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カテゴリ:報徳記&二宮翁夜話
児玉源太郎台湾総督時代の後藤新平、新渡戸稲造の砂糖政策その9 後発製糖会社との比較 久保氏は台湾製糖が後発製糖会社と異なる第一の点は、1901~06年の創業期に限られているものの、合計256万円にのぼる補助金が台湾総督府から与えられている点とする。 1901年12,000円、1902年56,000円、1903年52,000円、1904年56,000円、1905年40,000円、1906年40,000円、6年間にわたり補助金が給付されている。 「この台湾総督府による補助金の給付に関しては、台湾製糖の特別株主協議会において後藤民政長官が次のように明言し、台湾製糖の操業開始に対する総督府の全面的協力を約束している。 『余ハ製糖業ニ就テハ甚タ無経験ノ方ナレトモ台湾ニ於ケル砂糖製造事業ハ有利ナルコトト確信セル者ナリ且ツ総督閣下ヨリモ当事業ニ就テハ最モ出来得ル丈ケノ保護ト便宜ヲ与フヘシトノ御命令モアリタレバ余ハ斯業ノ発達ニ付充分尽力ヲナス覚悟ナリ』と。」 補助金については、1900年(明治33)6月30日に「糖業御保護願」が台湾製糖から児玉総督に提出されたのを受けて、同年9月6日付けで「会社成立シ事業ニ着手シタルトキハ本年中ニ於テ金一万二千円ノ補助金ヲ下付ス」との返答が総督府側から「命令書」という形ですでになされていた。 ※久保氏の「植民地企業経営史論」には言及はないが、台湾製糖創立に関して児玉総督が補助金を給付する旨約束した話が「鈴木藤三郎伝」(鈴木五郎著)に出てくる。鈴木藤三郎は支配人として入社することとなった山本悌二郎と三井物産会社の調査課員である藤原銀次郎を伴って、明治33年10月3日に神戸を出帆して7日に台北に着いて総督府を訪ねた。その後10月13日まで台北に滞在して下調べをしてから14日に基隆(キールン)を出帆して16日に安平に上陸して台南に行った。そこで3日間準備して19日から実地踏査に入った。高雄で陳中和に面会後、鳳山に行き、万丹、東港をへてボウ寮に行った。このボウ寮のさらに南に台湾映画「海角七号」の舞台となった恒春がある。藤三郎達はボウ寮から北に転じて台南に帰った。この間2週間。更に最初に工場地として考えていた麻豆に出て、さらに北の布袋市に行った。そこから塩水港に出て新営所に至り、軽便鉄道で台南に帰った。この間11日間、都合25日かかった。実地踏査を終わった鈴木達が総督府を訪ね、待ちかねていた児玉総督に事業そのものは、本質的には技術的にも大いに有望であるという詳しい報告を行った。 「どうだ、台湾は宝の島だろうが!」 児玉総督は、顔をほころばせて言葉を発していない藤原銀次郎に言った。 「だめです!」と藤原は言った。 「だめエ・・・?どうして、だめなのか?」 「そりゃア、だめですよ。交番へ泊るよりほか泊まる所もなく、どこへ行くにも巡査や兵隊に護衛された上に、各自がピストルを持っていなければ、視察もできないように不便な物騒な所で、いくら将来は有望だからといって、仕事ができるものではありません。」 すると総督は怒ったように、 「土匪のことは、おれの方の仕事だ。2,3年のうちには必ず奇麗に掃除するから、それができたものとして考えたらどうか?」 藤原銀次郎は後に王子製紙会社の社長から商工大臣になっている。したたかなのだ。 「それでもだめです。とても引き合いません。事業というものは、もうからなくては起こるものではありません。損をするにきまっているのに、わざわざ資本をおろしに来るものはありません。あなたがたは、台湾開発のために製糖業を起こしたいといわれますが、それなら資本家に損をさせず、もうかるようにしてやらなければいけません。そうしなければ、本当に資本を持って来て仕事をする者はありません。」 (何か藤原の発言は資本主義社会の本質をついている。資本家がもうかるように社会の仕組みが構成されている。政府の主要な仕事は資本家がもうかるように基盤を整備し、税制を優遇し、資本を誘致して産業を発展させることであるらしい。結果として富める者はますます富むというわけだ。それ一辺倒では貧富の差が拡大するばかりだから、修正資本主義が生まれたということであろうか。) 児玉総督は藤原の言葉をしばらく考えていた。 「それは、君のいう通りだ。それなら、どうしたらよいのか?」と静かに聴いた。 「総督府が8分なり1割なり補助をして、もうかるようにしてやるのです。」 「よろしい、補助しよう。」総督は、ハッキリといった。 「それでは、帰って、益田に、その通り復命してもよろしゅうございますか?」 「よろしい。」児玉総督はニコリとして言った。 これが台湾製糖会社に補助金が下付された理由であり、「総督閣下ヨリモ当事業ニ就テハ最モ出来得ル丈ケノ保護ト便宜ヲ与フヘシトノ御命令モアリ」と後藤新平が語ったように準国策会社として特別の保護を受けた発端でもある。 久保氏が後発の製糖会社と異なる第2の点は、政府による資本参加はなかったが、「宮内省の所有分1000株と毛利元昭(1000株)をはじめとした華族の8名分 3150株とをあわせて、皇室関係が全株式の21%を占めている点である。これは、台湾製糖の発案者である井上馨自らが、同社の株主募集に際して毛利家をはじめとした皇族関係者に対して積極的に働きかけた結果であるが、このことは井上の以下の発言からも明らかである。 『新規ノ製糖事業ヲ今日ノ台湾ニ創始シヨウトスルガ如キハ、全ク国家的ノ事業ニ属スル。普通一期半期ノ配当ヲ顧慮スル一般的株主ノ烏合ニテハ、事ヲ成ス所以デハナイ。宜シク予ガ三井家並ビニ毛利家ヲ説キ、此処ニ資本ノ中堅ヲ定メタ、三期、五期ノ損耗無配当ヲ予メ覚悟シテ当ラセヨウ』と。 三井物産及び皇室関係という台湾製糖資本の中心が、井上個人の尽力によるものであったことを示している。そして、台湾製糖の国策会社的側面として後発製糖会社と異なる第三の点は、植民地台湾における近代的製糖会社のパイオニアゆえの特権が存在したということである。具体的には、粗糖生産を営む台湾の製糖会社として原料を安定して調達する上で欠かすことのできない条件を台湾製糖は獲得した。まず、原料となる甘蔗の栽培が最も盛んな台湾南部を中心に広大な原料採取区域を所有するに至り、多くの甘蔗を同区域の現地農民から買い入れることが可能となったこと。それに加えて、高雄州の第一工場に隣接する広大な土地を自社栽培用の社有農園に利用するために低廉な価格で購入することができた点があげられる。とりわけ後者の土地購入については、1920年代中期以降の蓬莱米と相克状況下にあっても安定した原料甘蔗の供給を可能にした自社栽培主義を実践する上での礎となるが、ここでは台湾製糖の初代社長となる鈴木藤三郎自らの現地調査と、それにもとづく鈴木の先見の明によってもたらされた点に着目したい。この点に関しては、台湾製糖が創立するに至って間もない特別株式協議会において、井上自身が「保護ト便宜トヲ有シテアル間ニ於テ当社ノ耕地ヲ買入置キ度キ希望ナリ」と、いまだ競争会社が存在せずコスト面や資金面の特権が十分に活用できる現段階こそは社有地購入の絶好の機会であることを説いている点が注目される。なぜならこの特権的な利点の活用こそが、台湾製糖が他の後発製糖会社とはその性格を大きく異にしているからである。 以上検討してきた3点が、台湾製糖が後発製糖会社として異なる点、すなわち「準国策会社」の国策会社的側面であり、植民地台湾における近代的製糖会社のパイオニアとして台湾経営そのものを軌道に乗せるという国策的使命を担うに至ったことの当然の結果だった。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年01月17日 11時12分34秒
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