2009/08/30(日)15:35
栢山詣での記 国府犀東 その2
栢山詣での記 国府犀東 その1
栢山詣での記 国府犀東 その2
あな、なつかしの栢山村、17,8年の前、年16,7の時、始めて『報徳記』を読み霊火にもえにし若き胸一つに、ただその幼(いと)けなくして家道の廃れるに逢い、つらさ悲しき事のみ多かりしを、我が身のうえのごとくに泣き伏しつ、いよよ読み行きて雄々しく猛(た)けき経世済民のいと大なる人となりませるに、いやしき心も空(そら)になり、己れその人になりたらんよう、いと猛々しき心地して、机辺の壁に貼られし、ナポレオン、ビスマルクの絵像よりも、さらに大なる人の面影、ありありと目の前に幻となりしそのかみより、ひとたびは尋ね行きて、この大なる人の生まれませる跡をとぶらはんと、幾たびか思いたちたりし
相模の栢山村
を、ゆくりなくもおとづれ得たるを、そこばくのえにしありとやいはめ、なしとやいはめ、なつかしきこと限りなし 。(略)
この国府犀東という人はどういう人であろうか。七五調の流れるような文で興趣を誘う。
全国名前辞典にはこうある。
国府 犀東(國府 犀東)こくぶ さいとう
1873. 2.(明治 6)ー1950. 2.27(昭和25)
◇漢詩人・新体詩人・文章家。幼名は長松のち種徳(タネノリ)、初号は聴松。金沢市堅町(犀川の東)生れ。四高を経て東京帝国大学法科中退。1907(明治40)内務省に入り、のち宮内省御用掛。大正・昭和初期の詔勅などを起草する。
内務省、宮内省の役人で文章をよくした方らしい。確かにこの 栢山詣での記 に登場する仲間は役人が多いのである。明治の末ごろ、報徳運動は国の官庁の主なるメンバーを動かす力を持っていたようなのである。
(明治)39年の10月、富士の高嶺に雪白妙の今朝はれて、野路に稲の実こぼれんばかり香ばしき秋の13日、なつかしき栢山村にゆかんとて、新橋の駅につどわれし、報徳会のともがき12人。
『稲の香や 十二羅漢の最寄(もやひ)汽車』 (略)
12人の名前を挙げれば
金原明善翁<天竜川の治水、植林事業で著名>
古橋源六郎氏(愛知県農会副長稲橋村長)
鈴木藤三郎氏(衆議院議員)
留岡幸助(報徳会評議員家庭学校長)、
ここだけみてもすごいメンバーだとわかる。このGAIAでもしばしば登場する報徳運動の歴史上の人物である。金原明善翁については、吉兵衛さんが送ってくれた本の内容をおいおい紹介しよう。
その他はおおむね役人である。
白仁武氏(文部省普通学務局長)
床次竹二郎氏(内務省地方局長)
井上友一氏(内務省書記官)
奥山万次郎氏(農商務省特許局事務官)
大橋重省氏(地方局)
それに、 平福百穂氏(画伯)、坪井忍氏それに国府犀東氏の12人である。
平福百穂画伯の絵が添えられていて、興趣を深めている旅行記である。