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雨ニモマケズ手帳

平塚市美術館で「絵で読む宮沢賢治展」が開催されている。
2007年11月4日(日)までの開催で、現在あの「雨ニモマケズ」手帳が出品されている。
この原本はめったに人目に出ることがなく、通常は精巧なレプリカが展示される。
おそらくはこの巡回をはずすと二度と見る機会はないかもしれない。

というわけで、息子を誘ったが、気がすすまず、家内と二人で出かけてきた。
10月に1回観覧にきていることから、最初の展示から観ている家内をおいて、
一人手帳を見る列に並んでじっくりと見た。
二度も並んで見た。

展示されているページは51ページ、52ページの「雨ニモマケズ」の冒頭部分である。

51ページの右上に青鉛筆で「11.3」としっかり大きな字で書いてある。

この見開きのページには訂正の跡が無い。

雨ニモの「モ」と風ニモの「モ」が小さいところを見ると、後で入れたようである。

最初は「雨ニマケズ 風ニマケズ」と書いたが、口調を整えるために「モ」を付け加えたようである。
黒エンピツの縦書きであるがここでは横書きで表記してみよう。

(51ページ)

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニ
モ マケヌ
  丈夫ナカラダヲ
       モチ


(53ページ)

慾ハナク

決シテ 瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテ
         ヰル
一日ニ玄米四合ト

 味噌ト少シノ

     野菜ヲタベ


ああ、賢治の直筆に賢治の心をおもんぱかる。
病気にふせりながら
「丈夫な体をもって」人々に尽くすことを願った賢治。
「欲はなく
 決していからず」と願った。怒らずではなく「瞋ラズ」となっている、
目を見開いてにらみつけるような様であろうか。
「春と修羅」の冒頭に近い部分で、自らを修羅に喩え、
「いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾〔つばき〕し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ」

と怒りを抑えきれない自らを歌った賢治は、
「決シテ 瞋ラズ イツモシヅカニワラッテ ヰル」を自らの理想とする。

「一日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ」るだけで十分であるとする。

自らの欲望をこそぎとるように、人のために尽くし人を救い助けることを願い、

周りの人が嘲笑されようとも一向に気にしない、

「サウイフ モノニ ワタシハ ナリタイ」と手帳に祈りの言葉のように刻み込んだのである。

雨ニモマケズ手帳.jpg

<今後の巡回予定は次のとおりです。>


下関市立美術館 2007年11月9日(金)~2008年1月8日(月・祝)

静岡アートギャラリー 2008年4月8日(火)~5月25日(日)

新潟市新津美術館   5月31日(土)~6月22日(日)

天童市美術館     6月28日(土)~8月10日(日)


○「雨ニモマケズ手帳」その1 塵点の劫をし過ぎて

「雨ニモマケズ手帳」は賢治の死後、大きな黒いトランクの内袋から発見された。

賢治は常に手帳を持ち歩いて、脳裏に詩が浮かぶたびに書きとめ、それは清書されたあと、破棄された。

そしてこの「雨ニモマケズ手帳」は死の直前まで書かれ、賢治の死によって稀有に遺されたものである。

この手帳のエンピツ差しに紙がはさんであり、それにも賢治の文字が記されていた。

塵点の
 劫をし
  過ぎて
 いましこの
妙のみ法に
 あひまつ
  りしを


「塵点(じんてん)の劫(こう)をし過ぎていましこの妙(たえ)のみ法(のり)に逢いまつりしを」と読むのであろうか。

「塵点(じんてん)の劫(こう)」とは、塵点の久遠劫、塵や砂のように数のいちじるいく多いことにたとえた表現で、常識を絶するような長い時間をいう。
仏教では、横と縦がそれぞれ40里、高さが40里の大きな石を、天女がその天の羽衣で3年に一度ずつ拭いて、その結果その大きな石が摩滅して全くなくなる、そのぐらい長い時間が劫である。

そして法華経では、「三千塵点劫」と「五百点劫」が説かれる。
法華経寿量品第16では、五百千万億ナユタアソウギ(無数)の三千世界を微塵にし、それを五百千万億ナユタアソウギの国ごとに一粒ずつ下して尽きるまで東に行き、さらにその経過したすべての国土を微塵にして、その一粒を一劫として数えた全体の数の時間をいう。

それほどの長い時間を過ぎて、今、この妙法蓮華経に出会えたという限りない喜びを記したのである。

賢治の作品はそうした深い信心の喜びの所産である。

そしてこれは法華経のお釈迦様の次の言葉に照応する。

我仏を得てよりこのかた 
経たる所の諸の劫数 
無量百千万億載阿僧祇なり 
常に法を説いて 
無数億の衆生を教化して 
仏道に入らしむ 
爾しより来無量劫なり 
衆生を度せんが為の故に 
方便して涅槃を現ず 
而も実には滅度せず 
常に此に住して法を説く


○「雨ニモマケズ手帳」の第2ページである。

大きな字で「昭和2年9月廿日 再ビ 東京ニテ 発熱」と書かれ、その隙間に
小さな字で「是父母ノ 意 僅ニ充タン ヲ 翼フ
父母ニ共ニ許サズ、廃躯ニ薬ヲ仰ぎて唯
大都会ニマギレントネガヒ 
マタ北上峡野ノ松林ニ朽チ埋レンコトヲオモイシモ

と黒色のエンピツで書かれている。
そして左下に朱色のエンピツで
18 11月16日 就全癒」とある。

賢治は手帳にその着想を記して、原稿用紙にまとまるたびに手帳は廃棄していったといわれる。
おそらくはこの手帳を記すにあたってその冒頭でその最初の日付と事情を記したものであろう。
賢治は昭和8年9月21日になくなった、昭和2年9月20日といえばちょうど死の6年前に書かれたのだ。

茶色い大きなトランクの中から、この手帳のほかに一緒にハトロン紙の封筒に入った手紙が2通入っていた。
1通は「清六様」と兄弟の名前が記してあり、もう一通は「父上様 母上様」とあった。

父母あての手紙にはこうあった。

「この一生の間どこのどんな子供
も受けないやうな厚いご恩
をいただきながら、いつも我慢
でお心に背きたうたうこんな
ことになりました。今生で
万分一もついにお返しできま
せんでしたご恩はきっと
次の生又次の生で
ご報じいたしたいとそれ
のみを念願いたします。」 
(以上1枚目)

    ご信仰といふのではなくても
「どうか お題目で私をお呼
びだしください。そのお題目
で絶えずおわび申しあげ
お答へいたします。
    九月廿一日
        賢治
  父上様
  母上様」
(2枚目)

つまりこの遺書と手帳は同時期に書き始めたのである。

賢治は、昭和6年9月、上京早々発熱し、これが最後と遺書をしたためた、
と同時におそらくは最後の手帳となるであろう手帳に遺書ともいうべき文章を書き込もうとしたように思える。
人にみせるためでなく、自分のために。

○まさに知るべし このところは即ちこれ道場なり

(第1ページ)

當 知 是 處

即 是 道 場

諸 佛 於 此

得 三 菩 提

(第3ページ)

諸 佛 於 此

轉 於 法 輪

諸 佛 於 此

而 般 涅 槃

これは「道場観」といわれるものである。

まさに知るべし、このところは、すなわちこれ道場なり。

諸仏ここにおいて、三菩提を得、

諸仏ここにおいて、法輪を転じ、

諸仏ここにおいて、般涅槃したまう


いま、私のいるこの場所(地上のすべての場所)において

過去、諸仏が悟りを開き、法を説き、涅槃に入られた道場にほかならないという。

宮沢賢治は、この「道場観」を手帳の冒頭に謹厳な字で記した。

この文は、妙法蓮華経の如来神力品(にょらいじんりきぽん)第21にある経文である。

国土のあらゆる処、街中まちなかであれ 林であれ 山深き処であっても
塔を建てて供養を行いなさい。

當(まさ)に知るべし
是(こ)の処は即ち 是(これ)道場なり
諸仏 此(ここ)に於(お)いて阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(え)
諸仏 此に於いて法輪を転じ
諸仏 此に於いて般涅槃(はつねはん)したもう


この道場観は古来より大事にされ、道元禅師も死の直前この経文を唱えながら経行(きんひん)されたという。

ある日、室内を経行して低声に誦していわく
「若於園中(もしは園中において)
若於林中(もしは林中において)
若於樹下(もしは樹下において)
若於僧坊(もしは僧坊において)
若白衣舍(もしは白衣の舎)
若在殿堂(もしは殿堂に在りて)
若山谷曠野(もしは山谷曠野)
是中皆応起塔供養(この中に皆まさに塔を起て供養すべし)
所以者何(ゆえはいかん)
当知是処即是道場(まさに知るべし このところは即ちこれ道場なり)
諸仏於此得阿耨多羅三藐三菩提(諸仏はここにおいて阿耨多羅三藐三菩提(無上の悟り)を得)
諸仏於此転於法輪(諸仏はここにおいて法輪を転じ)
諸仏於此而般涅槃(諸仏はここにおいて般涅槃したもう)」と。
誦しおわりて後、この文をやがて面前の柱に書きつけたまう。
「妙法蓮華経庵」と書し留めたもう。
 
(『建撕記』)

「この『法華経』の文を書き付けたまう心は、今、俗の家に入滅在ますゆえに、昔日諸仏もこのごとく仰せられたると、引きたまうなり。」

賢治もまた自らの死を意識してこの経文を謹んで手帳に書き付けたのであろう。
死を覚悟した東京の旅館において、
こここそが実に諸仏が修行された道場である。
諸仏はこの場所において悟りを開かれ
諸仏はこの場所において法を説かれ
諸仏はここにおいて涅槃に入られた と。

わたしのいるこの場所この場所こそがもろもろの仏が修行され、悟りを開き、法を説き、ニルバーナに入られた場所であると意識することを思う。

(第5ページ)
◎病血熱すと雖も
斯の如きの悪念を
   仮にも再びなす
      こと勿れ
斯の如きの瞋恚先づ
身を敗り人を壊り


(第6ページ)
順次に増長し
て遂に絶するなからん
それ瞋恚の来る処
  多くは名利の故なり
 血浄く胸熱


(第7ページ)
せざるの日一切を
 身自ら名利を離れたりと負し
童子嬉戯の如くに
思ひ
    私にその
念に誇り酔ふとも


(第8ページ)
見よ四大僅に和
を得ざれば忽ちに
諸の秘心斯の如きの
悪相を現じ来って

汝が脳中を馳驅し
    或は一刻


(第9ページ)
或は二刻或は終に
唯是修羅の中を
  さまよふに
     非ずや
さらばこれ格好の
     道場なり


(第10ページ)
 三十八度九度の熱悩
 肺炎流感結核の諸毒
 汝が身中に充つるのとき
 汝が五蘊の修羅
 を化して或は天或は
菩薩或は佛の国土たらしめよ


(第11ページ)
 この事成らずば
 如何ぞ汝能く
   十界成佛を
     談じ得ん


4ページまでの謹厳な筆致と違い殴り書きのような筆致である。
「◎病血熱すと雖も」から8ページのなかほど「悪相を現じ来」まで紫のエンピツで書かれている。
最初「来る」と結んだのを「る」を消して「って」に変え、以下黒エンピツで11ページの終わりまで続ける。

肺炎による38度また9度の熱とあえぎの中で
「こここそ格好の道場である」と「道場観」を起こしたのである。

賢治という人は実に自らの内面に厳しい自省をした人であった。
「春と修羅」でも
「いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ」と歌った。

修羅は阿修羅の略で、仏教では戦いを好む悪神とされ、驕慢・慢心を犯し、帝釈天と闘った。
その修羅の身を熱悩のなかにおいて自らの魂を天、菩薩、仏へと昇華させようと念じたのである。

この手帳に立ち現れる賢治という人は、死の淵に臨んで常に自らを道場観のもとに置こうとしている。


☆「雨ニモマケズ手帳」第12ページ

葛飾や
 南無二日月
   草の花
    一茶


この句は小林一茶のものだが、一茶の「我春集」では

 七月廿日素丸遠忌
かつしかやなむ廿日月草の花


が元の句である。廿は二十のこと。
賢治が元の句の「廿日月」を「二日月」と記憶違いで書きつけたか、
あるいは賢治の心象風景で「二日月」がぴったりしているからこう書付けたか不明である。

賢治は科学者であり、天文にも詳しかった。
「二日月」と「廿日月」ではその風光がだいぶ変わってくる。
賢治はそのことを知っており、意識して「二日月」と直したように推測される。

「二日月」では新月の次の日、三日月のすぐ前の日、すなわち夕方三日月より細い見えるか見えないかの微かな月の光となる。
月齢図(山梨県立図書館).gif

逆に「二十日月(はつかづき)」は「更待月」ともいわれ、夜分だいぶふけてからの月になる。

二十日月.gif

しかしなぜ「廿日月」を「二日月」と直したのか?

小林一茶ははじめ「葛飾派」に属した。
「素丸」は其日庵3世で一茶の恩師である。
その亡くなった7月20日師の亡くなった日に師をしのんで歌った句である。
葛飾や 草の花
とあるから、その当時の葛飾の荒涼たる荒野の中で二十日月に照らされた草の花をイメージするが、頭書きを念頭に置くと師を偲んで名も無い草の花を師の墓に句で供えたようにも詠める。

そして賢治はこの手帳のなかでイメージした「二日月」の中でイメージした草の花・・・
賢治は植物にも詳しかった。
「草の花」は秋の季題で、名も無い雑草の花という。

「ポランの広場」では賢治は「つめくさ」をこう歌う。

つめくさ灯ともす 夜のひろば
むかしのラルゴを うたひかわし
雲をもどよもし 夜風にわすれて
とりいれまづかに 年ようれぬ


南無二日月 草の花

これは賢治が盛岡中学時代、友人と一緒に岩手山に旅して登った時を偲んで歌ったようにも思われてならない。
その時、岩手山の中腹で賢治は終生の「願」を立てた。
「我等と衆生ともろともに仏道を成ぜん」
と誓ったのだ。これは菩薩の願である。
そして賢治は一生をその願に殉じた。
死の床に伏して、その青春の日の風光を偲んで南無したようにわたくしには思われてならない。

☆「雨ニモマケズ手帳」第13ページ、第14ページ

(第13ページ)


他の非を忿りて
      是を心に裁く
         数ふるときは
さながら
  大なる鬼神の
       ごとく


(第14ページ)

わづかに
 身の非を省み
     思へるときは
 そのうなゐ
みどりこ
      見るにも
        似たり


黒エンピツで力強く書かれている。
はじめに「人」と書いたのを消して
「他の非を忿(いか)りて 是を心に裁く」と書いたが、
「是を心に裁く」を消して「数ふるときは」と訂正している。
「さながら大なる鬼神のごとく」と繋げて
14ページに「身の非を省み」と書いたが
「わづかに」を最初に足して、「省み」を消して「思へるときは」と続けた。
「母みどりこを」と書いて「みどりこ」を消して「そのうなゐ」に直した。
そして「見るにも似たり」と最後に置いた。

賢治の創作の過程が見てとれる。

他の非を忿りて数ふるときは
 さながら大なる鬼神のごとく
 わづかに身の非を思へるときは
 母そのうなゐを見るにも似たり


※うなゐ 【▼髫/〈髫髪〉】
(1)髪をうなじのあたりで切りそろえ、垂らしておく小児の髪形。[和名抄]
(2)〔髪を「うない」にしておく者の意から〕小児。小さい子。

他人の非を怒るときはまるで鬼神が怒りたてるときのように
自分の非を見る時は母親が幼子を見るようにやさしい

自らを厳しく見てやまない賢治の生きかたが伝わってくる自省の詩である。
「母みどりこを」という最初の文句も捨てがたいところだ。

賢治はその短い生涯の晩年に文語定型詩に専心した。
そして死後、数冊の「文語詩稿」が発見された。
賢治はある日、母イチに「文語詩」が自分の創作を代表する作品になるだろうと自負したことがあったという。

☆「雨ニモマケズ手帳」第17~25ページ

(第17ページ)

      ◎   十月廿日
この夜半おどろきさめ
耳をすませて西の階下を聴けば
あゝまたあの児が
    咳しては泣き
     また咳しては泣いて
          居ります


(第18ページ)

その母のしづかに教へ
       なだめる声は
合間合間に
 絶えずきこえます
また病ないみどりごの
声あげなくをも
あの室は寒い室でございます
昼は日が射さず


(第19ページ)

夜は風が床下から床板のすき間
          をくゞり
昭和三年の十二月
     私があの室で
         急性肺炎に
           なりまし
            たとき
新婚のあの子の父母は
私にこの日照る広い
      じぶんらの室を与へ



(第20ページ)

じぶんらはその暗い私の四月
       病んだ室へ
        入って行ったのです
そしてその二月
   あの子はあすこで
         生まれました
あの子は女の子にしては
         性猛く心強く


(第21ページ)

凡そ倒れたり落ちたり
     そんなことでは
       泣きませんで
            した
私が去年から
    病やうやく癒へ
朝顔を作り菊を作れば
あの子もいっしょに水をやり
また蕾ある枝もきったり
時には          いたしました


(第22ページ)

この九月の末私はふたゝび
東京で病み
向こふで骨になろうと覚悟して
            ゐましたが
こたびも父母の情けに
      帰って来れば
あの子は門に立って笑って迎へ
また障子から


(第23ページ)

     お久しぶりでごあんすと
      声をたえだえ叫びました
あゝいま熱とあえぎのために
心をとゝのへるすべをしらず
それでもいつかの晩は
わがないもやと云って
今夜はたゞたゞ ねむってゐましたが
    咳き泣くばかりで
         ございます


(第24ページ)

あゝ大梵天王こよひはしたなくも
こゝろみだれて
    あなたに訴へ奉
          ります
あの子は三つではございますが
直立して合掌し
法華の首題も唱へました
たゞね如何なる前世の非にも
               あれ


(第25ページ)

 たゞかの病かの痛苦をば
    私にうつし賜はらんこと

みまなこを
  ひらけばひらく
     あめつちに
 その7ぜつの
  かぎを得たまふ


この詩は解説はいるまい。
宮沢賢治の人となりがよく顕われている。
全体が黒鉛筆の弱弱しい細字であるが、訂正はごく少ない。
自らに病を移してでも姪にあたる少女を救いたいという必死の想いが伝わってくる。
ああ賢治という人はまさに願いの上においては菩薩行を実践し続けた人であるのだ。

☆(第25ページ)

 たゞかの病かの痛苦をば
    私にうつし賜はらんこと

みまなこを
  ひらけばひらく
     あめつちに
 その7ぜつの
  かぎを得たまふ


に引き続いて

(第26ページ)には

みまなこを
  ひらけばひらく
     あめつちに
 その7舌の
  かぎを得たまふ
伝教
 大師


と同じ歌が繰り返されている。
不思議な歌である。

宮沢賢治「雨ニモ負ケズ手帳」研究(小倉豊文)86ページにはこうある。

「この歌は賢治の1921(大正10)年4月の創作である。・・・
賢治はこの頃、法華信仰のために家を棄てて上京していた。
ところが父政次郎はわが子を気遣って4月上旬上京し、伊勢旅行と関西旅行を一緒に行くことを勧めた。(略)
政次郎生前の話によると、法華いちずに凝り固まった賢治を、伊勢神宮に参るとともに、各宗祖が修行した比叡山と、親鸞上人が「和国の教主」と和讃でうたった聖徳太子の聖蹟巡礼に連れ出して、賢治の法華いちずの信仰を和らげようと考えたとのことであった。
賢治は父の提案を喜んでそれに応じた。
この父と子の旅は、伊勢から始まって二見で一泊、比叡山に登って京都で一泊、大阪を経由して法隆寺に参り、奈良で一泊し、翌日は関西線を経由して東京に戻り、父と子は上野駅で別れた。

旅行中、賢治は多くの短歌を作ったが、その中に「比叡」と題する連作がある。

  根本中堂

ねがわくは 妙法如来正ヘン知 大師のみ旨成らしめたまへ

  大講堂

いつくしき五色の幡(ばん)はかけたれどみこころいかにとざしたまはん

いつくしき五色の幡につゝまれて(初稿・・・つゝまれし)大講堂ぞことにわびしき

うち寂む大講堂の薄明にさらぬ方してわれいのるなり

あらたなるみ像かしこくかゝれども その慕はしきみ像はあれど

おゝ大師たがひまつらじ、たゞ知らせきみがみ前のいのりをしらせ

みづうみのひかりはるかにすなつちを掻きたまひけんその日遠しも

われもまた大講堂に鐘つくなりその像法の日は去りしとぞと

みづうみは夢の中なる碧孔雀まひるながらに寂しかりけり

  随縁真如

みまなこをひらけばひらくあめつちにその七舌(しちぜつ)のかぎを得たまふ

  同

さながらにきざむこゝろの峯々にいま咲きわたす厚朴(ほう)の花かも
(初稿・・・峯々のなかにもここはもなかなりしか)

暮れそめぬふりさけみればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり」

この「比叡」の連作の中にみまなこをひらけばひらくあめつちにその七舌(しちぜつ)のかぎを得たまふの歌がある。

ここに「随縁真如」と題してある。
小倉氏の指摘によると
日蓮上人の「立花観鈔」に「伝教大師の血脈に云(いわ)く、夫(そ)れ一言の妙法とは両眼を開いて五塵の境を見る時は随縁真如なるべし。無念に住する時は不変真如なるべし」を想起したものという。
確かに「両眼を開いて」から「みまなこをひらけばひらく」を着想したに違いない。

さらに「七舌(しちぜつ)のかぎ」について小倉氏はこう解説されている。

北畠親房の「神皇正統記」に
「伝教入唐以前より比叡山をひらきて練行(れんぎょう)せられけり。今の根本中堂の地をひらかれるに、八の舌あるカギをもとめいで唐までもたれたり。天台山にのぼりて智者大師六代の正統道邃(どうすい)和尚に謁して、その宗をならわれしに、彼の山に智者帰寂より以来カギをうしなひてひらかざる一蔵ありき。心みに此のカギにてあけらるゝにとゞこほらず。一山こぞりて渇仰しけり。仍(よって)一宗の奥義のこる所なく伝られたりとぞ。」

最澄が比叡山を開いて修行されていたとき、今の根本中堂の地で8つの舌つまり凸(とつ)部分のある鍵が出てきたというのである。最澄が中国に留学したとき、その鍵を持っていった。天台山に登って道邃(どうすい)和尚のもとで天台の教えを学んでいたとき、智者大師智ギが亡くなったとき、、「自分の死後200年後に、東方の国で天台の思想がふたたび興隆するであろう。その時までこの蔵は閉ざす」と言って錠をかけ、そのカギを東の空へ向けて高く投げた。投げられたカギははるか彼方に消え、行方がわからなくなった。以来その蔵は「開かずの経蔵」となった。最澄が持ってきた鍵を試みに差したところ、その錠前があいて蔵が開いたという伝説である。

この伝説については はちぜつのかぎ に詳しい。

賢治はこの話が好きだったに違いない。法華経を根本経典とした智ギの再来「死後200年後に、東方の国で天台の思想がふたたび興隆するであろう」という予言された聖人こそ最澄である。賢治の「比叡」の連作ではその最澄を讃美し、おそらくはその教えは日蓮上人によってただしく伝えられ、今の比叡山にはないというような想いがうかがわれる。

賢治はその「八舌」を「七舌(しちぜつ)」に置き換えて歌を詠んでいる。
小倉氏は、南無妙法蓮華経の七字の題目ではないかとされるとともに、
白井成允氏の「大智度論の『七種弁』の義ではないか」という説も引用されている。
これはおそらく南無妙法蓮華経の七字から来ているのであろう。



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