2007/08/14(火)18:23
ネルー、ガンジーを語る アムリツアーの大虐殺
「父が子に語る世界歴史6」より
(第一次大戦後、イギリス政府はそれまでのインド自治の約束を果たす代わりに弾圧強化の法案を施行した)
これらの法律はある委員会の報告にもとづくもので、ローラット法案とよばれたが、たちまち国中で「暗黒法案」として知られるようになり、いたるところで、もっとも穏健な連中もふくめて、あらゆるインド人の非難のまととなった。
それらは政府と警察に、かれらが好まないか、もしくは嫌疑をかけたひとを、だれかれなしに逮捕し、裁判なしで投獄できるという、大幅な権限を与えるものだった。
当時の、この法案に対するよく知られた要約は、「弁護不能、上告不可、証拠不要」というものだった。
この法案に対する反対の声が高まるにつれて、新しい要因が浮かび上がった。
この政治的地平線にあらわれた小さな雲は、みるみるうちに大きくなり、インドの空をいっぱいにおおうまでに広がった。
この新しい要因とは、すなわちモハンダス・カラムチャド・ガンディのことであった。
彼は戦時中に南アフリカからインドに帰り、サバルマティのアシュラム(道場)に彼の一団とともに、住居をかまえた。
彼は政治には関与せず、政府に対して戦争の募兵に協力しさえした。
いうまでもなく彼は、南アフリカにおけるサティヤグラハ闘争以来、インドでは非常によく知られていた。
1917年には、ビハール州のチャンパラン地方の、みじめにふみつけられた小作農を成功裏に守りとおした。
その後、彼はグジャラートのカイラーの農民の支持に起った。
1919年に重病をわずらい、ローラット法案反対の声が全国にみなぎっていたころに、やっと回復した。
彼もまた、国をおおう声に和した。
しかし彼の声は、ほかの声とはいくらか違った響きを帯びていた。
それは静かで低かったが、群衆の叫び声以上に効果があった。
それは柔和で穏やかだったが、しかしどこかしらに、鋼鉄が隠されている趣きがあった。
それは控えめで、専ら懇請のかたちをとっていたが、それにもかかわらず、なんとなく厳しく、人を威圧した。
用いられる言葉は意味に充たされ、死のような真実を帯びているのだった。
平和と、友情の言葉の背後には、力があり、かすかに震動する行動の陰影があり、悪に対して決して屈服しない決意があった。
今では私たちは、この声になじんでいる。
最近14年間、我々は何度となくこの声を耳にしてきた。
けれども1919年2月と、3月には、それは耳新しいものだった。
われわれは、それをどう利用すべきかを、少しも知らなかったけれども、ともかく、胸のと決めきを覚えたものだった。
これは、いたずらに弾劾する以上のなにものでもない騒々しい政策や、誰も真剣には受け取らない決まりきった、無意味で無益な抗議の決意で結ぶ長たらしい演説とは、全く趣きを異にするなにものかだった。
これは行動の政策であり、口先の議論だけのそれではなかった。
マハトマ・ガンディは、一定の法律を破り、それによってすすんで牢獄におもむく決意をもつ人たちのサティヤグラハ・サバーを組織した。
これは、当時としては全く目新しい着想であり、我々のなかには奮起した者も少なくなかったが、しりごみする者も多かった。
ガンディは、彼がいつもするように副王(総督)に対して、丁重で警告的な訴状を送った。
全インドが一体となって反対しているにもかかわらず、イギリス政府が法律を通過させる決心をしているのを見届けると、彼は法案が法律となった日から数えて最初の日曜日に、全インドに哀悼日をもうけ、ハルタール、すなわち業務の休止を行い、集会をもよおすことを要請した。
これはサティヤグラハ運動の幕を切っておとすことにほかならず、かくて1919年4月16日の日曜日には、町に、村に、インド中に、サティアグラハ・デーがもたれた。
この種の全インド的デモンストレーションはこれがはじめてであったが、それはありとあらゆる種類の人々や団体が参加した、すばらしく印象的なものだった。
われわれのなかでハルタールのために奔走した者は、この成功に驚いた。
今までは手の届く範囲といえば少数の都会の住民に限られていた。
ところが一種新しい精神が空中をただよい、どうやら訴えは、我々の広大な国のはるかにかけはなれた村々にまで届いたのだ。
このとき初めて農民は、都市の労働者とともに、大規模な政治的示威運動に加わったのだった。
デリーでは、日付を間違えて4月6日より一週間前の、3月31日の日曜日にも、ハルタールが行われた。
これらの日はデリーのヒンズー教徒と、イスラム教徒のあいだの驚くべき友情と親善が示される日となった。
デリーの有名なジャーミ・マスジット(寺院)では、アーリア・サマージの大指導者スワミー・シュラッダナンドが大聴衆を前に演説した際に、手に汗握る光景が見られた。
3月31日には、警察と軍隊が、街頭を埋める大群衆を蹴散らそうとし、彼らに発砲して数人を殺した。
サンニャーシン(遍歴行者)の衣をまとい、胸をあらわにした丈高い威丈夫のシュラッダナンドは、少しもひるまない表情で、グルカ人の銃剣に対した。・・・
この4月6日のサティアグラハ・デー以来、事態はめまぐるしく進展した。
4月10日には、アムリッツアーに騒動があり、武器を持たない群集が軍隊に銃撃され、多数の死者を出した。
引き続いて狂気の復讐がはじまり、5,6人の罪もないイギリス人が執務中に殺され、彼らの銀行の建物は焼き払われた。
それ以来パンジャーブは検閲制度がもうけられて、インドのほかの地方との連絡は断たれた。
戒厳令がしかれ、数ヶ月も続いた。そして徐々に恐怖の真相が明るみに出された。
4月13日、アムリツアーのジャリアンワーラー・バーグ広場で大虐殺が行われ、何千という人たちが、抜け道のない死の落とし穴にかかって、傷つき、また死んでいったことは、全世界が知っている。
「アムリッツアー」という言葉そのものが、虐殺の代名詞になっているほどだ。
ほかにももっと恥ずべき行為がパンジャーブ中で行われた。