徳翁に思いいたった。 地の底、見えざるところに力あり。 天の上、達せざるところに光ありて、 これらの諸々の村が、全くこれによって風動するものがあることを悟った。 帰りの途中静岡で、報徳に関する数十の書籍を購入し、ひまがあれば必ずこれを読んだ。 さらに「報徳記」と「二宮翁夜話」を見るにいたって、堂々たる二宮尊徳翁の姿が、我が眼中に映り、渇仰の念、日に日に増すばかりであった。 ひまをみっつけては、翁の生誕の地である小田原の栢山に遊び、時に栃木の桜町、今市の付近を歩き回り、機会があれば古老を訪ねて、翁のエピソードを聞いて、折に触れては先輩を煩わして、翁に対する考えを聞き、こうして集めた資料も決して少なくなかった。 しかし余が最も翁を敬愛する念を深めたのは、単に以上の理由だけではない。 井戸は掘るにしたがって清水が湧くように、余は研究を積むにしたがって、更に深く、更に広く翁を知り、翁を学ぶ必要があると認めた。 これに関して余は少なくとも数個の理由を挙げることができる。 1 余は今も昔もキリスト教徒である。将来もキリスト教徒である幸福を享受するのは信じて疑わない。 しかし大胆にいうならば、余は我が国のキリスト教界の社会制度にあきたらないものがある。 キリスト教の伝播は日が浅いから評論するのは酷のようであるが、星霜すでに40年を経た今日において、なおその西洋臭いものがあるは、わがキリスト教の普及が遅々として進まない理由の一つである。 キリスト教のいわゆる相愛の道、犠牲の教えは、もとより至大至高、至美至善、これに過ぎるほどの偉大な教えがあると思えない。 しかしこれを実行する社会機関を欠いており、よく救世済民の効果を挙げることができない。これは疑いなくキリスト教の一欠点である。 いな、あるいはキリスト教社会制度の欠所であろう。 ひるがえってこれを報徳社に見るに、二宮翁の遺訓は、あえて心を驚かすような教えではない。 かかる報徳社がよくよく町村を潤沢する理由は、報徳社という社会組織が存立しているからである。 報徳社は天地人三才の徳に報いるをもってその大本とし、至誠、勤労、分度、推譲の4つを実行することで、その大本に報いる方法としている。 この方法こそ施すところに応じてよくその効果を奏するものである。 だからもし余が報徳制度を研究することによって、キリスト教界の欠陥に寄与することができれば、至幸これにすぎるものはない。 2 わが国における社会主義の発源はいかん、またその傾向はいかん。 ひそかにこれを考えるに、私は報徳制度を度外視できない。 わが国の社会主義は理論よりも多く感情に傾いて、建設的よりむしろ破壊的に流れ、貧者のためには菩薩となり、富者のためには夜叉となっているのではないか。 もしも万一このような傾向があるとすれば、真正の社会主義の目的は達せられないだろう。 これに対し二宮翁の説く所は、貧富両存にある。 両存でなければ両全にある。 すなわち貧者は貧者としてその位置に安んじ、その勤めを全うさせ、 富者は富者としてその富を保って、貧者を保護させようとする。 これが二宮翁の主義であって、いわゆる夫婦相和して子孫が栄え、貧富相和して財宝を生ずるというのが翁の理想とするところであった。 (略) 二宮翁は農民に教えて 「この鍬すぐに楽の種」といい、また 「天つ日の恵み積み置く無尽蔵、鍬で掘り出せ、鎌で刈り取れ」と説いた。 さらに富者に対しては、 「貧者及び人民より多く物を取るべからず、奪うは損害であり、恵むは幸福である。」との福音を伝えた。 簡単に言えば、彼は貧者に羨望してはならない、羨望することは醜く、勤労することは高貴な業(わざ)であると教えた。 また富者には奪わないで与えよ、掠め取らないで恵めよと説いた。 翁の教えは実に貧富両階級の調和にあった。 (略) 3 報徳社の社会的地位を研究するは、最も興味のあることである。 これを産業組合制度と比較すれば、その組合制度は中産以下の個人を救うことをその主眼とするが、報徳社はその一歩を進めて、ただちに社会そのものを救おうとする。 難村の復旧、貧農の救済、富者の推譲及び心田の開発等は、その最も重要なものである。 この点において報徳社は広い意味での社会救済事業である。 しかもその救済は、まず精神を救うことを専らにして、物質上の救助などは末とする。 この点からすれば二宮翁の主義は、優に一個の精神教養ともいうべく、 もし翁を太陽に照らして、その背後を見れば、あるいは菩薩の浄体ながらに、鋤・鍬を持てる農業聖人といってもよい。 ことに「荒地の開発」に加えるにさらに「心田の開発」をもってするのは、翁の元来の理想であって、いまや伝えられて報徳社の主義となった。 4 余は数年来、自治団体、即ち郡市町村を視察して、しばしば困惑した。 市制町村制の発布してすでに20年になり、実際は予想に反して萎縮し振るわないものにそもそも何の原因があるか。 その困惑はようやく解けた。 「我が国民は自治独立の観念に欠如しているからである」 ここにおいて、心に一つの公案が来た。 「我が国人に独立自営の精神を鼓吹しない間は、自治制度において何の効果があろう。」 ひるがえって我が二宮翁を見るに、なんと自治独立の精神に富んでいることか。 これを奇跡といわず何と言おう。 もし桜町宇津家の領地を荒廃から、堕落から、瀕死の状況から救い出したことを思うと、彼は奇跡に等しい偉大な事業をなしたのであった。 そして彼をここに至らしめた力は何か。 「不覇独立の精神」これのみ。「自治自営の観念」これあるのみ。 この精神を自ら学び、かつこれを人に学ぶように勧めるのは、ああなんと幸福で貴重なことか。 私が二宮尊徳翁を唱導する理由は、死せる「市制町村制度」に向かって、活きた精神、すなわち自治自営の観念を注入しようとすることにある。 これによって死んだ制度は活動し、眠った市及び町村は覚醒するであろう。 5 産業組合制度の設置は、近来わが国の一部の潮流となった。 これは喜ぶべきことである。なぜならば産業組合制度は、中産以下の生活難を除去する一つの安全弁だからである。 しかし産業組合制度は西欧諸国の必要から発生したもので、彼に適合した法律、制度であって、日本に必ずしも適合していない。(略) これに反して報徳制度は、わが国において必然のうちに産出したものである。 ことに農業部落の状態を改善しようと欲するならば、この制度によるのが近道といえる。 この故に私は産業組合制度を歓迎すると同時に、我が国に発生した報徳制度を研究し、更に改善を加えて、時勢の必要に応ぜしめようとするものである。 ☆大正3年のことである。留岡幸助先生は北海道農場が出来たので、出発に先立って江原素六先生に挨拶に行った。 江原先生は、次の言葉を紙片にサラサラと書かれて、留岡先生に渡された。 無田甫田維莠驕々矣 「留岡君、かような語が詩経にあるが、君は何と思わるるか?」 「先生何という意味ですか?」 「無田甫田は甫田を田(たつく)る無(なか)れと読むのじゃ。 甫の字は補の字と同じ意味で 一言で言えば手のかかる田を作るなということじゃ。 手のかかる田を作ると、換言せば手に余る仕事をすると何事も成功せずして終わる。 手に適うただけの仕事をすればよいということじゃ。 維れ莠驕々矣というのは、手に余る田を作ると莠(はぐさ)が生えて茂ってどうにもこうにもならなくなる。 余り仕事を遣り散らすと纏まりがつかなくなる、というのが詩人の教えである。」 「留岡君、僕は貧乏であるから餞別にすべきものを持たぬ。 これを餞して君の北海道行きを祝したいと思う。」 留岡先生は、江原素六先生の言葉を、この上もなく有難く聴いた。 (私は時として仕事を遣りすぎる癖がある。 先生は私のこの弱点をよく知ってこの語を餞別にくだされたのだ) 留岡先生は、北海道に着くと、厚くて長い赤タモの板に能筆家に頼んでこの言葉を刻んでもらい、これを名人に彫刻してもらった。 その板の額は、家庭学園の望の岡の礼拝堂に高く掲げられて永久の訓戒を垂れているという。 甫田を田(たつく)る無(なか)れ 維(こ)れ莠(はぐさ)驕々矣 ☆北海道家庭学校のこと(上甲晃) 牛の出産 「北海道家庭学校で感動したことといえば、牛の出産に立ち会った子どものことをあげないわけにはいきません。 子牛が生まれるとき、子牛の足にチェーンを巻き付け、それを先生と子どもたちが同時に引っ張ります。 子どもたちは子牛の足が折れるのではないかと、はじめはソーッと引っ張ります。 しかし、それではなかなか子牛が出てきません。 「もっと力をこめて思い切って引っ張るんだ!」 先生の声が飛びます。 子どもは力いっぱい引っ張ります。 するとヌルヌルと子牛が出てきます。 子牛の誕生です。 そのとき、先生は子牛が呼吸をしていないことに気づきました。 「誰か鼻を吸ってやれ!」 しかし子どもたちはどうしてよいかわかりません。 先生が思いあまって子牛の鼻を吸ってやります。 子牛の呼吸が回復しました。 ヨロヨロしていた子牛は、しばらくしてようやく立ち上がります。 その瞬間ある子どもが泣き出しました。 後になって、その子どもがなぜ泣いたのかを作文に書きました。 子牛が生まれた嬉し涙ではなかったのです。 お母さんが子どもを生むときにこんなに苦労をするということを知って泣いたというのです。 僕のお母さんも僕を生むときにこんな思いをしたのだ。 それなのに僕はお母さんに暴力を振るってしまった。 それがいままではどんなにひどいことかわからなかった。 こうして子どもたちの心は、知識ではなく、牛の出産の体験を通じて耕されていくのです。 校長先生がいうように「汗を流せば何か大切なことがわかる」のです。」 ☆翁の報徳訓に、 父母根元在天地命令(父母の根元は天地の命令に在り) 身体根元在父母生育(身体の根元は父母の生育に在り) 子孫相続在夫妻丹精(子孫の相続は夫妻の丹精に在り) 父母富貴在祖先勤功(父母の富貴は祖先の勤功に在り) 吾身富貴在父母積善(吾が身の富貴は父母の積善に在り) 子孫富貴在自己勤労(子孫の富貴は自己の勤労に在り) とある。父母の本は天地宇宙の恩徳にあり、我が身は父母の恩によりて稟(う)け得て父母の養育の徳を蒙っているので、今日我々の富貴は祖先の勤功や父母の積善によるのであるから、我が今日勤労してゆくことが即ち子孫富貴の源となるという因果の道理を言明せられたに他ならぬ。 身命長養在衣食住三(身命の長養は衣食住の三に在り) 衣食住三在田畠山林(衣食住の三は田畠山林に在り) 田畠山林在人民勤耕(田畠山林は人民の勤耕に在り) 今年衣食在昨年産業(今年の衣食は昨年の産業に在り) 来年衣食在今年艱難(来年の衣食は今年の艱難に在り) 年々歳々不可忘報徳(年々歳々報徳を忘るべからず) とある。年々歳々報徳を怠らず、勤労して止まなかったならば、それで人の人たるの道を尽せるのであると、説くのが翁の教え方である。そこでこれを為すにはどうするかというに第一の心得は至誠にある。 『済民記』の著者は、「夫れ先生の道は至誠を以て本とし、勤労を以て主と為し分度を立てゝ体となし推譲を以て用と為す」と言うておる。至誠は万事の本で、「心だに誠の道に叶ひなば祈らずとてや神は守らん」 至誠は万事の本で、「心だに誠の道に叶ひなば祈らずとてや神は守らん」至誠を怠ればいかにその行いが立派なようでも、それは虚偽であり虚飾である。誠心誠意を以て世を救うという考えでやるのが人道の要旨で、天道も人道もこの誠を離れてはあるべきではない。天道を完成するは人道にあり、人道を全くせんには勤労に外ならず。そこで翁の教えは至誠を以て本とし、勤労を以て主と為されたので、ルーズベルトの奮闘的生活というも、この頃はやる努力主義というも勤労を主とするにある。とにかく日本人は長袖流に何にもせずに遊んでおることをよいと思うて労働を下等なことのように思う悪癖がある。それでは、天道を無視し自然の恩徳を忘るゝことになる。かの太陽の一日も怠るとなく我々を照らしたまうがごとく、我々もまた一日も怠らず勤め励みてこそ人の人たる道はつくせるのである。一日怠るものは一日報徳を忘れるものと言わなければならぬ。小人閑居して不善を為すで、この労働を怠るのがまさに不善を行うようになるのである。否な閑居して労働を怠るのが既に立派な不善である。仏教で精進ということをいうのは善に向かって労働して怠らざることで、翁の主張と別なことではない。世に処する道について翁は面白き喩えを挙げて説かれたことがある。 世上一般、貧富苦楽と云ひ噪(さわ)けども、世上は大海のごとくなれば是非なし。只だ水を泳ぐ術の、上手と下手とのみ、船を以って用便する水も、溺死する水も、水に替りはあらず。時によりて風に、順風あり逆風あり海の荒き時あり、穏かなる時あるのみ。しかれば、溺死を免れるゝは、泳ぎの術一つなり。世の海を穏かに渡るの術は、勤と倹と譲との三つのみ。勤と倹と譲とは翁が処世の三綱領とせられたことで、その中勤労のことは前に述べたが、その次ぎに必要なのは倹と譲とだ。これについては先の『済民記』に翁の主義は分度を立てゝ体と為し推譲を以て用と為すとある。分度というのは入るを計りて出るを制することで経済上に分度を立てることだ。翁は、百石の禄なれば五十石に約し、千石の禄なれば五百石に約し、千両の株なれば五十両を以て生活を倦むべし。これ貧富平均の中庸にして、寒ならず暑ならず、一身無病にして寿なるがごとく子々孫々に至るまで、富を持し家を全うすべし。然れども、是れのみにして、家に陰徳を行わざれば、善人起らずして無頼のもの生れ、法を破るの憂いあり。これゆえに、中庸の分度を定めて余財を譲り、他人の貧苦艱難を救助せば、陰徳積善これより大なるはなし。たとえ凶旱水溢(きょうかんすいい)ありといえども、憂うるに足らず。国を起し民を安んずるもまた難からず。もし、王者これを行いたまわば天下を安んじ、侯伯これを行わば国家を安んじ、士庶人これを行わば、必ずその家を安んず。いやしくもかくのごとくなれば、国に変乱の憂いなく、家に貧困の苦なからん。これ人道を尽くして、永く富を保つの大道也といわれてある。今日でいえば百円の収入ならば50円ですべての事を賄うような工夫にしてゆけば、不時のことがあっても恐るゝことなく、常に安けらく世に処することができるというごとく、収入を計って支出に分度を守れば心に苦なく世を渡ることができる。昔から家の亡び国の衰えた源を調べて見ると皆なこの分度を守らぬからである。さてこの分度を守るの第一義はといえば節倹を旨とし無用の費を除き、自ら足るを知り分に安んずるにある。仏は『遺教経』に「少欲を行ずる者は心すなわち坦然として憂畏する所なし。事に触れて余あり、常に足らざるなし」と仰せられたのも欲を少なくし足るを知り、常に分度を守れよとの教えである。その次は譲で詳しくは推譲という。これは孔子の「己れの欲せざる所、是れを人に施すこと勿れ」といわれた他愛のことで、翁の主義はこれを以て用とせられたのである。世の中は互いに持ちつ持たれつしているものであるから互いに譲りあい人の為を先にしてゆくということが処世の方針で、たとい商売一つにしても翁は「商法は売て悦び買て悦ぶやうにすべし。売て悦び買て悦ばざるは道にあらず。買て悦び売て悦ばざるも道にあらず。貸借の道も亦貸て喜び借て喜ばざるは道にあらず」と言われてある。何たる名言ぞや。 互いに利益あり互いに悦ぶようにしてこそ社会の共同生活は維持せられ、その発達も円満に計ることができるのである。翁の主義以上いうた勤労と分度と推譲でその骨子となるのは至誠報徳にあるので決してできがたい難しいことではなく心がけてさえいれば日常に別段の面倒もなくできることであり、遠い昔の人でなく極く近い二宮尊徳翁が自身で行われたことであるから我々もこれを身に行わねばならぬ。即ち 1 何事を為すにも至誠を旨とし報徳を要として仮にも自分勝手なことや虚偽の心を出さゞる事 2 日々の勤労が報徳の道なれば怠らず撓(たわ)まず励むべき事 3 入るを計りて出るを制し奢侈の風習を避け各々其の分を守りて質素倹約すべき事 4 世は互いに持ちつ持たれつゝなるものなれば他受推譲の心掛けを忘れざる事 という4つをさえ忘れなければ、家を興し道を尽くすことができるので、これ仏教の主義であり、又尊徳翁の教えであり、どうかこの近き二宮翁を模範として日々行いたいものであります。仏教とて別なものではない。その日常行うなかに深い深い大乗の真理はあるのです。遠い理想も必要ですが近い足下のことを疎末にしてはなりません。これについて面白い話がある。昔、江戸から京都へ行く飛脚に非常に足の早いのがある。大分年が老っておるが若いものもかなわぬ。出立は同じ日でもその飛脚はいつでも5,6日早く着く。そこで一人がその老飛脚を請うて何の秘訣があってそんなに早く歩けるのかと聞くと、その飛脚は笑って別のことはないが、東海道には赤い石がある。その石を踏むと足が疲れて遅れるがその石をさえ踏まぬようにさえすれば早いという。それではというので尋ねた飛脚が此の次より道中に江戸を出発してから赤い石を無いか無いかと探して歩いたが53駅終に見出さなかったが平常より2,3日早く着いた。帰りにぜひ赤い石をと見て歩いたが、これもなかった。無かったことは無かったが2,3日早く着したから、その旨を老飛脚に言うと、赤い石ではない、おまえが足元を見て行ったから早かったのだ。早く行くの秘訣は足下に気をつけるにあると言うということ。二宮翁の主義は小さなことのようだが、これが足下となる大切なことでありますから実行せねばならぬと思います。 |