2007/07/21(土)10:34
非暴力は人類の法である
・卑怯か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力をすすめるだろうと信じている。
だからこそ、1908年にわたしが瀕死の暴行をうけたときに、もしわたしの長男がその場にいあわせたとしたら、彼はどうするべきであったかー
逃げ出してわたしを見殺しにするべきか、それとも腕力に訴えてわたしを護るべきであったかとたずねたとき、わたしは息子に、暴力に訴えてでもわたしを護るのが彼の義務(つとめ)であると語ったのである。
けれどもわたしは、非暴力ははるかに暴力にまさることを、
敵を赦すことは敵を罰するより雄々しいことを信じている。
寛恕は武人を飾る。しかし、赦す側に罰する力があるときにのみ、自己抑制は赦しとなる。
無力な者が寛大を装ったところで、それは無意味である。
鼠は、猫に八つ裂きにされるがままになっているとき、猫を赦してはいない。
それゆえにダイヤー将軍とその一味の者がしかるべき罰を受けるべきだと叫ぶ人たちの気持ちは、わたしにはよくわかる。
できることなら、彼らはダイヤー将軍を八つ裂きにでもしたいことだと思ったであろう。
けれどもわたしは、インドが無力だとは思わない。
またわたしは、自分が無力な人間だとも思っていない。
ただわたしは、インドとわたしの力をよりよい目的のために用いたいと願うだけである。
誤解しないでいただきたい。力は体力から来るものではない。それは不屈の意志から来るものである。
(略)
真の宥恕とは、自分の力をはっきり認識することになるだろう。
この自覚した赦しのこころとともに、われわれの内に、ある大きな力の潮がやって来なければならない。・・・
われわれはあまりにも踏みにじられているために、怒りや復讐心を抑えることはできない。
けれどもわたしは、インドが懲罰の権利を放棄することによって、いっそう多くのものを得ることができると言わずにはいられない。
われわれには、なすべきもっと立派な仕事が、言いかえれば、世界に伝えるべきもっと高い使命がある。
わたしは夢想家ではない。
わたしは実際的な理想主義者であると自認している。
非暴力の宗教は、単に賢者(リシ)や聖者たちのためのものではない。
それは、同様に一般庶民のためのものである。
暴力が獣類の法(のり)であるように、非暴力は人類の法である。
獣類にあっては精神は眠っており、獣類は肉体の力のほかには法を知らない。
人間の尊厳はより高い法に、すなわち精神の力に従うことを要求する。
それゆえに、わたしはあえてインドの前に、自己犠牲という昔の法を提起したのである。
なぜなら、サティヤーグラハ(真理把持)とその分枝である非協力運動や市民的抵抗は、すべて受難の法に与えられた新しい名称にほかならないからである。