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 山岡鉄舟の臨終の見事さ

  山岡鉄舟の臨終の見事さ
○「山岡鉄舟の武士道」の中で勝海舟がこう言っている。
「山岡死亡の際は、おれもちょっと見に行った。明治二十一年七月十九日のこととて、非常に暑かった。
 おれが山岡の玄関まで行くと、息子、今の直記が見えたから「おやじはどうか」というと、直記が「いま死ぬるというております」と答えるから、おれがすぐ入ると、大勢人も集まっている。その真ん中に鉄舟が例の坐禅をなして、真っ白の着物に袈裟をかけて、神色自若と坐している。
 おれは座敷に立ちながら、「どうです。先生、ご臨終ですか」と問うや、鉄舟少しく目を開いて、にっこりとして、
「さてさて、先生よくお出でくださった。ただいまが涅槃の境に進むところでござる」と、なんの苦もなく答えた。
 それでおれも言葉を返して、「よろしくご成仏あられよ」とて、その場を去った。
 少しく所用あってのち帰宅すると、家内の話に「山岡さんが死になさったとのご報知でござる」と言うので、「はあ、そうか」と別に驚くこともないから聞き流しておいた。
 その後、聞くところによると、おれが山岡に別れを告げて出ると死んだのだそうだ。そして鉄舟は死ぬ日よりはるか前に自分の死期を予期して、間違わなかったそうだ。
 なお、また臨終には、白扇を手にして、南無阿弥陀仏を称えつつ、妻子、親類、満場に笑顔を見せて、妙然として現世の最後を遂げられたそうだ。絶命してなお、正座をなし、びくとも動かなかったそうだ。

○勝海舟は言う。
「鉄舟の武士道は、仏教すなわち禅理から得たのである。山岡も、滴水、洪川、独園などの諸師について禅理を研究し、かえって諸師以上の禅理を悟り得たものである。」

○南天棒は「山岡の死」と題し、山岡鉄舟の臨終の様をこう描いている。『五十三であった。死にざまもさすが平生の修行じゃ。誠に立派であった。死する前に入浴して、白衣を着、袈裟を掛けて仏弟子たるを証した。端坐して、右左を顧みて一笑してそのまま死んだ。いわゆる坐脱じゃ。
 とにかく山岡のは、立派であった。彼は常に言うた。命を捨てたほどさっぱりしたことはない。維新のころ、幕府と朝廷の間に立ち、西郷に談判に行った時ほどきれいなことはなかった。からだの底から水で洗ったような気持ちがした。
 もとより、身命を抛捨してかかった。「身を捨てて浮かぶ瀬ぞあり」を実験したと言いよった。しかし、今少し活かしておきたかった。嗚呼今やなし』と嘆いた。

○鉄舟の弟子の小倉鉄樹は
「給仕でおれなどが師匠の傍に居ても、ぽっと頭が空虚になってしまって、ただ颯爽たる英気に溢れるばかりであった」と語っている。

○また、勝海舟は鉄舟についてこんなことを語っている。
「山岡は維新の騒動も片づけてから、駿府に隠退しておったのを、朝廷に人物の必要があるとて召されて宮内省に出仕し、皇室に対し相変わらず忠勤を励んだ。
 その頃、歌を作ったとておれに読んで聞かせたよ。
 晴れてよし曇りてもよし富士の山
      もとの姿は変わらざりけり
 見よ、天地の道を一呑みにして、至誠の侵すことのできないことを言い表しているよ。」

○山岡鉄舟は明治二十一年七月十九日、数え年五十三歳で大往生した。十九日のあけがた、烏の啼くのが聞こえた。
そこで「腹張りて 苦しき中に 明烏」と辞世の句を吟じた。
 午後七時半、浴室に行き、身を清めて、白衣に着替えた。九時、一度病床に正座した後、皇居の方に向かって結跏趺座した。九時十五分周囲のすすり泣きの中、瞑目して往生した。

山岡鉄舟の最後

○東郷平八郎が喉頭癌となり、痛みが耐え難い。
食べるのも、息するすら痛む。
中村天風先生に相談すると「その病は痛いのが特徴です。
ですから痛いと言っても、言わなくても、生きているかぎりは痛みます」
 すると元帥は破顔一笑されて、
「痛むのがこの病の特徴でごわすか」
と言われ、なんとその後、亡くなられるまで、一言も痛いと言われなかった。
 医者が「お痛みですか」と診察したときも、
「痛むのがこの病の特徴でごわす。しかし元気でごわす。」と笑顔で答えた。
という話を聞いて、山岡鉄舟先生の最後を思い出した。
 鉄舟先生は晩年「胃癌」で亡くなられた。
 若い頃から大変な酒豪で水戸の酒豪と飲み比べをやり、相手が5升でダウンしてからさらに2升呑んでゆうゆうと帰ったなど痛飲大食の人であった。
 それがせいか34,5歳の頃から胃の苦痛を訴えることが多かった。
51歳になった明治19年頃から、次第に重くなり、翌20年8月には右脇腹に大きなしこりが現れた。
食べ物も次第にのどを通らなくなり、明治21年2月には流動食しかとおさなくなった。
 明治天皇は、何度も侍医や見舞いの品をおさし遣わしになった。
あるときは、鉄舟は酒が好きだ、このワインなら少しくらいよかろうと、自ら試飲された後、御下賜になったこともあった。
鉄舟先生は感泣して、こう詠じたという。
  数ならぬ 身のいたつきを 大君の
   みことうれしく かしこみにけり 
見舞いの客が来れば、表座敷で会い、帰るときはいつも玄関まで見送った。
いつも温容で毎日写経を続けた。
「先生!今日はいかがですか。少々お顔色がさえませんが?」と見舞客に訊かれれば「ハイそうです」と答え、
「先生!今日は大変よろしいようで」と言われても
「ハイそうです」と答えて、外からは全くその病状のほどが分からなかった。
当時のことだから痛みを止める治療法がなかった。
ところが山岡先生は、四六時中ニコニコと笑顔でおられた。
医者が、「先生はおかしいねえ。苦しいはずなのにどうしていつもニコニコしていられるんですか?」
と訊いたら、鉄舟先生は
「胃癌、胃癌と言うけれど、これは胃癌ではなくニコリじゃもの」と平然としておられた。
そして
「お医者さん、胃がん胃がんと申せども
  いかん中にも、よいとこもあり」
という歌まで作って見舞客に示したという。

○奥様があるとき、鉄舟先生に
「万一の場合、何かお話し置きのことでもございましたら」と尋ねたら、「ない」というだけだった。
 夫人は、せめて、教訓でも残していただきたいと言うと
 金(こがね)を積み
 もって子孫に残す
 子孫未だ必ずしも守らず
 書を積みもって子孫に残す
 子孫未だ必ずしも読まず
 しかず陰徳を冥々のうちに積み
 もって子孫長久の計となさんには
 これ先哲の格言にして
 すなわち後人の亀鑑なり

と、司馬温公の家訓を墨で黒々と書いて奥様に渡したという。


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