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雨ニモマケズのデクノボー原型と賢治の誓願

常不軽菩薩(雨ニモマケズの原型)


宮沢賢治の「雨にも負けず」手帳の121頁から124頁にかけて「不軽菩薩」の詩が書いてある。

121頁
「あるいは瓦石さてはまた
 刀杖もって追れども
 見よその四衆
       に具われる
 仏性なべて
      拝をなす」

122頁
 「不軽菩薩」

123頁
      の
 「菩薩の四 衆を礼すれば
  衆はいかりて罵るや
  この無智の比丘いづち
            より
  来たりてわれを礼するや」

124頁
 「我にもあらず
        衆をならず
  法界にこそ立ちまして
  ただ法界ぞ法界を
  礼すと拝をなし給ふ」

 このメモが次の詩となる。

 不軽菩薩

「あらめの衣身にまとひ
 城より城をへめぐりつ
 上慢四衆の人ごとに菩薩は禮をなしたまふ
 (我は不軽ぞかれは慢
 こは無明なりしかもあれ
 いましも展く法性と菩薩は禮をなし給ふ)
 われ汝らを尊敬す
 敢えて軽賤なさざるは
 汝等作佛せん故と
 菩薩は禮をなし給ふ
(ここにわれなくかれもなし
 ただ一乗の法界ぞ法界をこそ拝すれと
 菩薩は禮をなし給ふ)」
 (宮沢賢治)

常不軽菩薩とは法華経第20「常不軽菩薩品」に出てくる菩薩のことである。
賢治がこの菩薩にいかに関心をよせていたかわかる。この菩薩こそ「雨にも負けず」のデクノボーの原型である。

 常不軽菩薩は、僧も世俗の人もみんなことごとく礼拝して
「私は深くあなた達を敬い、あえて軽んじるようなことはしません。なぜかというと、あなた達はみんな菩薩の道を行って、まさにみ仏になることができるからです。」と言った。
 すると人々はその言葉に怒り出して、
「この無智の坊主め、どこから来たって
『私はあなた達を軽んじません。』われらがためにまさにみ仏になるでしょうと嘘そらごとを言うのだ。
 お前みたいな坊主がそんなに言ったからといってどうしてありがたかろう」
と罵られ、杖で追い払い、瓦や石をもって殴りかかってきた。
 菩薩はその場をにげては、遠くから大声で
「私は深くあなた達を敬い、あえて軽んじません。あなた達はみんな仏になるでしょう」と叫んだというのである。


「雨にも負けず」の詩は、この手帳の51頁から60頁にかかれている。
そして71頁から74頁にかけて「土偶坊(でくのぼう)」という戯曲の構想が記されている。

71頁
「土偶坊
 ワレワレモカウイフモノニナリタイ

 第1景
     祖父母父ナシ

 第2景 母     
      病む

 第3景 青年ヲ ワラフ
      土偶ノ坊 石を
      投げられてにげる

 第4景 老人死せんとす

 第5景 ひでり

 第6景 わらしゃどはらへたがー

 第7景 雑誌記者 写真

 第8景 恋する女

 第9景 青年を害せんとす

 第10景 帰依者 帰依の女

 第11景 春」

これは、「雨にも負けず」の詩を劇化しようとしたおである。賢治はまもなく亡くなり、ついにこの劇はできなかった。

賢治は、雨にも負けずの最後においてこう誓願する。
「ミンナニ
    デクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
   サウイフ
       モノニ
   ワタシハ
       ナリタイ」

☆常不軽菩薩
法華経に「常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)」というのがある。
一人の僧侶がいて、この人は会う人ごとに礼拝し讃嘆して
「私は深くあなたたちを敬って、軽んじたりしません。なんとなれば、あなたちはみんな菩薩の修行を行って、ついにはみほとけとなられるからです。」と言った。そのためこの僧侶は「常不軽菩薩」と言われた。
会う人の中には、怒って「この無智の坊主め、どこから来て、吾は汝を軽しめずと言って、まさに仏になるなどと言うのだ。」と罵り、はては杖でたたき、石を投げて追い払った。それでも常不軽菩薩は避けて走って遠くからなお「我あえてなんだちを軽しめず、なんだち皆まさに作佛すべし」と唱えたという。
この「常不軽菩薩品」は宮沢賢治にも大きな影響を与えた。
「雨にも負けず」の詩は、この常不軽菩薩のことを歌ったとする解釈がある。
「雨ニモマケズ」は賢治の死後、残された大きな黒い革張りの隠しポケットから発見された黒表紙の手帳(「雨ニモマケズ手帳」という)に載っていた。
その51ページから60ページにのっている。そして71ページには、
土偶坊(ワレワレカウイウモノニナリタイ)という10幕からなる戯曲の構想が記されている。
第3景にはこうある。「青年ら わらう 土偶の坊 石を 投げられてにげる」と。

  不軽菩薩 by宮沢賢治

  あらめの衣身にまとひ
  城より城をへめぐりつ
  上慢四衆の人ごとに
  菩薩は礼をなしたまふ

 (われは不軽ぞかれは慢
  こは無明なりしかもあれ
  いましも展(ひら)く法性と
  菩薩は礼をなし給ふ)

  われ汝等を尊敬す
  敢(あえ)て軽賤(けいせん)なさざるは
  汝等作仏せん故と
  菩薩は礼をなしたまふ

 (こゝにわれなくかれもなし
  たゞ一乗の法界ぞ
  法界をこそ拝すれと
  菩薩は礼をなし給ふ)

(賢治の誓願)

昭和8年(1933年)1月1日付け(この年の9月21日亡くなる)で宮澤賢治は、浅沼政規則、河本義行、菊池信一、高知尾智耀、母木光、高橋忠治、藤島準八、伊藤与蔵の8人に新年の挨拶を送っている。(「宮澤賢治全集」第15巻書簡集)
特に高知尾智耀の名前が注目される。
賢治が父との確執を経て、家出同然に東京に出て、国柱会の田中智学に面会にあがったとき、応接したのが高知尾智耀であった。
賢治が親に随い家業の質屋を継ぐべきか、あるいは法華行者として信仰に生きるべきか智耀に相談しとき、智耀の回答に自らの生きるべき道を見出した。賢治はそれを自らの手帳に記録した。その手帳は賢治の死後発見され、「雨ニモマケズ」の詩が書かれてあったことから、「雨ニモマケズ」手帳と名づけられた。
 その135ページにこう書いてある。

「◎高知尾師ノ奨メニヨリ
1. 法華文学ノ創作
     名ヲアラハサズ、
     報ヲウケズ、
     貢高ノ心ヲ離レ
2.           」

また、139ページ、140ページには、紫色のエンピツでこう書いてある。(カタカナをひらがな表記にした)

「筆をとるやまず道場観
 奉請を行ひ所縁
 仏意に契(かな)ふを念じ
 然る後に全力之
 に従ふべし

 断じて
 教化の考えたるべからず!
 たゞ純真に
 法楽すべし
 たのむ所おのれが小才に
 非(あらざ)れ。たゞ諸仏菩薩
 の冥助によれ。」

 実に宮澤賢治は、高知尾智耀の勧めで、法華文学の創作となされ、しかもそれは教化を目的としてではなく、ただ純真な法楽としてなされたのだ。
そして賢治は国柱会を離れてからも、終生高知尾師を徳とした。
 高知尾智耀あての最後の年賀状にはこう書いてあった。
「謹賀新正
  昭和8年1月1日
    岩手県花巻町
     宮沢賢治拝
 客年中は色々と御心配を賜はり有難く存じ奉り候
 お蔭さまにてこの度も病漸くに快癒に近く
 いずれは心身を整えて改めて御挨拶申し上げ候」

8月30日には、満州派遣歩兵第31連隊第5中隊の伊藤与蔵あての手紙を出している。その中にこんな記述がある。
「当地方稲作は最早全く安全圏内に入りました。
 初め5月6月には雨量不足を憂い、6月も25日になってやっと植え付けの始まった地区さえあり、また7月の半ばには、湿潤のため各所に稲熱病発生の徴候も見えたりしたのでしたが、結局は全期間を通じての数年にない高温によって成育は非常に順調に進み、出穂も数日早く穂も例年より著しく大きく、今の処県下全般としては作況稍(やや)良と称せられておりますが、西の方の湿田地帯などは仲々3割の増収でも利かないように思われます。
 私もお蔭で昨秋からは余程よく、もっとも只今でも時々喀血もあり、殊に咳が始まれば全身のたうつやうになって2時間半くらい続いたりしますが、その他の時は、弱く意気地ないながらも、どうやらあたり前らしく書きものをしたり・・・しています。
それでも何でも生きている間に昔の立願を一応段落つけやうと毎日やっきになっている所で我ながら浅間しい姿です。・・・」

 「昔の立願」とは、おそらくは盛岡中学のときに友人たちと岩手山に登った時の誓願であろうか。賢治は生涯を願に生きた人であった。

 賢治は盛岡中学時代の親友、保坂嘉一にだけその心中を吐露した。
保坂は、盛岡中学を思想問題で退学処分となった。
賢治は法華経信者となり、保坂に「一緒に参らして下さい」と口説くのだが、保坂は次第に賢治から離れていく。そんな状況で書いた日付不詳の賢治の手紙にこうある。

「あなたはむかし、私が持っていた、人に対してのかなしい、やるせない心を知っておられ、またじっと見つめておられました。
今また、私の高い声に覚び出され、力ない身にはとてもと思われるような、4つの願をも起こした事をあなた一人のみ知っておられます。
 まことにむかし・・・夏に岩手山に行く途中誓われた心が今荒び給ふならば私は一人の友もなく、自らと人とにかよわな戦を続けなければなりません。」

4つの願といえば、菩薩の四誓願を思い出す。
「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへん せいがんど)
 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじん  せいがんだん)
 法門無量誓願学(ほうもんむりょう せいがんがく)
 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょう せいがんじょう)

大正9年12月2日には、保坂あて
「今度私は
  国柱会信行部に入会しました。即ち最早私の身命は
  日蓮聖人の御物です。従って今や私は
  田中智学先生の御命令の中にだけあるのです。
 謹んでこの事を御知らせ致し 恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります」
と保坂を熱狂的に日蓮宗に折伏しようとする。

保坂は入隊していた。賢治の手紙に違和感を覚え、そうした返信を書いた。
大正10年1月に、賢治はさらに
「あなたの為すべき様は
  まづは心は兎にもあれ
  甲斐の国(保坂は山梨出身)駒井村のある路に立ち
  数人或は数十人の群の中に正しく掌を合せ
  十度高声に
 南無妙法蓮華経
  と唱える事です・・・
 とにかく保坂さん どうか早く
  大聖人御門下になって下さい。」と催促する。

賢治は、その頃、実家の質屋の店番をしていたが、保坂に勧めたとおり、自らも花巻町の中を題目を叫んで歩いた。大勢の知り合いも顔をそむけ、行き過ぎては立ち止まってふりかえってそんな賢治を気でもふれたかと見ていた。実家は浄土真宗を奉ずる名家であった。息子の気がふれたような行動に父は激怒した。そして賢治は切羽詰まって東京へ家出を敢行するのである。
そして上野に着いて国柱会へ行った。
「私は、昨年御入会を許されました岩手県の宮沢と申すものでございますが、今度家の帰正を願うために、にわかにこちらにまいりました。どうか下足番でもビラ貼りでも何でもいたしますからこちらでお使いくださいますまいか。」
知らない先生が出てきて賢治に言った。
「そうですか。
 こちらの御親類でもたどっておいでになったのですか。
 ひとまずそちらに落ち着いてください。
 会員であることはわかりましたが、何分突然の事ですし、こちらでも今は別段人を募集もいたしません。よくある事です。
全体父母というものは、なかなか改宗できないものです。ついには感情の衝突で家を出るという事も多いのです。
まずどこかへ落ち着いてからあなたの信仰や事情やよくうけたまわった上でご相談いたしましょう。」
賢治は、そのおさとしにお礼を言って
「又お目にかかります。失礼ですがあなたはどなたでいらっしゃいますか。」と尋ねた。
「高知尾智耀です。」
「たびたびお目にかかっております。それでは失礼いたします。」
と国柱会を退出した。その後、小さな出版社に入って、仕事をする。
「さあ、ここで種を蒔きますぞ。」と親戚の関徳弥に書き送っている。

そして1月30日付けでの保坂あての手紙に、
「かって盛岡で我々の誓った願
  我等と衆生と無上道を成ぜん これをどこまでも進みましょう」
とそのかって立てた誓願を述べている。
「形だけでいいですから
 大聖人御門下という事になってください」と調子もだいぶ落ち着いてきている。

 見習い士官となっていた保坂に賢治は面会を求めた。
 7月3日付けの賢治の手紙に言う。
「お葉書拝見しました。
 私もお目にかかりたいのですがお訪ね出来ますか。・・・
 どうです、またご都合のいいとき日比谷あたりか、植物園ででも、又は博物館ででもお待ちしましょうか。」

 そしておそらくは日比谷図書館で保坂に賢治が日蓮宗への帰正を求め続ける態度に絶縁を告げたのである。
そのときの衝撃が「われはダルケを名乗れるものと」という詩となった。
   

   われはダルケを名乗れるものと

   つめたく最后のわかれを交はし

   閲覧室の三階より、

   白き砂をはるかにたどるこゝちにて

   その地下室に下り来り

   かたみに湯と水とを呑めり

   そのとき瓦斯のマントルはやぶれ

   焔は葱の華なせば

   網膜半ば奪はれて

   その洞黒く錯乱せりし

   

   かくてぞわれはその文に

   ダルケと名乗る哲人と

   永久(とは)のわかれをなせるなり

 この唯一の親友との別れは、賢治に衝撃的なダメージを与えた。
7月13日付けの関徳弥あての手紙に書く。
「私の立場はもっと悲しいのです。あなたぎりにして黙っておいてください。信仰は一向動揺しませんからご安心ください。そんなら何の動揺かしばらく聞かずに置いてください。・・・
私には私の望みや願いがどんなものやらわからない。・・・
今日の手紙は調子が変でしょう。こういう調子ですよ。近頃の私は。」

8月11日付けの関徳弥あての手紙には書く。
「7月の始め頃から25日頃にかけてちょっと肉食をしたのです。
 それは第一は私の感情があまり冬のような具合になってしまって燃えるような生理的の衝動なんか感じないように思われたので、こんな事では一人の心をも理解しかねると思って断然幾片かの豚の脂、塩鱈の干物などを食べたためにそれをきっかけとして脚が悪くなったのでした。」
ここで「一人の心をも理解しかねる」というのは、おそらくは保坂のことである。

10月13日に賢治は保坂嘉内あて手紙を書いている。
「拝啓
 御葉書有難く拝誦つかまつり候。
 帰郷の儀も未だ御挨拶申上げず御無沙汰重々の処御海容願い上げ候。
お陰をもって妹の病気も大分によろしく今冬さへ無事経過致し候はばと折角念じ居り候・・・」とよそ行きの挨拶状を出す。
 それまでの保坂への熱情あふれる文章は姿を消す。
そして妹の病気を理由に花巻に帰り、農学校の先生となるのである。

12月保坂宛の手紙にはこうある。
「・・・
 毎日学校に出ております。
 何からかにからすっかり下等になりました。それは毎日のNaClの摂取量でもわかります。近ごろしきりに活動写真などを見たくなったのでもわかります。また頭の中の景色を見てもわかります。
 それがけれども人間なのなら私はその下等な人間になりまする。
 しきりに書いております。書いておりまする。・・・
 授業がまづいので生徒にいやがられておりまする。・・・」

けれども、この親友保坂との別れによって、教師宮沢賢治が誕生し、そして不朽の文学を創作し続けるのである。すべては宮沢賢治にとって、必要な必然の出来事だったのかもしれない。
 
 
(賢治の最期)

 1933年9月19日、花巻は鳥谷ヶ崎神社の祭礼中であった。
 豊沢町の大通りに面した賢治の家の前もみこしや山車(だし)が通った。
 賢治は二階に病で伏せていたが、無理を言って下へ降ろしてもらい
 みこしの行列を眺めた。家族はもう中へ入ったほうがいいといっても、賢治はまだまだといって夜8時過ぎまで下にいた。
 翌日20日賢治の容態が急変し、呼吸が困難になった。花巻病院から医者が駆けつけた。医者の治療で呼吸が楽になった、賢治は机に向かい、短歌を二首、半紙に清書した。

 方十里稗貫(ひえぬき)のみかも
 稲熟れてみ祭三日
     そらはれわたる

 病(いたつき)のゆゑにもくちん
     いのちなり
 みのりに棄てば
     うれしからまし


翌日21日11時半、賢治は「南無妙法蓮華経」と叫び続けながら、血を吐いた。そして、その血をあえぎながら一人で始末した。
父の政次郎は「何か言っておくことはないか」と賢治に尋ねた。
「お願いがあります。国訳妙法蓮華経を千部作ってください。そしてそれに、自分の一生の仕事はこの経をあなたに届けるためにあったのですと書いて人々に渡してきださい。」と賢治は頼んだのだ。
それから、少し小康状態となり、二階には母のイチだけ残った。
「お母さん、すまないけど水こ」
イチが水をやると、おいしそうにそれを飲み、それからオキシフルをしみこませた布で手や首や体中を拭き始めた。
イチはそんな息子をしばらくそっとしてあげようと、部屋を出かけた。
賢治の息があまりにしずかなので振り向いた。
「賢さん、賢治さん」と叫んだ。
賢治が手に持っていたオキシフルを含ませた布がポトリと畳に落ちた。
それが最期だった。1933年9月21日午後1時30分。


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