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2009年01月25日
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竈新田(かまどしんでん)現在の静岡県御殿場市竈)の小林平兵衛は、二宮尊徳の報徳仕法を静岡県駿東郡を中心に広げた人である。
その人の事跡を中心に見学会といっても都合で参加人数は予定の半分になってしまったが、御殿場駅に集合して尊徳先生の遺跡など見学する。
案内してくれる竈のSさんからは、こちらは雪がちらほら降っています、温かく着こんできてくださいと連絡があった。
とっても素晴らしい見学会となりましたと感謝した。
わたくしの父が元気だったころ、くださったヤマモトカンサイのジャンバーコートを着こんでまいろう。

小林平兵衛と農村復興ー心学から報徳仕法へ(「江戸時代人づくり風土記22」)
 御殿場の名主(村役人の長)の家に生まれる
 富士山は、日本を象徴する山です。平兵衛は、この富士山と箱根の外輪山にかこまれた今の御殿場市茱萸沢(ぐみざわ)の名主家江藤孫市の子として、安永8年(1779)に生れた。
 御殿場地方は、富士山の東麓(とうろく)地方にあたり、静岡県の中にはもっとも北東部の県境にあたる。隣接する小山(おやま)町須走(すばしり)から籠坂峠を越えると山梨県に、また、足柄峠、乙女峠を越えると神奈川県に入るという位置にある。
 江戸時代にあっては、メインストリートとしての箱根街道に対して、古代から歴史を背負った脇往還として、交通上の重要な意味をも持っていた。そういう点では、箱根の関所を補助する脇の固めとして、仙石原・谷峨(やが)・矢倉沢・河村の各関所も近い位置関係にあった。
 かつては、宝永4年(1707)の富士山の噴火により、それまで小田原藩領であった村々が幕府領となり、再び小田原藩領に復帰するのに30年から70数年を要した。その後の天明・天保の大飢饉でも大きな痛手を負った地域である。このような自然環境のなかにあって、俳諧を通した文化活動や民衆道徳としての心学を広め、あるいは天保期(1830~44)の飢饉に際して、いちはやく機敏に活動した小林平兵衛という人物は、いかなる人であったか。
 嘉永2年(1849)、平兵衛は71歳の生涯を閉じた。かつて行動をともにした牛負庵(ぎゅうふあん)牛翁(ぎゅうおう)は、平兵衛の生涯を「小林木二古人(もくじこじん)一代の記」にまとめ霊前に捧げた。それには「当家の木二(平兵衛の俳号)は何事をやるにしても徹底するのが好きで、俳句の道は享和・文化年間(1801~18)から学びはじめ、正風の道に深く志を立て、中年からは地理家相を学び・・・
 その後は石門心学の道に入って京都に修行し、江戸に遊んで、心学の道をきわめた人に深く共鳴して・・・
 さらにその後にいたっては、報徳の開祖であった野州(栃木県)宇津家の復興を手がけた二宮金次郎という人にその道の指導をあおぎ・・・そして、この道を深く学び、その後、この御厨での先達となって、自分の住んでいる村で隣村はいうに及ばず、報徳仕法を説いてまわり、郡中にまでそれを広げ、人の憐れみごとの相談にのり、貧乏な者を助けるために自分のことはぬきにして親切を尽くしました。」
とあり、文化5年、竈新田の小林家に養子に入った前後から、その生涯にわたる事蹟をあとづけている。
 牛負庵牛翁は御殿場村の村役人を勤め、平兵衛とともに二宮金次郎に従って天保期の報徳仕法の実践者となった蛭子(えびす)屋藤吉(とうきち)である。

 小林平兵衛の人生遍歴
 平兵衛は茱萸沢村の名主を江戸時代中期より代々勤める江藤家の孫市の息子として安永8年(1779)に生れた。兄の孫右衛門は父の跡をついで名主となった。一方、小林家は、もともと竈新田を開いた奥住新左衛門の甥にあたる小林3兄弟のうちの安兵衛家から分家し、屋号は「だんや」とよぶ家である。
 平兵衛は、この小林家に文化5年(1808)に婿養子となり、文化10年には、家督を継ぎ、この年、息子の縫蔵(ぬいぞう)を湯山文右衛門のもとへ手習いに通わせた。この年、平兵衛は35歳になっていた。
 後年、弘化元年(1844)に記した「遺状(のこしじょう)」には、若い頃身をもちくずし、両親から勘当され、当時、御殿場村から庵原(いはら)郡庵原村に養子に入っていた良蔵(8代目柴田権左衛門)に連れられて長々と同家に厄介になり、隠居中の6代目権左衛門の教えを受けて心を入れかえたとある。名主の息子としての何の苦労もない生活の中で、彼に課された一つの試練でもあったであろう。
 第二段階として、小林平兵衛の竈新田時代がはじまるが、そのスタートも決して楽ではなかった。平兵衛が小林家に婿養子に入るについて、養父である5代目太兵衛が文化5年5月7日に35歳で亡くなったことと無関係ではないようである。この年は、平兵衛30歳であるので、小林家の5代目が早死にしたための6代目であったようである。この後、文化8年には養母が亡くなる。文化10年6月15日に小林家の6代目を継いだが、この時、本家の竈新田村中宿(なかじゅく)の小林安兵衛と杉名沢村の文左衛門、兄である江藤孫右衛門が立ち会った。家督を継ぐ前年、文化9年(1812)には、同じ村内の同志18人とともに毎月各々が草履8足または、銭48文を積み立てる相続講をつくった。平兵衛の日常は、米作りの農業のほかに、茶作り・タバコ・養蚕があった。牛翁の追悼文にもたったように、日記の中には農業のあいまに発句、碁打ち、「論語」の学習などにはげみ、毎日の生活だけに追われない道の追求の一端がうかがわれる。

 心学道話への共鳴とその普及活動
文政6年(1823)小林平兵衛に転機がおとずれた。平兵衛45歳である。1月18日、村方より平兵衛に組頭(江戸時代の村役人で名主を補佐する役)となるよう頼んできた。1月28日に平兵衛は、小田原に出立し、翌29日には、役所で竈新田の組頭を仰せ付けられた。組頭役についた、平兵衛は3月21日に江戸へ向って旅立った。旅の目的は2つあった。1つは、得意先へ椎茸を卸すこと。もう1つは、商売のかたわら江戸に着いた晩から、田嶋有覚、大島有隣らの道話を聞くことだった。平兵衛はこの間、5日間にわたって心学者から直接道話を聞き、竈新田に帰ったのは30日だった。文政6年中には、ほかにも4回商売兼研修の旅に出ている、彼の心の中には心学への思いがハッキリとした形になりはじめていた。(略)
 平兵衛が聞いた大島有隣らは、正直・倹約・勤勉・堪忍といった道徳観を強調したので、文化・文政期(1804~30)の平兵衛ら農村の指導者たちには、非常に聞こえやすい指導方針や生き方であった。心学に接した平兵衛の生き方が積極的になり、地方の村々の指導者たちとのつながりを強めていった。発句会や親戚筋にあたる柴怒田(しばんた)村の医師瀬戸家での「老子」「荘子」「孟子」「論語」の筆写や話などを聞く中で学習を進めた。文政6年10月には、江戸から曾根直二郎が来て道話をしながら巡回を始めた。
 文政10年平兵衛48歳の年には、掛川止敬舎の菊池良貞を招いて、富士山東麓御厨地方を巡回し、良貞の心学道話を筆写している。文政11年には掛川止敬舎のの近藤平格を招いて、文政12年、天保6年、7年と3回にわたって御厨地方を心学のため巡回している。そして天保6,7年には、自ら平格に従い相模、下総にまで遊説している。

小林家の農業経営の行きづまり
小林平兵衛は、文政6年に組頭に任じられた。その後の文政11年の小林家は、竈新田村だけでなく近郷にも田畑を所有し、その反別は水田が6町5反余、畑が4町余の合わせて10町歩以上に及んだ。
 しかし、家督を7代目惣右衛門に譲る間に小作米、利金米ともに減った。これは、天明の飢饉以降の状態から農民が十分に立ち直れない一方、割高な年貢米によって村内が不安定になってきた。したがって、小林家の経営の行きづまりも広い小作地を持ちながら収入が減少し苦しくなっていった。菊池良貞の道話の内容を筆写した平兵衛の帳面には、「人は自己の了見を捨てて無心となること、他力を信じていくこと」の大事さが読み取れる。さびれてきた農村や農民には、不慮の災難や家内・村内の不和から起こる争いごとをやわらげる機能として、小林平兵衛には心学道話が必要であると思ったようだ。
しかし、天保の飢饉には、平兵衛のこのような考えは無残に崩壊した。天保7年(1836)の凶作によって、明らかに小作米は減少し、貸付金も回収できなくなった。そこで一度譲り渡した家督を惣右衛門から平兵衛に戻し、家の建て直しをすることとなった。同年7月には、小田原藩の郡奉行(こおりぶぎょう)の手代(下級役人)が凶作の御厨地方を回村した。この年の難渋人は、3119人で、竈新田は男16人、女7人の23人が死亡した。
 天保8年、平兵衛59歳、3月から4月にかけて、小田原藩士二宮金次郎が鵜沢作右衛門を伴って飢饉に苦しむ富士山東麓の駿東郡78ヶ村を巡回した。窮乏の状況を無難・中難・極難の3段階に分け、その救済策として、極難には米1日2合と銭1文、中難には米1日1合と銭2文を貸し与えた。

 報徳仕法の担い手としての活躍
 天保の飢饉のなかで、小林平兵衛は水を得た魚のように、その活動が開始された。それは、心学の道話ではどうにもならない目の前の惨事があったからである。自らの家の農業経営をいってはいられないなかで、二宮金次郎の報徳仕法の担い手とてして天保8年、小林平兵衛は動きはじめた。
 同年3月、小林平兵衛は報徳金として5両を二宮金次郎に差し出した。4月には、小田原藩主から仁恵金(救済金)として、1両3分2朱、永47文2歩9厘4毛を頂戴した。7月15日には、平兵衛、御殿場村の日野屋宗兵衛ら6人が発起人となり、御厨地方6筋の富裕層に「報徳窮民撫育」の拠金をよびかけ、6筋で金102両1分、銭182文が集まった。これを極難渋人513軒513軒1212人に分配した。
 この年、小林平兵衛は茱萸沢(ぐみざわ)村にある小林家の所有地2町5反7畝2歩を質に入れ、二宮金次郎より50両を借用し、同村内の極難者に無利息で5年から7年賦の貸付を行っている。天保9年(1838)には、118両余りを土台金として、小林平兵衛はみずからの村の仕法をはじめた。
 その後、天保10年には、小林平兵衛は野州桜町陣屋に二宮金次郎をたずね、仕法の模範村である青木村を案内してもらっている。天保12年には、小林家の諸道具を処分し、二宮金次郎のもとで報徳の指導を受け始めました。これが契機となり、富士山東麓地方にも各村々で村立て直しの報徳仕法が実施されはじめた。
 天保14年には、ぐみざわ村の吉左衛門から買った田畑を売り、金55両を基金として「知足備金」を創設した。平兵衛が嘉永2年(1849)7月6日に71歳でなくなったのちもその遺志は持ち続けられ、明治44年(1911)には、10代目秀三郎、11代目慶一郎によって「小林知足財団」が設立された。知足財団の基本は、天保14年から明治45年までの積み金43,912円98銭7厘だった。







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最終更新日  2009年01月25日 07時03分52秒
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