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比叡山千日回峰行・ある行者の半生

○酒井雄哉、本名・酒井忠雄は大正十五年に大阪に十人兄弟の長男として生まれた。父は米屋だったが、五歳の時、米相場に失敗、一家は東京に移り住んだ。子供の頃の酒井師は泣虫だった。小学校五年のとき、日中戦争が始り、父は召集され、酒井師も統計局に給仕としてアルバイトした。慶応の夜間中学に進み、昼は陸軍医学校の研究室で雑用をした。次第に勉強に身が入らなくなり、卒業を半年後にひかえ、「このままでは卒業できない」「入隊すれば卒業させてやろう」と先生からいわれ、昭和十九年、人吉の予科錬に入隊した。

〇人吉で半年訓練を受け、宮崎の航空隊に転属した後、鹿屋に移った。そこでは毎日が米軍機の爆撃の連続だった。敵機の姿が消えるとスコップを手に滑走路にとびだし、爆撃でできた穴を埋めた。ならした滑走路から飛びだった僚機のほとんどは帰ってこなかった。一緒に穴を埋めていた同僚も米軍機の機銃掃射で次々と倒れていった。「戦争は怖ろしかったし、・・・それ以上になんともやりきれなかった。世に無常ということがあるのなら、こういうことをいうのだろうか・・」と酒井師は声をつまらせた。終戦は鹿屋で迎え、貨物列車で東京に向かった。十九歳のときのことであった。

〇東京に戻り、大学図書室に勤めたが、二年と続かなかった。その後、蕎麦屋、闇屋、株屋とやったが、結局莫大な借金をかかえこんだ。
「もはや自分は立ち上がれないのでは、と思えるほど追い詰められたとき、もう一つの自分の顔を知り、弱さを悟る、その不安感は言葉では説明できません」
新婚一カ月余りの夫人が実家に家出し、自殺した。

〇放心状態の酒井師を伯母がむりやり比叡山に連れだした。なにか精神的な支えが必要だと考え、自分の信仰する比叡山無動寺谷の弁天様参りに誘ったのである。誘われるまま五、六年比叡山に通った頃、弁天堂の輪番を勤めていた小林隆彰師のもとに弟子入りして一ヶ月過ごした。
「いやあ、たいした根性の持ち主でした。念仏にしても、一日三千遍といわず、一日中やっておれと命ずると、本当に一日中念仏を唱えていました」

〇一ヶ月後、山を降り、昭和四十一年十二月小寺文穎師のもとで得度した。四十歳の小僧が誕生した。小寺師の家庭には、小さな子どもが五人いた。
「酒井君は本当に小僧になりきっていたんです。四十過ぎの大の男が食事の世話をし、皿を洗い、子どもを便所に連れていく。すべてを投げ出して小僧に徹していました。この男なら、山に残しても、一人前の僧侶になるだろうと確信したのです。」
「すべてを棄てきったところから本当のものを見つけるのは大変なことなんですよ」

〇昭和四十七年百日回峰行を終え、九十日の常行三昧も行った。この修行は九十日間、身体を横にすることなく、ただひたすら念仏を唱えながら堂内を歩き回る、眠るときも、柱の間に渡された木に寄りかかり立ったまま眠るという修行である。小林師は、真夜中ににない堂に足を運んだ。夜気を通し念仏の声と堂内を歩き廻る気配が伝わってくる。
「ひょっとするとこの男は一生行の世界に身をおき続けるかもしれない」と感じたという。

○百日回峰行を比叡山無動寺谷で行った酒井師は、千日回峰行を始めるにあたり、飯室谷の長寿院に移り住んだ。箱崎文応師の元で修行するためである。箱崎師は戦前に千日回峰行を成し遂げ、その後も一人修行の生活を続けていた。

○箱崎師は明治二十五年福島県いわき市小名浜の農家に生まれた。兄が日露戦争で戦死し、東京に働きに出た。ボイラーマンとして働いたが、関東大震災にあい、友人のいる小樽に仕事を求めた。よく働き、魚問屋での商売も順調だった。しかし、酒癖がよくなかった。酔って見知らぬ人と大喧嘩をして監獄に入れられた。
「このままでは自分は人間として終りだ」なんとか、酒を断つ道はないものか。師は一つの決心をした。坊さんになろう、坊さんになれば酒は飲めないだろう、どうせなるなら比叡山に登って一番厳しい修行をさせてもらおうと。
比叡山といっても、三塔十六谷にわたり四十を越える堂、八十を越す坊が点在している。出会う坊さんごとに弟子にしてくれるよう頼み込んだが、誰一人相手にしない。あからさまに嫌な態度を示す坊さんもいる。次第に暗くなり人影がなくなる比叡山中で絶望的な気持ちに襲われる。すっかり暗くなった杉木立の向こうに裸電球の光がこぼれている。根本中堂の事務所だった。そこにいた中山玄雄師が「無動寺だったら、ひょっとしたら受け入れてくれるかもしれない」師は無我夢中で半時間ほどかけて無我夢中で無動寺まで歩いた。しかし、相変わらず誰一人相手してくれない。玄関に出てくる小僧は今住職はいないからお引取り願いたいと繰り返すだけである。師はついに無理やり土間に腰をおろし、住職にお目にかかれるまで動かないつもりだった。一日、二日とたっても住職は現れなかった。三日目に入り、座り続けることも苦痛になったが、三日間食物を口にしていないため動く気力のなくなった。四日目にようやく住職が姿をあらわした。師は必死に事情を説明した。「よし、ここに置いてやる」という住職のことばだけ記憶している。

○師はそれから五年後、比叡山千日回峰行を始めた。四十五歳のときだった。そのとき、行中坐臥という言葉を肝に銘ずるよういわれた。一旦行者になったら、立っているとき、座っているとき、寝ているときでさえもすべてが行のうち、いついかなるときでも気を抜いてはならないというのである。七年後、無事、千日回峰を成し遂げ、その後も回峰修験の道に励んだ。

〇箱崎師は、千日回峰行を満行して、再び酒を飲み始めた。酒井師はその酒のため、何度となく迷惑な思いをした。老師は客に酒をすすめ、酒井師に夜中でも酒の肴を作るよう命じた。酒井師は、回峰行の寸陰を惜しむ中で
「なぜこんな無茶なことをいいつけるのだろう」と憤りを覚えることさえあった。

〇酒井師は堂入りする前、こう語った。
「私は一度死んだ人間です。それが比叡山に拾われ、仏の加護でここまでたどり着けたのです。感謝の気持ちでいっぱいです」
「私をこんな強い人間に育ててくださったのは老師です。一時期、本気で恨んだこともありましたが、それは思い違いでした。雑草のように強い人間に育てるためだった。私にはそれが分らなかった。この堂入りのために、老師がどれだけ心配してくれていたか、あの老師のためにもこの行を・・・」と絶句し、大粒の涙を流した。

○回峰行をなぜやるのか。なぜそれほどまで山を歩くのか。
 箱崎師はいう。
「俺には山を歩くことしかできないんだ。ただ無心になって山を歩くだけだ」
「そうだな・・行者というのは、自分の身体に心が教えられるものなんだ。ただ仏を念じ、山中にある一木一草を仏の化身として拝みながら山を歩く。そうすると分ってくる。自分と世の中の事が。それに自然の摂理と言うか、具体的には山というのか、それに感謝するんだ、山に降った一滴の水が、小さな谷となり、川となって潤してくれる、ごく当り前のことが、理屈ではなく身体で分るようになるんだ」

〇酒井師が始めて回峰行を行ったのは、昭和四十七年であった。その百日間のことを「なぜこんなに毎日毎日同じ道を歩かなければならないのだろう」
「この年になって回峰行ができるとは幸せなことだ」と相矛盾することを考えながら考えながら歩いていたように思うと語っている。
 百日回峰行を含む三年間の籠山修行を終えた酒井師は、昭和五十年、千日回峰行に入った。百一日目からの回峰である。箱崎師が決めた日は、四月七日、この日は箱崎師の誕生日であり、酒井師の夫人の命日でもある。
「祝い事と弔い事を一緒にやる。この日ほど酒井の出峰によい日はない」
こうして四月七日、午前一時半、酒井師は飯室谷長寿院を出峰、四十キロの行者道を歩き始めた。老師から
「後戻りは許されないぞ。気を抜くな。今歩いている道、それが行者の墓場だぞ」と言われている。

〇百一日目は無心に歩いたが、翌年三百日を歩き終えるまでは、無心とはほど遠かった。様々なことが頭に浮かぶ。いつも登り一筋の悲田谷にさしかかると顔が浮かんでくる。亡くなった夫人である。にこやかに、静かに微笑んでいる。また、顔が浮かぶ。予科練時代の友の顔である。機銃掃射を浴びて逃げ惑う姿、上官から叱られている姿、歩く行く手に次から次に浮かぶ。
「嫁さんが、あの戦友が、この世界に引っ張ってくれたのかなあ」

〇五百日を過ぎてからは、もう夫人や戦友の顔を思い浮かべることもなくなる。「もう過去のことは何も頭にありません。でも、西塔から横川にかけての峯道では、霧が一瞬に流れ、京の町並みが眼前に広がることもあります。はっとするような素晴らしい光景です。そんなときは、思わず掌を合わせます。 そこに生活を営む人々が、病気や怪我がなく、争いごともせず、今日一日幸せであるように願いながら手を合わせるのです。また、あの悲田院では、よく動物に出くわすんです。猿、猪、鹿、兎、蛇と。最初の頃は恐怖心を抱いていたものが、いつのまにか友達のように思えてくるんです。この動物たちが、今日一日、無事に食べ物にありつけますように、元気でまた会えますようにと、念ずるのです」

〇酒井師を撮りつづけてきた写真家・西川さん
「酒井さんが拝む姿をみていると、私自身も生かされているんだなあと感じます」
 長寿院で行者の世話をしに大阪から泊りがけで来ている寺西さん
「行者さんが回峰行を始められた頃は我が子のように思えていたのが、だんだん仏様になっていくみたいで・・・」

○酒井師は三十二歳で結婚。妻は大阪に住むいとこにあたる人だった。ところが、新婚一ヶ月で妻は家を出て大阪の実家に帰ってしまった。酒井師は後を追い、大阪にきた。もともと親戚の家でもあり、妻の実家の鉄工所に住み込むこととなった。しかし、大阪に来て一ヶ月経った頃、妻はガス自殺を遂げた。遺書もなかった。酒井師は、自らを責め、しばらく何も手がつかなかった。その様子を気遣った妻の母でもあるおばに連れられ、初めて比叡さんを訪れたのである。

〇酒井師が語る。
「おばさんの家で鉄工所を手伝っていた時に、よく家にお坊さんが来ていたの。無動寺の輪番をやっていて、坊さんの世界では駆け出しですね。(これが、後に最初の師となる小林隆彰師である)旋盤を回していると、風呂から出てきてこっちを見て、ああよくやっているなあって笑ってみておられた。その時に、お坊さんっていいなあっと思いました。人の家に来て風呂入ってね。あああんな世界があるんだなと」

〇酒井師は、おばに連れられ、比叡山に行くうちにその静寂な感じが好きになった。しまいに、一回比叡山に大阪から歩いて行ってやろうと思い立った。出発したのは、夜七時頃、小雨が降っていた。朝の七時まで歩き続けて京都にたどりついた。比叡山に行く道がわからず、通りがかりの人に道を聞きまわり、無動寺の弁天堂に着いたのがその日の夕方五時頃だった。弁天堂にはすでに顔なじみの小林輪番がいた。

〇弁天堂に着くと小林先生が出てきて、顔をじっと見て
「お前、来たんか」
「はい、来ました」。
で、ちょっと話をしていたら、
「なんだ、お前狂ってないじゃないか」と言うのです。
おばさんから電話があって、うちの子、ちょっとおかしくなったから、お寺に行ったらつかまえておいてくれ、迎えに行くと連絡があったそうなんです。
「でも、ちっともおかしくない。まあええ、ちょっとここにいなさい」と、そういうご縁で、弁天堂に置いてもらうことになった。それで、次の日からひどい目にあわせたらすぐ帰るだろうと、行をするように言われた。朝起きたら滝に入って体を清め、弁天堂に入り、百八遍の礼拝を一日三回する。それで一週間か十日、約束したとおりやりこなしたんです。
すると、小林先生が、「お前もそろそろ帰る頃だな」と。それで帰ろうとしたら「ちょっと待て。弁天様に礼拝行させてもらったお礼をしていきなさい」と般若心経の写経を言いつけられた。二十一枚書くのだが、慣れておらず、一枚書くのに二時間かかった。なんとか早く終わらせる方法はないかと、半紙を何枚も重ねていっぺんに書くことを思いついた。ところが、抜け落ちた字が何箇所も同じところにあり、ばれてこっぴどく叱られ、平謝りして全部書き直し、次の日に提出した。

〇いよいよ帰る段になって、今度来る時までに答えを出してきなさいと、一枚の紙を渡された。
見ると、紙の真中に「日」という字が書いてあり、周りに東、南、西、北の方位が書いてある。
「ヒントをあげよう、聖徳太子さんが日出る国のなんとかだと言ったのは知ってるだろう。それがヒントだ」と。

(この「日東南西北」には裏話があります。小林先生が小僧の時に北陸に行脚して、夜どこかに泊めてもらおうとしたが、まだ戦後すぐの時代で泊めてもらえない。雪は降ってくるし、困ってしまって、明かりがついている家をみつけて「旅の修行をしている者ですが、雪が深くて先に進めません、どうか一晩泊めてください」と頼んだ。そこの家のご主人が出てきて、じっと顔を見てから、泊めてやりたいけどこういう時世だから確かな人間でないでだめだと言うので、そこを曲げてとお願いしたら、「日東南西北」と書いた紙を出された。この問いに答えられたら泊めてやろうという。とっさに「何のために自分は托鉢しているのか」という話をしたら泊めてくれて、次の日お金までくれたそうです。)

○「日東南西北」の宿題が解けないまま、酒井師は比叡山通いを続けた。昭和三十九年三月に、無動寺弁天堂の輪番が、小林師から小寺師に代わる。
〇ある日、小寺師から得度したらどうかと尋ねられ、昭和四十年十二月雪の降る明け方得度式が行われた。
「その日、得度式を終えてお堂から出ると、庭に一面真っ白に雪が積もっていてね、足跡一つない、そこを踏みしめて、政所までずっと帰っていったのね。それまでの汚れた人生を新しく真っ白に塗り替えてくれたんじゃないかと思うんだ」

〇小寺師の住む「霊山院」で小僧として修行する日々が始った。酒井師数えで四十一歳。師より年は上だった。小寺師は、学者で「学校に行けよ」といわれた。「あなたは年をとってからお坊さんになったし、このままでは延暦寺には残れない。地方の寺に紹介されて行くにしても、一人今のままでは孤立して誰も助けてくれない。だけど学校に行けば友達もできる。横のつながりができれば、その人達が応援してくれるし、力にもなってくれるから学校に行きなさい」と言われて、それもそうだなと思い「じゃ、行きます」と決めたんです。

〇叡山学院は、天台僧になろうとする者にとっての大学にあたる。酒井師は、旧制中学を出ており、一年間聴講生として学べば本科生として受け入れてもらうことから、高校出たての若者に交じり叡山学院に通い始めた。一週間ほどたって、小寺師から聴講生でも毎日授業を受け、試験で平均八十点以上とれば二年生に進めると教えられた。しかし、授業がさっぱり分らない。学校に行っているほかは、見習の小僧として、掃除、食事の支度、小寺師の身の周りの用事をするという忙しい毎日で夜、食事が終わり、小寺師がじゃ寝るかというのですぐに寝てしまう。

〇「ある時、書斎の近くを通ると、先生が一人勉強している。次の日も同じように勉強している。先生が勉強しているのに小僧が寝ているわけにいかないから、なにか手伝いしようと書斎まで行くと、先生が暇なら気を利かせてお茶でも出したらどうかと言う。お茶をもっていくと、自分はこういう勉強をしているんだと話をしてくれるが、それがちんぷんかんぷんで分らない。はあ、はあと聞いていました。毎日そうしているうちに、はいはいと話を聞いてくれるのはいいが、なんで先生そこはそうなんですかと聞かないのだと言われた。仕方がないので、先生の話は分かりませんと言うとどうして分らないといわないんだと怒られた。そこで、次の日から学校で聞いたここが分らないと聞いた。先生は、本棚の辞書を見てから聞きなさいといわれる。ところが、辞書の引き方もわからず、それも全部教わった。」
こうして、やっていくうちに夏になり、学校の試験があった。なんと平均点八十点とってしまった。
「小学校から勉強ができなかったという話と違う。勉強の仕方を間違えていたんだろう。叡山学院は勉強というより研究に近いから、最初から研究するようにやっていればいいんだ」それから勢いに乗ってやっているうちに座主賞をもらえるほどの成績をとるようになった。

○昭和四十五年に叡山学院の本科を修了した酒井師は、研究科に進んだ。叡山学院の本科あるいは研究科を卒業した者は「三年籠山」という修行を経た後に住職につくことになっている。それには、比叡山の要職の僧に認められるほか、年齢制限があり、三十五歳以下の男子でなければならない、となっていた。酒井師はすでに四十六歳。このままでは住職にはなれない。

〇当時の延暦寺の執行であった叡南祖賢師が、毎朝赤ん坊を背負って掃除したり、買い物など小僧の修行を続けている酒井師を見たり、話に聞いたりして
「変わった奴がおるな、昭和の時代にあんなことができる昔風の小坊主はあれでおしまいだろう。貴重品だからなんとか延暦寺に残す方法はないか」
叡南師の秘書をしていたのが、小林師で
「執行が認めれば解決するんと違いますか」と言ってくれて「十五歳以下の男子のみ」の規定に「ただし延暦寺執行が認めればこの限りにあらず」という改正を会議に提案して満場一致で改正がきまった。

〇研究科も一年で繰り上げ卒業した。昭和四十六年四月に三年籠山に入った。三年間比叡山に籠り「侍真助番」(伝教大師にお仕えし御給仕をする)「百日回峰」「四種三昧」の三つの行を行う。侍真助番を行う間に卒業論文を書き、それで天台座主賞をいただいた。
「人間の流れというのは不思議なもので、今まで歯車の違いでどん底にいたのが、小林先生に礼拝行をやれと言われたのがきっかけで、歯車がかちんとかかってすっといい方向に流れ出したわけです」
「やっぱり環境なんですよ。何も知らない人間が学者のところに飛び込んでいった。どんじりでも勉強ができなくても、そんな環境の中で育てば必ずものになるんです」

〇昭和四十八年、四種三昧に入った。比叡山には四種類の三昧行が伝わるが、今では「常座三昧」と「常行三昧」のどちらかを行う。常座三昧は、食事、用便、仮眠以外は九十日間坐禅に明け暮れる。常行三昧は、念仏を唱えながら、立ち続け、歩き続ける行である。常行三昧は、明治に試みた者があったが絶えていた。酒井師は、あえて常行三昧にいどんだ。

〇「常行三昧をやらせてもらって、お堂の中をぐるぐる回っていた時、鴨居のところに鈴虫が羽根をすりあわせて鳴いていた。数珠を擦っているみたいだなと思いながら、念仏を唱え、回っていたら、音が絶え、床に落ち、死んでいた。もしかするとこの虫は、昔は比叡山の行者だったかもしれない。だけど、病気かなにかでお堂を逃げ出し、途中で行をまっとうすることができなくなったのと違うかな、今度生まれる時は、人間に生まれて、もういっぺんお堂で修行させてもらいたいと羽根を擦りながら死んでいったんだろうかなどといろいろ想像しました。」

〇酒井師は、常行三昧を満行し、三年籠山をつとめあげ、昭和四十九年無動寺谷の宝珠院住職になった。「まる一日かけて、比叡山まで歩いて行って、最初に小林隆彰師に行をさせてもらった時、般若心経を二十一枚写経せよと言われたのに半紙を重ねまとめ書きして怒られ、仏さんの目はごまかせない。恐ろしいもんだなと初めて知りました。その後小林先生に出された宿題の紙を肌身話さず持ち歩いて、十数年後住職になったその日に先生に答えをいうことができました。」

○一言でいうと、「日東南西北」の意味は、お前はあの時比叡山にいったい何しに来たのか、ということなんです。ちょっとなぞかけというか、語呂合わせのようになっています。小林先生は宿題の紙を渡すとき、「聖徳太子の日出る国の話は知っているな」とヒントをくれました。「日東」は日出る東の国で、日本のことです。続く「南・西・北」は「な・にしに・きた」と読める。つまり中国からやって来た使節に対して聖徳太子は「日が昇る東の国である日本になにしに来たのか」と問うたんだということ。これが「日東南西北」の意味です。

〇ああそうだ、大阪からなにしに、何のためにお前は比叡山にやって来たのか。小林先生はそのことを言いたいんじゃなかったかと思い当たったわけです。実は住職になることが決まっていて、なったはいいけれどどうやって生きていこうかとじっと考えていた時にこの「日東南西北」の答えが頭に浮かんできました。

〇住職になると、それまで酒井とか呼ばれていたのが「宝珠院さん」などと院号で呼んでくれるようになります。それだけ自分に責任をもって何かをやらなければならない。もともと自分は学問に向いていたわけではなく、ただ一歩ずつ歩いてきて住職になっただけで何の取りえもないということに気がつきました。では何のために住職になるのか。なぜに仏様は自分を住職にしてくれたのか。その時に「日東南西北」を見ていたら、お前はなにしに来たのかと読める。そうか、そうだったのか。では自分は身体が丈夫だから行で何かを見つけようと思ったわけです。これは学問をして出てきた答えではありません。ただコツコツと一歩ずつ進んできた経験から出た答えです。おそらく本ばかり読んでいたら、もっと違う答えが出たんじゃないかと思います。

〇なぜ生まれてきたのか。何をすべきか。結局、何でもすべてこのことから始まります。

〇住職の任命式が終わった日、昭和四十九年四月一日、延暦寺の教化部長の地位についていた小林先生にお会いしたので、ああそうだ、まだあの答えは出していなかった。ちょうどいい機会だと思って、しわくちゃになった紙を出して、昔先生にもらった宿題です、先生は覚えていないかもしれないけど、と言って、私なりの答えを提示して「今度来るときはもっと真剣に、ちゃんと目的を持って来いというのがお答えと違いますか。」そう言ったんです。
 そうしたらね、にこにこっと笑って、それでおしまいでした。ああ、ようやく分ったなあと思ったのか、今ごろ分ったのかと思ったのか、どちらかだったんでしょう。結局、なんでもこの何しに来たか、何をすべきかから、いつも始るんですね。


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