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カテゴリ:二宮尊徳先生故地&観音巡礼
板東観音霊場は、鎌倉の杉本寺から始まる。2番霊場は逗子の岩殿寺である。
3月に畏友木谷さんが亡くなったときに、供養のため巡ったとき以来だ。 その折は、杉本寺の正面のほうの山あいから辿る「平成の巡礼道」伝いに巡ったものである。小山からの相模湾のうらうらの海が美しかった。 本来の古巡礼の道は報国寺の脇から出ている。岩場にゆかりの深い趣きのある巡礼の道である。 1番 杉本寺 --→ <五大明王院> -----------→ 2番 ---→ 岩殿寺 ----(名越の切通し)---- ←---- 逗子駅 ←---- 4番 ←---- 3番 ←---- 長谷寺 安養院 途中 五大明王院 に寄る。佐々井典比古氏の「尊徳の森」に尊徳先生のよき理解者で、老中水野越前守に幕府登用を推挙したのではともいわれている弁算和尚の4番目の墓があると記されているが、いまだに確認できない。 「弁算の4番目の墓は、鎌倉市一二所の六浦街道沿い、もと真言宗明王院の墓地にある。 県道の改修で圧縮整理された墓域の中央、ひときわ大きく、明王院へ向けて北面しているのが弁算の墓で、総高118センチ、西浦賀の笠屋長七母が寄進した。仙台石巻産の石材でできている。 そして、少し離れた明王院の本堂脇には、弁算揮毫に成る、大師一千忌の光明真言塔と、地蔵尊が並んでいる。この三者は、いずれも安政2年、住職恵法が三浦半島一円の講中の寄進で建立したと認められ、弁算の感化がこの地方へも広く、深く及んでいたことを物語っている。」(同書296ページ) 岩殿寺 ウィキより 岩殿寺(がんでんじ)は神奈川県逗子市にある曹洞宗の寺院。山号は海雲山。本尊は十一面観音。通称、岩殿観音。逗子八景の1つ。また、一時期逗子に滞在した泉鏡花が当寺をしばしば訪れたことが知られる。 岩殿寺縁起 相州三浦郡久野谷郷(神奈川県逗子市久木)海前山岩殿寺(現在は海雲山となっている)の由来は皇統四十五代の聖武天皇の勅願による大和の国(奈良県)の長谷寺の開山本願徳道上人が、この地に下向されたときに始まる。 それゆえ、当山は徳上、行基両上人の開基と言われている。また、大非殿前から南海を見渡せるので、山を海前(現代は海雲山)と名付け岩窟が自然の殿堂のようであったので、寺を岩殿寺と号したといわれる。 正暦元年庚寅春三月十七日六十五代後白河法皇が来山され、ここを坂東三十三カ所第二番の霊場とお定めになった。なお、源頼朝が蛭ケ児島にいた頃、文覚上人の勧めで、当時の本尊を厚く信仰し、夢に現われてお告げを蒙ることがしばしばあったという。戦乱の折、敗色濃くなってからも、大非の冥助幾度も得て、立直れたというが、なかでも石橋山敗軍のときは、観世音が船人ととなって頼朝を房州洲崎に渡してたちまち十一面観世音の妙容をあらわして、三浦の方にとび去ったという。頼朝は御報恩のため御来印を下賜され、治世の間は毎月欠かさず参拝されたという。 ここの坂の上からの眺めながら、父のことを思う。 家族ふれあい新聞にかって岩殿寺に参ってバスを待っていたとき、 トンビ が高い電柱の上に 羽根を休めていたのをみて、トンビの目線で文章を綴ったものを送ったら、父が褒めていたと母から聞いたことがある。そういうこともあって、ここに参ると、父のことを思うのである。 まことに家族ふれあい新聞を1200号以上続けていて、思ったことは、親というものは有難いものであるということであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年09月25日 22時15分49秒
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