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小林平兵衛と尊徳先生

尊徳先生が小林平兵衛に諭された話が「報徳見聞記」に載っている。

尊徳先生が御殿場の小林平兵衛という人の仏壇を開帳されたところ、そこに
「諸人無愛敬諸道難成就(諸人愛敬無ければ、諸道成就しがたし)」
と書かれてあったのを見て、
「きさまは、この語をもっぱら信じ用いる者か」
とひどくお叱りになったことがあります。
「諸人に愛敬を受けなければ、道は成就しないなどと思って、人に助けられることのみ修行するものだ。
これは菜っ葉の虫が柔らかい葉を食うようなものだ。
本当に諸道を成就しようと思うなら、次のように心がけるべきだ。
 諸人救助なくして諸道成就しがたし
この自他の違いは大きい。
人と生まれて諸人を救助することなければ、諸道成就することなし。
人を救い助ける心を押し広げる。
そして是非を見極め、誠をもって救い助けるべきだ。
そうして後に諸道は成就するのだ」
とじゅんじゅんと諭されたのでした。

(報徳見聞記68)

「小田原藩」(内田哲夫)より
○平兵衛は小林姓を名乗り、その本家の先祖は稲葉氏の家臣奥住新左衛門の一族で、彼とともに竈新田を開いた家である。

○小林平兵衛は竈新田(かまどしんでん)の北にある村の名主の家に生まれ、小林家に養子に入った。
若い頃、身を持ち崩し、両親に勘当され、庵原(いおりはら)郡庵原村の権左衛門茲敬(しげたか)の教えを受けて改心した。
文政6年(1823)組頭となった平兵衛は、心学に深く傾倒し、しいたけの販売を兼ねて江戸へ赴き、大島有隣らの心学道話を聞きまわっていた。
その後の平兵衛については、後に彼の記した「別紙遺書」によれば、相続中にいつとなく贅沢となり、行き詰って天保7年(1837)には、すでに破滅するところまで追い詰められていたという。
江戸との往来が、その生活を分不相応なものにしていたかもしれない。

○その頃から報徳道歌や報徳訓に接するようになった彼は、折からの大飢饉のなかで、村の救済に立ち上がり、富裕者への施行の呼びかけを行っている。
竈新田の醵金額が近辺村々の中で最高であったのも、彼の積極的な行動によるものであったと思われる。
この時彼は田畑2町5反歩余りを質に入れて50両を借り、報徳金50両その他江戸の心学仲間などの援助を得て計120両の土台金(基金)を作り、竈新田の一村仕法を始めた。
すでに子の惣右衛門に家を譲り、隠居という比較的自由な身になって、彼の行動はその範囲を広げていった。

○天保10年8月、平兵衛は小田原・江戸を経て桜町陣屋に住む金次郎を訪ねた。
最初の報徳仕法の鍛錬である。
同行は6名。
22日から24日までは金次郎との問答に明け暮れている。
24日仕法の模範村として知られた青木村を見学したが、この時の平兵衛の態度は、金次郎からただの「見学」と叱られている。
この夜、相州の4名が加わり、26日夕方から9月9日まで金次郎の教諭が続いた。
その教えの中心は、分度と推譲であった。
「100石の身上は50石の暮らし」という分度生活の基本と
「禁裏様→公方様→大名・小名」という譲りの道は「万代不易の大道」だとし、
推譲とは1000石の収入のある者が大借のため300石に下って暮らす仕方ではなく、1000石の収入がある時に300石に下って暮らし、残りを譲るところにあると説く。

○この特訓は計画的で、最後の4日間が仕上げとして「二宮哲学」の講義が行われた。

○9月10日、仕法中の村々の巡見が行われ、夜はそれに基いた教諭があり、理論と実践との両面で報徳仕法の真髄を教え込まれた。

○20日から25日までの6日間は、烏山藩(小田原大久保氏の支藩)の仕法村々を、担当の藩士の案内によって廻り、30日間にすべての日程を終了した。

○帰村した平兵衛は早速居住地の上新田の字(あざ)芹沢の開発を始める。
この作業に出る農民には日当が支払われ、報徳金による開発と失業対策が同時に進行した。
烏山藩の仕法の一つを竈新田で早速生かしたわけで、尊徳の特訓の実践である。
この開発はさらに拡大して弘化2年(1845)まで続けられ、荒地の耕地化、その間の村民の仕法への打ち込み、精神的高揚が図られた。
これは同時に特訓を受けた曽比村の剣持広吉の用水堀開削とともに大きな成果を挙げた。

○平兵衛の桜町詣では天保12年(1841)5月から6月にかけてもなされ、帰途は心学仲間の伊勢原の加藤宗平衛宅に泊り、片岡村の大澤小才太と語っている。
片岡村でも用水の堰浚いが行われ、仕法が順調に進んでいるのを確認している。
この小才太の子がやがて箱根湯本の旅宿福住の養子となり、報徳仕法のよき理解者で、一方国学・歌道を吉岡信之に学んだ福住正兄である。

○天保15年(12月に弘化と改元)9月13日から12月5日にわたる平兵衛の日記をみると、彼は江戸芝田の梅津伝兵衛宅で、金次郎の仕法の最後の仕上げを助けていたのを知る。
仕法の普及化というべきこの作業は、金次郎の生涯を賭けたものであった。
あらゆるケースを想定し、誰もが実践できる再建方法を記した教科書を作成しようとしたのである。

○この間、故郷からは子の惣右衛門の帰国を促す飛脚手紙を受けるが富田高慶と相談し、あくまで止まって随身者として過ごすことを決意している。

○すでに天保13年10月からは、普請役格として幕府に召抱えられていた金次郎の許には、相馬藩家老、尼ヶ崎藩家老らを始め仕法を願う訪問者が相次いでいた。

○平兵衛の「日記」にも、「無利拝借を願うのに音物(贈物)を持参した者は貰ったまま10余年も取り合うな。年賦を返済中に音物(贈物)を持参した者には世間並みの利子を付けよ。
報徳冥加金を納めたいと願い出ても、仕法によって自分が助かったという証拠のない者には取り合うな」という金次郎の言葉が書きとめられている。

☆「尊徳門人聞書集」(報徳博物館資料集1)にも小林平兵衛の「報徳教示略聞記」が載っており、小林平兵衛という人が一生懸命尊徳先生の話される言葉を記録する姿を髣髴とさせる。

その解説にはこうある。

小林平兵衛は安永8年(1779)、小田原領内、駿州駿東郡グミザワ村(御殿場市)の名主江藤孫市の子として生まれた。
二宮尊徳より8歳年長である。
文化5年(1808)同郡竈新田村(同市)の富農小林家の養子となり、同10年に家督を相続した。
その前年、小林平兵衛は同家を草分けとする和新田(わしんでんーおお、今の住所の呼び名と同じだ!)18戸を糾合して「相続講」を結成、共励共栄を図った。
文政6年(1823)組頭を拝命。
そのころ椎茸販売のため出張した江戸で大島有隣らの心学に触れ、各地で熱心に参会し、前講を務めるに至った。

しかし、天保7年(1823)の大凶荒は近郷一帯にも自分の家にも大きな打撃を与えた。
小林平兵衛は翌春巡回してきた二宮尊徳の教諭と施策に感動し、率先推譲して救急仕法に協力し、
以来毎年のように尊徳のもとを訪ねて教諭を聴き、仕法の事例を学び、あるいは日光仕法雛形作成に協力した。
村内では尊徳からの報徳金100両を土台に、善種加入・表彰入札・荒地開発等を行い、
天保14年には質地差戻し代金55両を原資として「知足備金」を設定し、以後年々増殖・活用して永安を図った。
嘉永2年(1849)7月、71歳で死去した。
「相続講」「知足備金」を法人化した「小林知足財団」が存続している。

小林家は御殿場市竈1829に現存している。
その倉庫に残っている多くの文書の一つが「報徳教示略聞記」である。
天保9年9月、小田原領内竹松・曽比・下新田でも聞書きに始まり、同10年3月~4月と8月から9月、栃木県の桜町陣屋でも聴聞に終わる。



天保9年(1838)4月10日、駿河国駿東郡竃新田村(現、御殿場市)の小林平兵衛は、市左衛門、加藤宗兵衛を連れて二宮尊徳を訪ねた。
市左衛門、加藤宗兵衛の両名は、深い感銘を受けて尊徳の門に入った。
この時尊徳が、市左衛門に指導した報徳仕法(建て直しの方法)は、次のとおりであった。
村民の中から精農家5人を選ばせ、1町歩から2反歩までの土地を無年貢(領主、地頭への年貢は大沢家が負担)で貸し付け、その他の農民についても質入れ物件を引き出し、金の都合がつき次第支払うということで元の持主に返した。
こうして片岡村の復興ができたが、同14年(1843)11月8日市左衛門は病没した。
一方、正兄は、農業は苦労の割に実が少ないと悩み、医者となり貧民を救いたいと思うようになり、父に話すが、父より
「上等の医者は国を治す、中等の医者は人間を治す、下等の医者は病を治す。
今、国を癒す大変な医者がいる。
それが二宮先生だ。二宮先生は上医だ。」

と諭された。
弘化2年(1845)10月、正兄は二宮塾へ入門した。
福住正兄21歳の時であった。

したがって片岡家が報徳仕法を実践したり、福住正兄が尊徳先生に師事する発端もまたその淵源をたどれば、小林平兵衛にあったのである。

小林平兵衛翁手記 「報徳教示略聞記」は

内表紙裏に尊徳先生の次の2つの道歌を掲げる

右の手の箸(はし)に力を入れて見よ左の酒の止むかつのるか

世の中は用いようにて小笠とも草履ともなる竹の子の皮


そしてこの聞書きの由来を記す。

「天保9戊戌(つちのといぬ)9月11日より15日まで
相州竹松(小田原市竹松村)幸内様より曽比両家、下新田までの略書」


聞書きは○や△、あるいは○の中に△を組み込んだもので区分しているがここでは、順番に数字をつけて標識としてみる。

1 村助けの余荷等は、天恩国恩の為に出金する事なれば、必ず貧のみを助けると思うべからず。実は我が身、家の為なり。

2 頭も大根なれば尾も大根なり。

3 宗門儒仏神いろいろの道別るるは、柄杓の水、茶碗の水、杯の水と。
五色の器に汲むがごとし。本は水なり。


4 海川の浪の大小も天の自然。我が腹の中と同じ。勤めて勤めず穀物生き物なる事。

5 天の変を災という。地の変を害という。天地と共に禍に至る。

6 愚人も智者も共に行うが大道なり。


7 子として父の恩は知られず。母の恩は知るなり。母より知る法たるゆえに父の恩を知る。

8 今日の業(わざ)をもって、正不正を知れば前後の業を知る。

9 恩は君に向かえば忠。親に孝となる。借財に向かえば返済となるなり。


10 強欲剛(つよ)き人には柔をもって示す。ゆえに出入りなどする人へは必ず女に化けて出るゆえに、吉原などにて遣い捨てる。
それより相場あるいは山事とその病より災難来たり断絶するなり。


11 計サツマ芋重きを貧強と分とうはねかえるに譬う。

12 三人有る時は必ず我が師有り。

13 十室邑には丘がごとき者あらん

論語、公冶長篇の「十室の邑(むら)には必ず忠信 丘(孔子)がごとき者あらん。丘の学を好むに如(し)かざるなり。」に由来する。

14 三尊は、父と母と我なり。天地人なり。相和して道となる。
万事三度目化て成就するなり。

15 農業も夫婦も天自然の道なり。古より今に至るまで同じ。

16 貧福は一物を二つに呼ぶときの名なり。貧富一つなるべし。勤めて我が身となる。学び学びて和らぎて君子となる。

17 今日までの生命をたもちし御礼には、我が身上差出し人を助ける。これまでの迷いの濁水くみ出せば、すなわち清水となるごとし。井戸水のなにほど汲みほどこしても、一夜のうちに本のごとくたまるごとし。 


18 天恩・国恩・主親の大恩の譬えば、
道を行くに足をふむところの恩あるごとく、その外までも道あるゆえに、平等の恩を知るべし。
悪人もかくのごとく恨むべからず。
宗旨宗旨も恩同断。

19 今の世の中も身の上も有難しと知れば楽。
不足と思うは苦しみるのみ。

20 消壷の火外を張る。
フタする時は内の火消える。
人の本心もかくのごとし。

21 外堅固に構ゆれば必ず内より破る
   女・酒・不忠・不孝男子

22 剛勇にて大丈夫外構ふ物あるいはさざき・アワビ類には蛸が手にて目をふさぐ。息出ぬゆえに口をあけ、その時食わる。

23 ワシ・タカが小鳥の子をつかみ取りて我が子に食わする。
欲深き人も貧者の物をつかみ取りて我が子に食わし、または名聞・奢りに用いるは禽獣にひとし。

24 善も一粒ずつにては功なし。
合わして相和す時、大功をなす。
悪も同断。
日掛けも一文ずつ一人にては用いて功少なし。
大勢なれば大功となる。

25 我が心を澄ませば水の底見ゆる。
見えて疑い無し。
我が心濁る時、水の底見えず。
どろ水も澄ませば底まで見えて疑いなし。

26 泥水に蓮根有るゆえに、水上に花咲きて浄清なり。
水上に咲けば泥中に根有るゆえなり。
泥は迷い、花は悟りと知る時は、迷悟一つなり。
一を知りて根本の一を行え。

27 外道の人は草木の心と同じ。
また禽獣の心と同じ。
人道は譲をもって道とする と。

28 上は下を恵むによりて
下より貢(みつぎ)を上げるごとくなり。

29 賃借一円無増減なり。
一つなり。
陰陽一つなり、同じ。

30 貸借サイソク不済は。
左をゆるせば右より幸来るなり。

31 偽り計りて田地等隠し置き銀主へ出さざるは、山の芋のつるを切りて土をかけおくごとし、根くさるなり。

32 偽りの種蒔くは大根種途中よりても人参種を蒔くがごとし。
生いてあらわるる。
人も善悪の一念をひるがえせば直にただいま善き種となる。

33 剣術使い、我が身に切り付けらるる時は勢い力立つがごとし。
人も我が身に不自由成能物、
売る時は倹約の心立つなり。
酒肴美味好き時は、それだけの代を勤めて用うべし。
親の譲り物を遺うべからざるなり。

34 過去・未来も出ずる息引く息因縁は善悪業(わざ)の顕われ。

35 一度の行業天に通じ、見えぬ所より化けて来り善悪となる。

36 往来行帰を悟れば、変化善悪を知る。

37 奪う心禽獣草木なり。譲る心人道なり。

38 千石の邑(むら)、百軒の家、平均して十石と成る。
   9石以下は下品、十石中品、十一石上品恵むべし

39 髪結かみそりをとぐは人を助る道なり。
   工人刃物とぐも同じ。
   人の道を修業するは、世界の為に学(マナブ)するなり。

40 善を上げ悪をば隠す故に納まる。
   悪を引き出しては治まらぬなり。

41 塵芥馬ふん糞(こやし)と成る時は、皆物の終わりなり。
死なり。成仏なり。変化して五穀となる。
五穀変化して人となる。
聖賢仏祖も勤め勤めて終り玉えて、化して今の神仏なり。
銘々も貧富も貴賎も、それぞれ勤め勤めて終りて後、変化して子孫相続永久の姿とあらわる。

42 波の音東西に片寄り聞ける時、天気の善悪あるを知る。
是れ天気の澄める方より聞ゆる。
器皿の水もすめる方へ目の移るごとし。
夕暮れ少日見ゆれば明日の日和、大丗日に少明なれば来年よし、かくのごとし。


 



略聞記は次の言葉で締める

「念彼観音力」(彼の観音の力を念ずれば)
観音経(妙法蓮華経の「観世音菩薩普門品」の偈(げ)において繰り返される言葉である。

観音菩薩に向かうのは、また我が内なる観音菩薩にほかならない。
代わる代わる観察して、慎んで勤めるなり。


「二宮尊徳全集第19巻」754ページより

小林知足財団の淵源

 竈新田の仕法は、小林平兵衛を中心として実行せられた。
御仕法開始の趣旨に順応し、民間において喜捨推譲金を募り、御厨地方一帯の窮民に配布したのも、平兵衛はその首相者であった様である。
 竈新田の仕法書は、稀に見る完備したものであるように、その仕法も、竈新田に適応したる仕法が講ぜられた。
 ひるがえって平兵衛の経歴を考えるに、心学に熱心にて、その道の友も多くかつ広いようである。
金目の大澤、伊勢原の宗兵衛等もその道の友である。
そのかくのごとくなりし由来は明白ではないが、駿州庵原郡庵原村権左衛門の家道復興に関する願書によって幾分を明らかにすることを得た。
 権左衛門仕法懇願書は、表紙に竈新田平兵衛とあるために、今市本には竈新田仕法書中に編入せられてあるが、内容は権左衛門の仕法書類である。
しかしその中に平兵衛の経歴を明らかにする個所が少なくない故に一応ここに挿入した。
これによれば平兵衛は、一家を持ち崩したが、右庵原の8代目権左衛門は、御殿場より入夫したるものであったので、これをたよって権左衛門方に赴き、厄介となり、当時隠居して慈渓と称していた6代目権左衛門の教示を受け、一家復興を完成したとの事である。
 仏道に深かりし慈渓の訓陶によって復興を全くした平兵衛は、心学に志を通しやすきことは見やすき道理である。
 前記の願書は天保15年の書類であって願文の内容が、9代目権左衛門の衰頽復興を懇願したものであるから、その解説は、再度この願書を権左衛門仕法條下に挿入する時に試みるを適当と考える。
 平兵衛は、心学の修養ある所へ、報徳仕法の教えを聞き、活然として悟る所あり、御趣意に随って窮民救済を試みたるのみならず、知足備金を推譲して、広く報徳の仕法に供した。
それと同時に遺言を草して子孫をして家政を過つなからしめた。
 その子平治郎以下能くこの遺誡を守り、知足備金を活用し、終に明治の御代に至り、知足財団を成し近時その金額8万円に近く、山林を評価すれば数十万円に達するに至ったのである。
この財団に関する記録は全集原本中にあるべき道理はないが、その淵源に関する事実は次の記録によって知り得る。
 1 知足備金控帳
 2 願書写
 3 遺状
1はその巻頭に、仏遺教経中の知足の章中の文言を掲げ、以て知足備金の思想の由来を示現している。
足ることを知るが故に安楽である。
足ることを得るが故に推譲し得る。
この理由により、茱萸澤村吉左衛門より買い置きたる地所を、求めによって売り戻したるために受け取った55両を、報徳のために家政に組み入れざる備金として推譲することとした。
しかして天保14年から、嘉永4年まで、この備金を活用した結末が1の一冊に掲げられ、その総額358両に達している。
 2は既に述べた通り平兵衛と権左衛門の復興関係を明らかにして、権左衛門のために、報徳仕法を翁に嘆願すべく、前田エイ州、湊善十郎と往復した文書である。
 3は平兵衛が子孫に誡告した遺訓であって、家道維持のために、懇切に注意したものである。


「二宮尊徳全集巻の19」755ページ

天保14卯年
知足備金控帳
 12月改  平兵衛

経に曰く、汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、
当に知足を観ずべし、知足の法は、即ち是富楽
安穏の処なり、知足の人は、地上に臥すと雖も、
猶安楽と為し、不知足者は、天堂に処ると雖も、
亦意に称わず、不知足者は、富むと雖も貧、
知足の人は、貧と雖も富む、不知足者は、富むと雖も貧、
知足の人は、貧と雖も富む、不知足者、
常に五欲の為に率かされて、知足者の憐愍する所と為る、
是を知足と名く。


遺教経に言う。
なんじら比丘よ、もし諸々の苦悩を脱しようと欲するならばまさに足ることを知るということを観ずるがよい。
足ることを知るの法は、すなわち富と楽と安らかで穏やかなところである。
足ることを知る人は、地上にふしてもなお安楽とするが、足ることを知らない者は、天上の宮殿にいてもなお意にかなわない。
足ることを知らない者は富んでいても貧しいが、足ることを知る人は貧しくても富む。
足ることを知らない者は常に五欲のためにひかれて、足ることを知る者の憐れむ所となる。
これを足ることを知ると名づける。
 
 報徳冥加の為家政組み入れざる永々備金取調べの事

卯12月
一 金55両
 右は茱萸澤(ぐみざわ)村吉左衛門より前々買請置き候処、今般同人願により田地差戻し、代金受取置き申し候処、去る天保度飢饉の砌(みぎり)、窮民撫育、村柄御取直し、御仕法を蒙り、無難御百姓相続仕り候に付き、報徳冥加の為、永久万代、家株組み入れず、極難困窮人救う為備え置き申し候処かくの如く御座候以上
                   竈新田村
 天保14卯年12月           平兵衛


 報徳冥加のために一家の生計に組み入れないで長年の備えとした金を調べた事

天保14年12月
一 金55両
 これは茱萸澤(ぐみざわ)村の吉左衛門から前に買っておいたところ、今度、同人の願によって田の土地を本人に戻し、その代金を受け取っておいたところ、去る天保の飢饉の際に、困窮した民を恵み育し、村を復興するという二宮尊徳先生の御仕法をこうむって、無難の御百姓相続ができたことから、報徳と神仏の加護に感謝するため、永久万代に、家の財産に組み入れないで、極難の困窮人を救うために備え置いておこうというものであります。以上
                  竈新田村
 天保14年12月           平兵衛


「二宮尊徳全集巻の19」764ページ

 遺状の事

一 天恩、国恩、並びに祖先の薫功に依って、今日まで生命を保ち暮し来候
 御恩沢、片時も忘れ申すまじく候事

一 家内和順第一にして、家業を営み申すべく候、向後若し誤って我れ一箇の了簡(りょうけん)を出し、奢りがましき儀相間似(まね?)候者は当家破滅の者と心得、必ず流弊これなく正路に宛て行うべき事

一 家政向きの儀は、是までの通り節倹を相守り、この御趣意に基づき、何ヶ年も押し立て申すべき事肝要に候、
若し又不意の物入り等これ有り候て、押し立てかね候ば、これまでの暮し方より、又々引き下がり、節倹を相守り、抽んでて丹精し、万代の計致すべき事

一 去る申年(天保8年)飢饉の折節、不如意に罷り成り、断絶にも及ぶべきの処、二宮先生報徳のお影(かげ)をもって立て直し、忝(かたじけな)くも今日に至るまで相続仕り来りそうろう御恩沢、冥加至極有難く存じ候、
なおもって後の主達。忘却これ無く、この御趣意に洩らざるよう相勤むべく申す事
 

一 分地別家等の儀は、堅く致すまじく候、果して断絶の基たるべく候、
且つ又家作普請等の儀は、予も是まで大いに誤弊金のみならず、家客を張り立て、斉家を損ない候間、以来別して作り致すまじく候事。

一 家事取極め置き候事、何事に限らず必ず相崩し申すまじく候事

一 田畑譲帳の儀は別帳に認め置き候也

一 粟蒔いて粟のでき、米蒔いて米になるの天命を深くも深くも相感じ、高利を貪り、無利非道の金銀を貯え譲り、子孫相続などと心得違い之無きよう、きっと相慎み申すべく候、
尚くわしくは二宮先生報徳訓、並びに御趣法譲り置き候間、能々披見有るべき事


右の御趣意我も感服仕り、今日まで相助け候段、筆紙尽し難く、忝さの余りおこがましくも、後々の主人達へ書き伝え置きぬ あなかしこ
            行年71才
 嘉永2己酉年 6代目 平兵衛
    宗右衛門殿
  後々主 人 達へ
 

 別紙遺書

 別紙頼み上げ候遺書の事

一 愚拙相続中、いつしか驕奢に流れ、或いは普請造作、都(すべ)て家内取納め等、種々行き届かず、旁(かたがた)以て不如意に相成り、去る申年既に滅亡にも時節到来及ぶべき仕り候、是我が一人の誤り、先祖は申し及ばず、御親類様へ対し、如何共恐れ入り奉り入り候次第に御座候、且必死と当惑仕り候処、小田原表二宮先生報徳御教諭に預かり、実に以て我が一人の不肖と感服仕り、右御趣法に基づき、家作を縮め、不用の品を売払い、諸事倹約を宗とし、漸取り続き来候、先ずこの姿にて押し立て候はば、追々相続の道相立ち申すべきやに存じ奉り候、若し向後我先年如く過ちこれ有り候て、奢侈に流れ候はば、各様方幾重にも、御教示御差し加え、永続の計伏して願い上げ奉り候以上
 嘉永2己酉年
         行年71才
         6代 平兵衛
      清五郎殿
      久左衛門殿
      平左衛門殿
     茱萸澤村
      八右衛門殿
     大坂村
      長右衛門殿
     駒門村 
      勝三郎殿
     須山村
      五郎治殿
     同
      宗治郎殿

   
 別紙頼み上げ候遺書の事

一 愚かな私は相続中、いつしか大変おごってしまい贅沢に流れ、あるいは家を新築し、すべて家内の取納めなど、いろいろ行き届かないで、あちらこちら経済的に苦しくなり、去る天保8年ついに滅亡する事態にも及びました。これは私一人の誤りから出たことで、先祖にも申し訳なく、親類へも恐れ多い次第で、死んでおわびしなくてはならないところでしたが、小田原の二宮先生の報徳のお教えに預って、まことにもって私一人の愚かさゆえのことだと感服して、報徳仕法に基ずいて、家政を縮め、不用の品を売り払って、すべて倹約を宗とし、継続して行ってきました。まずこの姿で行っていけば、ついには相続の道が立つまでになってきました。もし今後子や孫に私が昔おかした過ちが有り、度を過ぎた贅沢に流れましたら、皆様方が何度でも御教示くださり、永続できますよう伏して願い上げます。以上
 嘉永2己酉年
         行年71才
         6代 平兵衛
      清五郎殿
      久左衛門殿
      平左衛門殿
     茱萸澤村
      八右衛門殿
     大坂村
      長右衛門殿
     駒門村 
      勝三郎殿
     須山村
      五郎治殿
     同
      宗治郎殿

天保八丁酉(ひのととり)年
飢民御撫育御救金拝借米並御仁恵金取調帳
      駿州駿東郡御厨 竈新田
 4月

 困窮人病難の者当座御救金頂戴の事

酉3月19日
一 金1両2分
 これは当村の儀、近年不しあわせ打続き困窮罷り在り候処、去る巳年より不順気打続き、殊に当郷用水の儀は、不士山雪水掛りの場所故、一切実り申さず、60年来稀なる大凶荒飢饉と罷り成り、金銀貸借は勿論、雑穀売買之無き程の年柄、その上時疫流行、一同難渋至極罷り在り候に付き、拠りどころなく取続き方嘆願奉り候処、早速御回村成し下し置かれ、御見分の上右病難の者へ御救いとして下し置かされ候事。

 夫食米無利5ヵ年賦御拝借の事

酉4月
一 御蔵米18俵1斗5升
 この代金29両2朱永41文9分
         但し金10両に付き6俵3分替

 この者右同断、格別の 御仁恵を以て、御回村遊ばされ、御取調べ下し置かれ候処、当村方家数85軒、人別349人の内、かなり取続き夫食差支え無きの者、家数38軒、人別159人、並びに他所奉公に罷り出候者相除き、なお又中難の者家数38軒、人別67人、この夫食4月上旬より5月上旬まで、日数30日の内、一日に米1合ずつの積りを以て、米5俵1升、極難の者家数28軒、人別79人、この夫食3月下旬より、麦作実り候まで、日数40日、1日米1合5勺ずつの積りを以て、同夫食米13俵1斗4升、都合米18俵1斗5升、無利5ヵ年賦御拝借 仰付られ候事

  御仁恵金頂戴の事

一 金4両3分3朱永39文4分
   これは右同断の年柄罷り成り候に付き
   御殿様下々難渋の儀を深く 御憐察遊ばされ、御手許より難渋人御救なされ、書面の御金村方一同へ下し置かれ候事

   御仁恵金御加入の事
一 金2朱        清五郎
(略)

天保8年
飢民御撫育御救金拝借米並御仁恵金取調帳
      駿州駿東郡御厨 竈新田
 4月

 困窮人・病難の者、当座の御救い金を頂戴の事

3月19日
一 金1両2分
 これは当村のこと、近年不幸せが続いて困窮になってきましたところ、去る天保巳年から天候の不順が続いて、とくに御厨郷の用水は、富士山の雪水がかかる場所であり、一切実らず、60年来稀な大凶荒・飢饉となり、金銭の貸借はもちろん、雑穀の売買も無いほどの年となり、その上流行病がはやり、一同の難渋はひどくなりました。やむをえず嘆願申し上げましたところ、早速御回村くださいまして、現地を調査して病難の者へ御救いとして下されました事。

 主食の米無利5ヵ年賦御拝借の事

4月
一 御蔵米18俵1斗5升
 この代金29両2朱永41文9分
         但し金10両に付き6俵3分替

 このものは先に述べたと同様に、格別の御仁恵で御回村くだされ、取調べ下されましたところ、当村の家数85軒、人別349人のうち、食料に差支えが無い者は、家数38軒、人数159人、並びに他所に奉公に出ている者を除いて、また中難の者が家数38軒、人数67人、この夫食4月上旬より5月上旬まで、日数30日の内、一日に米1合ずつの積りを以て、米5俵1升、極難の者は家数28軒、人数79人、この食糧は3月下旬から、麦が実るまで、日数40日、1日米1合5勺ずつの積算で、同食糧米13俵1斗4升、合計米18俵1斗5升、無利5ヵ年賦で拝借することを仰せ付けられた事

(略)

  天保八丁酉年

 夫食米無利5ヵ年賦拝借証文のひかえ
            駿州駿東郡御厨 竈新田
   4月

高178石9斗7升5合
内18石2斗1升9合新田高       竈新田
一家数85軒

  人別349人
    この訳
  家内9人      角右衛門
  同 4人      幾右衛門
  (略)
  〆家数38軒
   人別159人
   この者かなり取続き夫食差支え御座無く候

  家内4人      善左衛門
  同 3人      勝右衛門
  (略)
  〆中難家数19軒
   人別82人
   内15人これは奉公に罷り出で候者に付き引残し人別67人
   この夫食米5俵1升  
           4月上旬より5月上旬まで
          但し日数30日1人に付き1日 米1合宛て積り
    代金7両3分2朱永101文1分9厘
          但し米値金10両に付き6俵3分替
  家内5人      元右衛門
  同 6人      甚三郎
  (略)
  〆極難家数28軒
   人別108人
    内19人これは奉公に罷り出で候者に付き引残し人別89人
   この夫食米13俵1斗4升
          但し3月下旬より5月上旬まで日数40日間1人付き1日米1合5勺宛積り
    代金21両2朱
        永65文4分7厘6毛
          但し米値右同断
  合米18俵1斗5升
   代金29両2朱永41文6分7厘
    この済方
  酉10月20日
   金5両3分1朱永20文8分3厘4毛 
  戌10月20日
   金5両3分1朱永20文8分3厘4毛
  亥10月20日
   金5両3分1朱永20文8分3厘4毛 
  子10月20日
   金5両3分1朱永20文8分3厘4毛
  丑10月20日
   金5両3分1朱永20文8分3厘4毛 
 〆
右は御領分駿東郡、八ヶ郷組合、竈新田名主、組頭、惣百姓一同申上げ奉り候、
当郷土地柄、用水の儀は富士山雪水掛りの場所故、去る巳年より不順気雨天勝ちにて、近年稀成る大凶作に相成り、暮し方夫食必至と差支え、十方に暮し罷り在り候処、小田原御城附き、御領分村々報徳金御貸附の由承知仕り、なにとぞ飢渇を相凌ぎたき為、達て御拝借金願い上げ奉り候処、格別の思召しを以て、〆速御出郷御見分下し置かれ、ハン之助様御知行所、荒地開発、人別増、村柄取直し御趣法の次第、微細に御理解仰せ聞かされ、御知行所村々立直り、古に復し候為冥加と、相納め候報徳善種金、窮民取続く為、当3月下旬より5月麦作実り候まで、凡そ日数40日の間、暮し方極難の者、男女大小人共、1人に付き1日御蔵米1合5勺宛、なお又暮し方中難の者、4月上旬より5月上旬まで、凡そ日数30日の間、1人に付き1日御蔵米1合づつの積りを以て、書面の夫食無利5ヵ年賦御拝借 仰付けられ重々冥加至極有難き仕合せ存じ奉り候。
御返上納の儀は、別紙割合手段帳の通り、昼夜家業相励み、日掛け為し仕り、日々村役人共方へ預かり置き、当酉年より来る丑年まで、年々10月20日限り、御上納仕るべく候、万々一拝借の内、或いは離散死に潰れ、その外いかようの儀出来仕り候共、右御請を為し、村方一同連印仕り差上げ奉り候通り相違御座無く候、たとえ御年賦御皆済の上、この証文御下げ下し置かれ候共、世上通用年2割の御利足のみ相当り申し候得ば、全書面の夫食御助成に預かり、露命を繋ぎ、一村相助かり、御百姓相続仕り候御恩沢の次第、子々孫々に至るまで申し伝え置き、いささか忘却為し仕り申しまじく候、後日の為夫食御拝借証文よってくだんの如し。

 天保8丁酉年3月

       竈新田世話人太兵衛
          同  茂右衛門
          (略)
   
 二宮金次郎様
 


小林平兵衛と農村復興ー心学から報徳仕法へ(「江戸時代人づくり風土記22」)
 御殿場の名主(村役人の長)の家に生まれる
 富士山は、日本を象徴する山です。平兵衛は、この富士山と箱根の外輪山にかこまれた今の御殿場市茱萸沢(ぐみざわ)の名主家江藤孫市の子として、安永8年(1779)に生れた。
 御殿場地方は、富士山の東麓(とうろく)地方にあたり、静岡県の中にはもっとも北東部の県境にあたる。隣接する小山(おやま)町須走(すばしり)から籠坂峠を越えると山梨県に、また、足柄峠、乙女峠を越えると神奈川県に入るという位置にある。
 江戸時代にあっては、メインストリートとしての箱根街道に対して、古代から歴史を背負った脇往還として、交通上の重要な意味をも持っていた。そういう点では、箱根の関所を補助する脇の固めとして、仙石原・谷峨(やが)・矢倉沢・河村の各関所も近い位置関係にあった。
 かつては、宝永4年(1707)の富士山の噴火により、それまで小田原藩領であった村々が幕府領となり、再び小田原藩領に復帰するのに30年から70数年を要した。その後の天明・天保の大飢饉でも大きな痛手を負った地域である。このような自然環境のなかにあって、俳諧を通した文化活動や民衆道徳としての心学を広め、あるいは天保期(1830~44)の飢饉に際して、いちはやく機敏に活動した小林平兵衛という人物は、いかなる人であったか。
 嘉永2年(1849)、平兵衛は71歳の生涯を閉じた。かつて行動をともにした牛負庵(ぎゅうふあん)牛翁(ぎゅうおう)は、平兵衛の生涯を「小林木二古人(もくじこじん)一代の記」にまとめ霊前に捧げた。それには「当家の木二(平兵衛の俳号)は何事をやるにしても徹底するのが好きで、俳句の道は享和・文化年間(1801~18)から学びはじめ、正風の道に深く志を立て、中年からは地理家相を学び・・・
 その後は石門心学の道に入って京都に修行し、江戸に遊んで、心学の道をきわめた人に深く共鳴して・・・
 さらにその後にいたっては、報徳の開祖であった野州(栃木県)宇津家の復興を手がけた二宮金次郎という人にその道の指導をあおぎ・・・そして、この道を深く学び、その後、この御厨での先達となって、自分の住んでいる村で隣村はいうに及ばず、報徳仕法を説いてまわり、郡中にまでそれを広げ、人の憐れみごとの相談にのり、貧乏な者を助けるために自分のことはぬきにして親切を尽くしました。」
とあり、文化5年、竈新田の小林家に養子に入った前後から、その生涯にわたる事蹟をあとづけている。
 牛負庵牛翁は御殿場村の村役人を勤め、平兵衛とともに二宮金次郎に従って天保期の報徳仕法の実践者となった蛭子(えびす)屋藤吉(とうきち)である。

 小林平兵衛の人生遍歴
 平兵衛は茱萸沢村の名主を江戸時代中期より代々勤める江藤家の孫市の息子として安永8年(1779)に生れた。兄の孫右衛門は父の跡をついで名主となった。一方、小林家は、もともと竈新田を開いた奥住新左衛門の甥にあたる小林3兄弟のうちの安兵衛家から分家し、屋号は「だんや」とよぶ家である。
 平兵衛は、この小林家に文化5年(1808)に婿養子となり、文化10年には、家督を継ぎ、この年、息子の縫蔵(ぬいぞう)を湯山文右衛門のもとへ手習いに通わせた。この年、平兵衛は35歳になっていた。
 後年、弘化元年(1844)に記した「遺状(のこしじょう)」には、若い頃身をもちくずし、両親から勘当され、当時、御殿場村から庵原(いはら)郡庵原村に養子に入っていた良蔵(8代目柴田権左衛門)に連れられて長々と同家に厄介になり、隠居中の6代目権左衛門の教えを受けて心を入れかえたとある。名主の息子としての何の苦労もない生活の中で、彼に課された一つの試練でもあったであろう。
 第二段階として、小林平兵衛の竈新田時代がはじまるが、そのスタートも決して楽ではなかった。平兵衛が小林家に婿養子に入るについて、養父である5代目太兵衛が文化5年5月7日に35歳で亡くなったことと無関係ではないようである。この年は、平兵衛30歳であるので、小林家の5代目が早死にしたための6代目であったようである。この後、文化8年には養母が亡くなる。文化10年6月15日に小林家の6代目を継いだが、この時、本家の竈新田村中宿(なかじゅく)の小林安兵衛と杉名沢村の文左衛門、兄である江藤孫右衛門が立ち会った。家督を継ぐ前年、文化9年(1812)には、同じ村内の同志18人とともに毎月各々が草履8足または、銭48文を積み立てる相続講をつくった。平兵衛の日常は、米作りの農業のほかに、茶作り・タバコ・養蚕があった。牛翁の追悼文にもたったように、日記の中には農業のあいまに発句、碁打ち、「論語」の学習などにはげみ、毎日の生活だけに追われない道の追求の一端がうかがわれる。

 心学道話への共鳴とその普及活動
文政6年(1823)小林平兵衛に転機がおとずれた。平兵衛45歳である。1月18日、村方より平兵衛に組頭(江戸時代の村役人で名主を補佐する役)となるよう頼んできた。1月28日に平兵衛は、小田原に出立し、翌29日には、役所で竈新田の組頭を仰せ付けられた。組頭役についた、平兵衛は3月21日に江戸へ向って旅立った。旅の目的は2つあった。1つは、得意先へ椎茸を卸すこと。もう1つは、商売のかたわら江戸に着いた晩から、田嶋有覚、大島有隣らの道話を聞くことだった。平兵衛はこの間、5日間にわたって心学者から直接道話を聞き、竈新田に帰ったのは30日だった。文政6年中には、ほかにも4回商売兼研修の旅に出ている、彼の心の中には心学への思いがハッキリとした形になりはじめていた。(略)
 平兵衛が聞いた大島有隣らは、正直・倹約・勤勉・堪忍といった道徳観を強調したので、文化・文政期(1804~30)の平兵衛ら農村の指導者たちには、非常に聞こえやすい指導方針や生き方であった。心学に接した平兵衛の生き方が積極的になり、地方の村々の指導者たちとのつながりを強めていった。発句会や親戚筋にあたる柴怒田(しばんた)村の医師瀬戸家での「老子」「荘子」「孟子」「論語」の筆写や話などを聞く中で学習を進めた。文政6年10月には、江戸から曾根直二郎が来て道話をしながら巡回を始めた。
 文政10年平兵衛48歳の年には、掛川止敬舎の菊池良貞を招いて、富士山東麓御厨地方を巡回し、良貞の心学道話を筆写している。文政11年には掛川止敬舎のの近藤平格を招いて、文政12年、天保6年、7年と3回にわたって御厨地方を心学のため巡回している。そして天保6,7年には、自ら平格に従い相模、下総にまで遊説している。

小林家の農業経営の行きづまり
小林平兵衛は、文政6年に組頭に任じられた。その後の文政11年の小林家は、竈新田村だけでなく近郷にも田畑を所有し、その反別は水田が6町5反余、畑が4町余の合わせて10町歩以上に及んだ。
 しかし、家督を7代目惣右衛門に譲る間に小作米、利金米ともに減った。これは、天明の飢饉以降の状態から農民が十分に立ち直れない一方、割高な年貢米によって村内が不安定になってきた。したがって、小林家の経営の行きづまりも広い小作地を持ちながら収入が減少し苦しくなっていった。菊池良貞の道話の内容を筆写した平兵衛の帳面には、「人は自己の了見を捨てて無心となること、他力を信じていくこと」の大事さが読み取れる。さびれてきた農村や農民には、不慮の災難や家内・村内の不和から起こる争いごとをやわらげる機能として、小林平兵衛には心学道話が必要であると思ったようだ。
しかし、天保の飢饉には、平兵衛のこのような考えは無残に崩壊した。天保7年(1836)の凶作によって、明らかに小作米は減少し、貸付金も回収できなくなった。そこで一度譲り渡した家督を惣右衛門から平兵衛に戻し、家の建て直しをすることとなった。同年7月には、小田原藩の郡奉行(こおりぶぎょう)の手代(下級役人)が凶作の御厨地方を回村した。この年の難渋人は、3119人で、竈新田は男16人、女7人の23人が死亡した。
 天保8年、平兵衛59歳、3月から4月にかけて、小田原藩士二宮金次郎が鵜沢作右衛門を伴って飢饉に苦しむ富士山東麓の駿東郡78ヶ村を巡回した。窮乏の状況を無難・中難・極難の3段階に分け、その救済策として、極難には米1日2合と銭1文、中難には米1日1合と銭2文を貸し与えた。

 報徳仕法の担い手としての活躍
 天保の飢饉のなかで、小林平兵衛は水を得た魚のように、その活動が開始された。それは、心学の道話ではどうにもならない目の前の惨事があったからである。自らの家の農業経営をいってはいられないなかで、二宮金次郎の報徳仕法の担い手とてして天保8年、小林平兵衛は動きはじめた。
 同年3月、小林平兵衛は報徳金として5両を二宮金次郎に差し出した。4月には、小田原藩主から仁恵金(救済金)として、1両3分2朱、永47文2歩9厘4毛を頂戴した。7月15日には、平兵衛、御殿場村の日野屋宗兵衛ら6人が発起人となり、御厨地方6筋の富裕層に「報徳窮民撫育」の拠金をよびかけ、6筋で金102両1分、銭182文が集まった。これを極難渋人513軒513軒1212人に分配した。
 この年、小林平兵衛は茱萸沢(ぐみざわ)村にある小林家の所有地2町5反7畝2歩を質に入れ、二宮金次郎より50両を借用し、同村内の極難者に無利息で5年から7年賦の貸付を行っている。天保9年(1838)には、118両余りを土台金として、小林平兵衛はみずからの村の仕法をはじめた。
 その後、天保10年には、小林平兵衛は野州桜町陣屋に二宮金次郎をたずね、仕法の模範村である青木村を案内してもらっている。天保12年には、小林家の諸道具を処分し、二宮金次郎のもとで報徳の指導を受け始めました。これが契機となり、富士山東麓地方にも各村々で村立て直しの報徳仕法が実施されはじめた。
 天保14年には、ぐみざわ村の吉左衛門から買った田畑を売り、金55両を基金として「知足備金」を創設した。平兵衛が嘉永2年(1849)7月6日に71歳でなくなったのちもその遺志は持ち続けられ、明治44年(1911)には、10代目秀三郎、11代目慶一郎によって「小林知足財団」が設立された。知足財団の基本は、天保14年から明治45年までの積み金43,912円98銭7厘だった。



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