鈴木鎮一「どの子も育つ親次第」「幼児の才能教育」より「数年前のある日ことでした。 私(鈴木鎮一先生)は東京へ出かけた時に泊ったホテルで疲れていましたのでマッサージを頼んだところが、ほどなくして35,6歳の女の方がきてくれました。 その人はマッサージをしながらこんな話をしました。 「子どもというものは授かりもので、親の運、不運がございます。 親によっては、とても良い子どもを授けられる方もありますけれど、なかにはどうにも手のつけられないような困った子どもを授けられる親もございます。 こういうことがやはりあるものだと思います。 私も不運な方で、子どもは中学の1年生の男の子でございますが、私の言うことはどんなことでも聞きません。 親子が顔を合わせただけで、もうけんかごしなのです。 これも運命だから仕方がないとあきらめてはおりますが・・・」 とそんな話をしているんです。 私はこれはいけないと思いまして、私の考えをいろいろとお話しました。 そしたらその方は涙をボロボロ流して、マッサージの手を止めて泣いておられるのです。 それで私は 「奥さん、どうして泣くんですか」と聞いたところ、 「お話をうかがって本当になんと私はひどい親だったと思いまして、子どもがかわいそうで、すまないと思ったら泣けてきたのでございます。 ほんとうに私は悪い親でございました。」と言うのです。 そこで私は 「奥さん、あなたはいいお母さんんだ。 そのことに気がついて泣いてくださるほどのお母さんであることを、私はうれしく思います。 今日からは今泣いていらっしゃる、すまなかったというその心だけで、後はなんにも言わずに生活してごらんなさい。」とお話したのです。 その方は「ハイ、ありがとうございます。」と帰ってゆかれました。 それから一ヶ月ほどたって、私どもの全国大会が東京にありましたので、まだいつものホテルに泊ったのです。 そしてマッサージを頼んだところが偶然にもあの時の女の人がやってきたのでした。 その方は私を見るなり 「先生、あの折はほんとうにありがとうございました。 一度お目にかかってお礼を申し上げたいと思っていたところでした。 これも神さまのお引き合わせでございます。」とおっしゃるのです。 そして 「なんという不思議なことでしょう。 この前、先生からお話を伺ってからおっしゃるとおりに子どもの顔を見て 『ほんとうにすまない。私はなんとおろかな親だったろう』とそういう気持ちでいつも子どもに接して暮らしておりましたら、だんだん子どもが変わってきて、このごろでは私が何かやっておりますと、側に来て 『お母さん、僕が手伝うよ』と言ってくれるようになりました」というお話でした。 「それはとても良かった。子どもさんが一生幸せなよい人になるように、これからも祈りながら暮らしてください」と申したことでした。 ○鈴木鎮一(しんいち)先生がこうおっしゃっている。 「子どもは生命活動で親の放射するものはなんでも吸収し、そして人間形成してゆくのです。 つまり環境に適応して能力として身につけてゆくのですから、親の言葉、親の行為はそのままよい手本になっていることを知らねばなりません。 幼児の敏感な感受性というのはおとなたちの想像以上です。 たとえばお母さんがドアをパターンと閉める。お父さんが足で開ける。 すると子どもはそれを見てすぐまねをする。 そしてお母さんに叱られる。自分たちがそうやっておいて子どもを叱りとばす。そんな無茶なことがありましょうか。親たちのやったことを子どもがまねる。これは教育していると同じことなのではありませんか。」 愛知県のある町で鈴木先生が講演したときのことである。 その日、その町の名家であるKさんのお宅にとめていただいた。 その翌朝、Kさんの奥さんがお給仕されながらこんなことを話された。 「鈴木先生・・・。 昨日、先生のお話を私は身にしみてうかがいました。 そして本当にそうだと思いました。 『子どもの姿はあなたが育てた姿なのだ』とおっしゃった言葉は私にとって本当に大きな反省となりました。 ところが昨夜、子どもがいつものように手に負えぬわがままをしたので、私もかっとなって泣く子どもをお蔵へひきずってゆきました。 そして蔵の戸を開けて中へ入れようとした瞬間 『その子どもの姿はあなたが育てた姿ですよ』 と鈴木先生のお声が心によみがえってきたのです。 私ははっとして目が覚めました。 私は泣いている子どもを抱いて二人で蔵の中へ入って、蔵の戸を閉めました。 『今日はお母さまも一緒にお蔵に入ります』と、子どもと一緒に蔵の中で座ったのです。 子どもは真っ暗な蔵の中が恐ろしいのか、私にしがみついてきました。 私は子どもに 『お前がわがままでお母さんの言うことをちっともきかないから、お母さんは悲しいのです。 しかし、お前をこんなわがままな子にしてしまったのはお母さんのせいです。 だからお母さんも悪かったので、今日は一緒にお蔵に入ったのです。 今日はお母さんからお前に詫びます、ごめんなさい。 お母さんはこれからもっとよいお母さんになりますから、許しておくれ』とあやまりました。 そうしたら、子どもは 『お母さん、僕が悪いの、これから僕はもっとよい子になります』と言って私にしがみついてきました。 昨夜はそんなわけで、母子二人で蔵の中で泣き明かしたのでした。 そうしたら今朝になってみると、子どもの態度が今までとはまるで違っているのでございます。 子ども心にも母の悲しみがわかってくれたのですね。」 「奥さん、本当によいことをなさいましたね。その考えの切り替えができたことはなんと素晴らしいことでしょう。 わが子にわびながら育てる親の心はなんと気高いことでしょう。よくそこに気づいてくださった。」 と鈴木先生は心から感動されてその奥様をほめられたのでした。 鈴木鎮一先生のスズキ・メソードの誕生の日のことについて「愛に生きる」(講談社現代新書)に載っている。 「アッ! 日本じゅうの子どもが日本語をしゃべっている!」 わたしは飛び上がって驚きました。 どの子もみんな自由自在に日本語をしゃべっている。 驚くべき才能ではないか。 なぜだろう。どうしてそういうことになったのか。 わたし(鈴木鎮一先生)は通りを駆け出して叫びたい衝動を抑えるのがやっとでした。 それは昭和6年ごろだった。 鈴木先生は、帝国音楽学校や国立音楽学校で学生にヴァイオリンを教えていたが、 ある日知り合いのお父さんが4歳の息子を連れてきて「この子にヴァイオリンを教えてください」と頼まれたのである。 「どのようにしてこんな小さい子を育てたらいいか、なにを教えたたらいいか」 鈴木先生には検討もつかなかった。 4歳の子にどんな教育法を施したらいいか、明けても暮れても鈴木先生は考えた。 そしてこれが冒頭の驚きの発見になったのである。 「日本語をしゃべっているということは、やっぱり、しゃべらせているという事実があるからだ。 教育した事実がある。 ここにはちゃんとした教育法があった。 どの子もみんな育っているではないか。 これこそ完全な教育法だ。 日本中の子が育つ教育法が日本中にある。 こういうことに気づいて驚いたのです。」 こうして母国語の教育法、スズキメソードが誕生した。 その4歳の男の子は後に世界的なヴァイオリニストになる。 江藤俊哉さんである。 ○「1941年、デンバー大学とエール大学の2教授によって重大な記録が発表された。 それは、インドで狼に育てられた2人の子どもを発見し、これを捕らえて育てた記録だ。 2人の子どもはシング神父に養育された。 狼の洞窟から捕らえられた人間の子どもは、一人は満2歳くらい、一人は満7歳くらいの女の子だった。 小さい子はアマラ、大きい子はカマラと名づけられた。 狼に育てられた人間の子は、四つ足で歩き回り、目は狼のように暗闇でも見え、嗅覚はきわめて鋭敏だった。 四つ足で犬のように早く走り、肩は広く、下肢は股のところで曲がって伸びていなかった。 物も手は使わず口でくわえ、犬と同じような食べ方をした。 年長のカマラは生肉を好み、腐肉も喜んだ。 暑いときには舌をたれて犬のようにあえいだ。 掌にはたこができていた。 物音がすると歯をむいてうなった。 カマラは闇を好み、火と太陽を恐れ、昼は眠ったり横になって、日が暮れると活動した。 午後の10時、午前1時と3時にほえた。 2人は孤児院に入っても長い間、狼の習性をすてなかった。 1年半たって、カマラはようやく直立することができたが、歩行は困難だった。 数年後、カマラは歩行できるようになったが、急ぐ時は常に四つ足で走った。 カマラは2年間、地面に置かれた皿に口をつけて食べたが、直立できるようになって初めて手でご飯を口に運ぶようになった。 水を犬のように飲むことだけはなおらなかった。 カマラは、庭で死んだ鶏をみつけるとそれを口でくわえて林の中に走りこみ、口のまわりを血だらけにして帰ってきた。また鶏を追いかけてかみ殺す癖はやまなかった。 アマラのほうは、2ヶ月孤児院にいるうち、喉がかわいたとき水という言葉を発した。 アマラは人間の世界に入って1年目に死んだ。 カマラの嘆きは大きかった、涙を2粒だけこぼした。幾日も食事をとらなかった。 カマラは5年目にコップから水が飲めるようになり、入浴する習慣もついた。 7年目には45の言葉が言えるようにまでなった。また歌を歌うようになった。着物もひとりで切れるようになった。 カマラは7年目の秋、腎炎を発病し、9年目に尿毒症を続発して推定17歳で死んだ。」 鈴木鎮一先生はこう言われた。 「このカマラの一生はわたしたちをして人間とその育ち行く本質について、深く考えさせずにはおきません。 環境に順応してどのようにも育つ高い可能性をもつ人間の一断面を、カマラはまざまざと私たちに教えてくれているのです。 直立歩行が人間の本質だとされていたのに、カマラが獣の四つ足歩行で走りえたということは、私たちの常識では考えも及ばなかったことであり、夜中の遠吠えの習性が消えなかったということにいたっては、あまりのそらおそろしさに慄然とするのであります。 乳幼児時代に育てられたものが、このように根強く人間の能力を決定してゆくかを思い知らされるのです。」 ☆鈴木先生が、ある会場で母親達にこのアマラとカマラの話をされたことがある。 「子どもは生命活動で親の放射するものはなんでも吸収し、そして人間形成してゆくんですよ。 つまり環境に適応して能力としていくのですから、親の言葉、親の行為はそのままよい手本となっていることを知らねばなりません。 まだ幼児だからそんなことはわかるまいと親が考えていても、子どもはちゃんと見ているのですよ。 この幼児の敏感な感受性というものは大人たちの想像以上です。 たとえばお母さんがドアをバターンと閉める。 お父さんが足で戸を開ける。 すると子どもはそれを見てすぐまねをする。 親たちのやっていることを子どもがまねる。 これは教育していることと同じではありませんか。 すると、親たちの生活の反省がまず第一だといわなければなりません。」 すると聞いていたお母さん達は自分の生活のあり方を反省されて涙ぐむ方もいらっしゃる。 最後の主催者側のあいさつに立たれたお母さんが 「わたしたち狼の親たちは・・・」と挨拶され、それを聞いていたお母さん達がすすり泣きされたので 鈴木先生は大いにお困りになったことがあるとのことです。 鈴木先生はこういわれている。 「いま、世の多くの子どもたちは、本当のオオカミの中には投げ込まれてはいません。 しかし、生まれつきでなく、環境によって子どもたちがその能力を身につけ育っているとしたら、 大なり小なり、オオカミのなかに投げ込まれたのと同じように損なわれた育ち方をしているのです。 そして、その損なわれた姿を見て、『生まれつきだ』という。 大きな間違いです。 子どもたちの運命ーそれは親の手に託されているのです。 」 ○鈴木鎮一先生のお父さんは鈴木政吉といい、一代で世界最大のヴァイオリン工場を作った人だった。 鈴木家は政吉氏の祖父の代から三味線づくりを家業としていた。 政吉氏は中学校の教師を志して英語の教師を志して江戸へ出たほど進取の気性にとんでいた。 そして西洋の楽器に興味を持って、ヴァイオリンの研究を始めた。 政吉氏の青年時代の名古屋には、まだヴァイオリンを持っている人はほとんどなかった。 たまたま師範学校の先生が持っていたのを 「あなたの寝ておいでのあいだだけ、一度見せてください。」と頼み込んで、夜中に図面をとった。 こうして最初のヴァイオリンができたのは明治21年だった。 専門工場の設立、品質の向上につとめ、最盛期には1100人の人が働く鈴木ヴァイオリン工場になっていた。 政吉氏は新しいものの研究を続け、特許も21あった。 こうしたたゆみない研究心のほか、政吉氏は鈴木先生に、人は『誠実』でなければならないと教えた。 大正末期の世界的な不況で、鈴木ヴァイオリン工場も赤字になり、次々に財産を手放すはめになった。 「わたしはすべての責任者だ。 会社も、わたしの財産も、工場のみなさんが協力してくれたからこそできた。 全財産がなくなるまで、一人の工員もやめさせない。お返しするのだ。」 こうしてついには、自分の住んでいた家屋敷まで売ることになった。 ここで始めて、工員を減らし、小さい工場に移転した。 こうして生き残った鈴木ヴァイオリンは社会的な信用を維持し、戦後日本の代表的ヴァイオリン製作工場として復活することになる。 「誠実という父の遺産のおかげ以外にありません。 打算を捨ててひたむきにーこれが父から教えられたことです。 気ながに、ひたむきに、一歩一歩仕事をしていく、そうすれば、何でもできるーこうした精神も父に植え付けられたものです。」 また、鈴木先生のお父さんはこんなことも言ったという。 「汽車の中で他人と乗り合わせた場合、向かい合わせになった人、隣り合わせの人に対して、 まず、なにかの縁でそうなったのだから、一緒に乗り合わせたことをうれしいと思うような心を持つべきだ。 だから、なにか一言挨拶をなさい。 そうすればきっと話も出るだろう。 お前は聞き上手になる練習をする。 相手の人は、お前と違った生活をし、お前とは違った知識を持っているから、必ず何か社会の勉強になる。 だからお前がしゃべるよりも、世の中に出たら、人の話をひっぱりだしては聞き、ひっぱりだしては聞くようにしなさい。 それは楽しいことだ。 相手の人も自分の知っていることを離すのは楽しい。」 ☆「急ぐな休むな」 これが私のモットーです とおっしゃったのは鈴木鎮一先生だった。 「まず、お母さんが子どもを連れてバイオリンを習わせたいとやってきます。 そのとき、私たち指導者は、すぐには子どものレッスンを始めません。 まずお母さんに家庭でのよい助手になってもらうために、最初のキラキラ星がひけるように指導いたします。 そして子どもにはキラキラ星のレコードを毎日家庭でかけて聞かせます。 必要なことは、子どもが無意識のうちに『自分もやりたい』という気持ちを起すようにしむけることです。 ですからはじめに最初に習う曲を毎日きかせ、またレッスン日に子どもを連れて行って。他の子ども達の弾いているところにおく。 そういう環境を子どもに与えるわけです。 それにお母さんが小さなバイオリンをもって教室で弾くし、家でも弾いている。 そうしているうちに子どもは自然にやってみたくなる。 自分も遊びたいと思い始める。 そういう条件を作ってから、 『あなたもバイオリンが弾きたいの?』 『うん』 『よくおけいこする?』 『うん』 『それでは、今度から先生にお願いしてあげましょう』 こうしてバイオリンを習わせるのです。・・・ 遊ぶ楽しさで始めさせ、遊ぶ楽しさで正しい方へ導いていく。 ー幼児の教育は、なにごとによらず、ここからなされなければなりません。 親や先生が『教育』だと四角張ったときに、とたんに子どもはゆがみます。 まずやる気を育て、そして能力を身につけさせていく。 これが指導のコツです。」 ☆子どもが幼い頃、鈴木先生のご本を読んですっかり感動して、幼児教室にバイオリンを習いにいかせた。 この言葉通り、子どもが自分から『やりたい』と言い出すまで、いつまでも待つつもりで同じくらいの子ども達のレッスンを聞きにいったのだ。 すると数回目に『僕もバイオリンをやりたい』とワンワンと泣き出したのだ。 先生が菓子箱かなにか首の下におかせ、バイオリンの弓で弾く真似をさせたときの子どもの喜びぶりは忘れられない。 「一つ注意していただきたいのは、親の競争心です。 よその子の進んでいるのを見ると、とかくお母さん達はむきになって子どもに勉強を強いがちですが、これは親だけの考えであって子どもは関係のないことです。 最初は子どもの集中力のある間、たとえ3分でも5分でも結構ですから子どもが飽きたらすぐやめてしまいます。 けっして無理強いをしないことです。 そして子どもの遊びの間をたくみにとらえて、またお稽古をする。 『急ぐな、休むな』というのが、私のモットーです。 集中力のなくなった子どもをいくらやらせようとしても、成果はけっして上がりません。 そればかりか、お母さんの小言が多くなるでしょうし、子どもは子どもで反抗を示すでしょうし、お互いにしこりが残って、明日のレッスンもまた不愉快な気持ちで始まることになります。 これとは反対に子どもの心理をよくこころえているお母さんは。その日のレッスンが目的に達した頃をみはからかって、『もう今日は終わりにしましょう』と先手を打つのです。 すると子どもはまだやりたがりますが、そのやりたい気持ちを次の日まで心に残しておくわけです。」 ☆自分からやりたいと言っただけに、子どものレッスンはぐんぐんすすんだ。 周りからほめられ、やる気があった。 しかし、曲が難しくなると、ついつい指導する家内の物言いもきつくなる一方になった。 そして子どもがすっかり嫌になって、やめると言ったのだ。 遊ぶ楽しさで正しい方向へ導いていく、子どもの立場にたち、心理を理解する、親もまた未熟だったなと今も思う。 「急がず、休まず」 これこそが能力を開花させる真理なのだなあ。 鈴木鎮一とクリングラー先生そしてアインシュタイン博士 「世界中の人間は全部同じ人間ですからね、奥さん」byアインシュタイン博士 ジャンル別一覧
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