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カテゴリ:報徳記&二宮翁夜話
![]() 「正伝 後藤新平3 台湾時代1898~1906」(鶴見裕輔著)341~346頁 (読んでわかりやすくするため、本文の「濫觴」を「始まり」へ、「甘蔗園」を「サトウキビ畑」など訂正した) 砂糖政策 台湾における砂糖の始まりは、遠く隋朝時代に遡る。当時中国人によって移植された農作物のうち、サトウキビこそは最初のものであったと伝えられる。その後オランダ統治時代においては、すでに台湾物産の重なものの一つに数えられ、サトウキビ畑は田の約3分の1を占めていたといわれる。 鄭成功が台湾を支配するや、自ら努め励む方策を立てて、福建地方よりサトウキビの苗を輸入して、糖業を奨励し、台南地方の平原多くはサトウキビの耕作のために開拓されて、その後50年間に、台湾砂糖の産額は約3倍に上った。しかし、清朝時代に入ると、政府は全く保護を加えることなく、ひたすら厳しく税金をとることに努めたために、治世250年、ほとんど何らの進歩を見ないで終わった。加えるに中国資本家は、耕作者あるいは製糖者に資本を前貸しする術策によって、金利と糖業の利と、二重の利益を一人占めして、生産者を苦しめたために、台湾が数百年の間に砂糖より得た利益は、少しも糖業の改良に費やされることがなかった。その製糖の方法やサトウキビ耕作法が、数百年前に異ならず、幼稚で原始的なものにとどまったのは、このためである。 後藤新平は、民政局長として、新領土に赴任した当時の台湾糖業は、 上田恭輔の回顧したように、 初めて台湾に赴任した頃の、在来種の甘蔗は、釣り竿よりも細く、ヒョロヒョロとした実に貧弱なもので、大きな石臼の上で水牛が漫々緩々とこれを圧砕し、薄汚い蜜汁のトロリトロリと滴(したた)る中には水牛の小便も混じり、これが精製されたところで一塊の黒砂糖たるに過ぎず、況(いわん)やこの産額にいたっては論外に僅少であった。 という状態であった。しかも台湾の糖業が、このような幼稚な産業制度にもかかわらず、なおよく5千斤ないし1億斤を生産し、輸出もまたこれに準じて少なくなかったことは、台湾島が砂糖産地として、いかに天恵無限であるかを示すものであった。この原始的な糖業を近代化して、この埋もれた財宝を採掘増減するには、2つの大方策が必要であった。 一つは農業的に、蔗種と耕作法とを改良することであり、他は工業的に、従来の糖ロウと称する原始的生産法を廃して、大工業制度に移すことであった。 しかして第一の農業的改革の重任を授けられたのは、アメリカ帰りの若い農学者、新渡戸稲造であった。後に台湾糖業の基礎となる「糖業改良意見書」を提出するにいたるまでの経緯について、新渡戸自身の回顧談を引用すれば、次のとおりである。 着任後2か月も立たないうちにすぐにジャワに製糖事業を見に行きました。私は殖産局長というので台湾の財政の独立を計画するについて、台湾にどういう産物が最も適しているかにということについて意見を書いてくれというわけでありました。私は砂糖だナと思って、それじゃとにかくジャワに行って砂糖を研究しましょうと申しますと、すぐに行ってくれということになった。それから帰って全島をわずか3週間ばかり歩きました。汽車もろくにない時分でありました。そうして台北に帰って来る、「君、すぐに意見書を出してくれ」と後藤さんが言われる。「わずか3週間見たくらいでありますから、意見書はもっと調べた上で差し出します」「イヤ調べなくても良いからすぐに出してくれ」「それは困りますナ」私は今こそこんな変な者になってしまいましたけれども、その頃はまだ自ら学者おもって任じておったから、学徒としてさような軽率な意見書は出せないと思ったので、「よく調べていろいろ参考書も見てから意見書を書きます」と申しますと「イヤそんな事は要らない。台湾のことのよく分からないうちに書いてくれ。君が台湾の実態を知ると、眼が痩せて思い切った改良策が出なくなる。ジャワを見た眼の高い所で書いてくれ。行われない事でも何でも良いから、高い所を見た眼で書いてくれ」と言われました。その時に児玉さんも後藤さんもそういう風なやりかたであるから、思い切った事が成るのだと深く感じました。ところが実際にうとい学説や理想論などを言って頭からはねつけられると思っておりましたが、幸いにも私の意見が容れられました。 さらにこの『糖業改良意見書』に対する児玉総督の態度について、新渡戸は、自著『偉人群像』(333~336頁)のなかに、次のように語っている。 わが輩殊に児玉将軍に接して、彼の心の動きに感服したことは、右に述べた産業意見の内に、糖業に関する意見書を総督に出したが、総督自ら読むに先だちて、関係官衙(かんが)の者共が考究して、終りに総督の手元に達した。スルト総督はこの意見書を読み終って、わが輩を呼び出したので、我輩総督官邸に行くと、児玉総督は軍服を着て、唯(ただ)一人机の側に坐っていた。その机の上には、我輩の意見書が一冊横たわっていた。我輩を見るや、 児「君、僕はこの糖業意見書を見た。しかも二度繰返して見た。一体わが輩は書類を二度も繰返すことはしない男だが、台湾財政独立の基を築く根底論であるから念を入れて見たが、そこで聴きたいことがある。君これで行けるのか。」 新「はい、行けると思えばこそ書いたのであります。」 児「本当にこれで行けるかね。」 新「はい、技術上、学術上から推せば、必ず行けると思います。しかしjこの意見書通り、実行するかせぬかによるのであって、この中に殊に閣下に読んでいただきたいと思うところが、一ページ御座いますがお気につきましたか。」 というと暫く首を傾けていたが、 児「それはフレデリック大王のことではないか。」 新「全くそうであります。フレデリック大王がプロシャの農政改革実行の為めに、時には警察権を用い、時には憲兵の力をかりたりして、なかなか手きびしくやりました。しかるにここに糖業を基礎として台湾財政独立を計るには、フレデリック以上の決心を要するものと思います。なかなかこの保守的の農民を相手に改良種を植え付けたり、進んで機械を用いることは容易でなかろうと存じます故に、仮に閣下が私にこれをやれと仰せられたところで、一兵卒のない技術官には何も出来ません。とに角この意見書でやるかやらないかという問題は、全く総督の決心一つによることであります。」 と述べたところ、総督は椅子から立ち上がって、部屋の中を5,6度も歩き出した。 わが輩は彼の返事がイエスかノーか、彼の態度様子について注目していた。暫くあって彼は再び椅子に戻って来て、手を振ってニッコリ笑いながら、 「君、やろう。」 この一言が即ちかの台湾糖業の今日の大発展の出発点となったのである。 児玉将軍の「行(や)ろう」という一言は真に力強いものであった。 何ゆえなれば彼は思想の人より実行の人である。彼の履歴を見ても、実行、敢行、断行の生涯が一貫されている。
最終更新日
2010年01月09日 05時36分46秒
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