2007/08/19(日)10:30
非暴力に関する談話3
「わたしの非暴力」森本達雄訳より(「ヤング・インディア」1937.3.20)
モーアハウス大学総長ベンジャミン・マイズ博士がガンジーに質問した。
「私は非暴力の卓越性を信じます。
けれども私の悩みは、大規模にそれを実践することについてです。
いいかえますと、愛によって大衆の心を訓練することの難しさについてです。
一人ずつ順次に訓練してゆくほうがまだしも容易です。
彼らが暴走したとき、どのような策をとればよいでしょうか。
引き返せばよいですか、それとも前進するべきでしょうか?」
ガンジーは答えた。
「わたしも、インドの運動の途上で、そのような経験をしたことがあります。
訓示によって人を鍛錬することはできません。
非暴力は常に実践されなければなりません。
暴力の訓練は、形あるものによって人々に教えることができます。
最初は板を撃ち、次は標的をそれから動物ををいったように、そうすれば破壊の技術の専門家になれます。
非暴力の人は、そういう形ある武器を持ちません。
それゆえに彼は言葉だけではなく、行動までが無能力に見えるのです。
わたしは口先だけなら、あらゆる種類の甘言をあなたがたに語ることができます。
逆に、心に真実な愛を抱きながら、わたしの表現が無骨であることもあります。
表面的には、その2つの場合のわたしの行為は同じであるかもしれませんが、その及ぼす影響力は違ってくるでしょう。
なぜなら、我々の行為の結果はしばしば知らず知らずのうちにこそ、いっそう明らかになるからです。
このようにして、あなたがたがわたしから受けとる無意識の影響にわたしは気づかないかもしれません。
それにもかかわらず、それは意識しうる影響よりはるかに大きいのです。
暴力の場合には目に見えないものはなに一つありません。
これに対して、非暴力は4分の3までが見えないのであり、その結果は見えないところに反比例します。
非暴力が積極的にはたらくとき、それは非常な速度で進行し、奇蹟となります。
大衆の心は始めは無意識のうちに、やがては意識的に影響されます。
意識的に影響されるようになったとき、明らかな勝利があるのです。
わたし自身の経験では、人々が目覚めてゆくように感じられたとき、わたしのうちに敗北感はありませんでした。
このようにして1922年に一般大衆の不服従運動を断念した後にでも、わたしはますます非暴力の効力への希望にみちていたのです。
今日でもわたしの心は同じように希望にみちています。
それは単なる感情の問題だけではありません。
たとえ夜明けのきざしが見えなくても、わたしは信仰を失うことはないでしょう。
すべては、来るべき時に来なければならないのですから。
わたしは街路清掃奉仕のことで仲間と議論しているところです。
「スワラジ(自治)を獲得した後でそれをしてはいけないのですか?」
と彼らは言います。
私は答えます。
「それは間違っている。
いますぐに、改善がなされなければならない。
自治を待ってはならない。
正しい自治はこうした仕事からのみ来るのです。」
(略)
けれどもここにあなたの難問が起こります。
おっしゃるとおり、非暴力を信じていない人たちがあります。
だからといって、あなたは何もしないで、じっと座っていてよいでしょうか?
「いま行動しなければ、いつするのですか?」
とさきほどの仲間が尋ねたとき、わたしは言いました。
「わたしの存命中に成功を見ないかもしれません。
けれども勝利は非暴力によってのみ達成できるのだという信念は、これまで以上に確固としています」
わたしが糸車を礼賛したとき、ある新聞記者はそれをわたしのずるさだと批評しました。
何を言われてもわたしの信仰はびくともしませんでした。
わたしがセヴァグラームに来たときにも、人々はわたしに協力しないかもしれないし、わたしをボイコットするかもしれないと知らされました。
わたしは申しました。
「ありうることです。けれどもそれこそが非暴力の方法です。」
日ごとにわたしの信念はいっそう明らかになっています。
わたしは、その信仰を実現するために、そして神のみこころとあらば、その途中で死ぬためにこの世に生まれてきたのです。
いやしくもなんらかの価値のある非暴力は、敵対する力に向かってはたらかねばなりません。
けれども静止のなかにも活動があるかもしれません。
また活動は、不活動よりももっと悪いことがあるかもしれません。」