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2012年03月03日
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<遠州報徳「師父の風景」2>耕地整理の父 名倉太郎馬

遠州報徳「師父の風景」1の荒井由蔵の事蹟の最後で名倉太郎馬(なぐら・たろうま)という静岡県袋井の人が出て来る。名倉太郎馬は「耕地整理事業の父」と称される。太郎馬が主導した耕地整理は静岡県だけでなく全国の耕地整理の模範となり、農業生産を挙げることとなった。太郎馬が記録した「静岡県磐田郡における耕地整理の起因」の概略は次のとおりである。

「磐田郡における耕地整理の起因はどこにあるか。その由来は遠くはない。同郡の田原村彦島30町歩余りの耕地整理が源で、この事業の企画は明治5年である。

 彦島村の耕地整理は、明治維新後旧幕を廃し、徳川藩庁となった中泉郡政役所の支配下だった時代、当村は水害のため異作が続き、村民は怠惰に流れ、農業を放任し、自ら耕作に尽力する者もなかった。このため、借財が集積し困窮に及んで、全村民が転居する傾向があった。当時の村長は憂慮して、挽回の方策を藩庁に出願した。

 藩庁は遠江国報徳社員神谷庄七郎氏と荒木由蔵に命じ、明治4年11月に当村に出張させた。翌明治5年1月以来、一村の救済策について、村民の職業、家事経済に至るまで改革を行い、実行させた。特に農業はその栽培、耕作法から種苗の精選、堆肥製造及び施肥の方法まで、すべて農業の学理・技術を説明し、田地を定規植えすると収益が多大となることを説明した。

 不肖太郎馬は熟考した。従来の道路や畦は曲がりくねって実行が難しい。明治5年4月、字前田の地約5反歩余りは太郎馬と他の一名の所有だったが、所有者にはかって、同所の道路と畦を取り去り、新しく道路と畦、水路を設置した。田植えの時にこれに縄を張って定規植えの方法を施行したところ、その区画は整然として美観となり、縦横がまっすぐなために除草の際労力が少なく、日光や空気の流通がよいため肥料の分解を促し、また道路も肥料や収穫物等の運搬に便利で、水路は灌漑や排水を自由にできるようになった。

 以上のように模範的耕地整理となり、非常な好成績を得て、農業経営上収益が多かった。そこで全村の耕地整理を企画提案した。村民は皆収益の大きいことを目撃したため、全員賛同し、同年直ちに工事に着手し、耕地の中央に、北境西島から南境松袋井に至る長さ500間余りの幹線道路を設け、土地所有者相互の協議が決定した所から順次改良した。明治7年2月神谷氏と同道して浜松県庁に出頭し(明治4年12月から浜松県庁)、明治7年から同16年に至る十か年の一村回復見積書を提出した。神谷氏は上申書を提出した。これは悪水路に関するもので、彦島は低地で、太田川、原野谷川の二つの川の間にある。上の数か村のところで流れが滞留し、年々洪水のために作物は被害を受けて、現在のような困難に陥った。これを除く方法を講じなければ、今回の回復も計画の期間内に成就することが難しいと悪水路模様替目論見書と図面を添付し上申した。県庁は実地踏査の上、関係の9か村の村長や村民代表を県庁に数回集めるなど協議した結果、同年12月、悪水の水路を全面的に建設しなおすことになった。

悪水路の流れは、西方御厨村新貝字藪先という所で、太田川に放流していた。これを彦島地内から南方の松袋井を経て、西浅羽村長溝地内で原野谷川に放流する事とした。9か村地内約1里余の悪水路の修正は、明治8年1月に着手して同年12月に竣功した。耕地整理によって実に10町8反歩が増加した。このように耕地の増加したのは、彦島村は水害が多い所で不毛地が多く、沼など雑草等が生ずる所が多かったことによるためで、耕地整理、土地改良によって、以後水害を免れる事ができ、効果が大きかった。

 

 彦島村の悪水路修正の経費は800円余りに及んだが、当時村は困窮していたため、県から無利息年賦償還の借用をした。以後水害の憂慮がなく生産技術も進歩し、村民が皆農業に励んだ結果、十分な収穫が得られ、10年の見積仕法もわずか5年で、明治11年12月には、公私の借財や耕地整理費の借入金など合計4,000円余り全て償還し、なお800円余りの剰余金を生じた。

 耕地整理の効果の状況は他町村の有志が聞き知って遠近各地から彦島村の悪水路及び耕地区画の修正並びに報徳結社方法及び困窮村落回復の方法について来訪する者が多くなった。以来本県で報徳結社が盛んになり、耕地整理が盛大になったのも、理由がないわけではない。

 明治32年になって、田原村全部の耕地整理の施行に際して彦島もまたこれに参加し第二期の修正を成すに至った。近来各地に行われる耕地整理の方法はこれを欧米の文物に採って、学理を応用し農業収益を増大することを目的としている。因みに記す。

我が国における耕地整理の起因は実にここに存するであろう。明治32年法律第82号により耕地整理法が公布されて以来、この法律の保護の下に全国各地で耕地整理が振興し、岐阜県ではその認可面積が我が国第一位を占めるに至っている。   名倉太郎馬記」                    

鈴木藤三郎氏顕彰第1集を台湾で印刷するきっかけを作ってくださった高雄の故利純英氏に「利さんのエッセイと観音像の写真を使ってよいか」と始めてメールを出したとき、2009年11月12日付けで次の返信メールをいただいた。

「 突然のメールありがたく拝受いたしました。  

 実は今日、静岡県の袋井市から原田市長をリーダーとする、大きなグループ120名(以上)の市民の方々が夕方台湾の南部高雄に到着しました。あすの朝観光バス4台にマイクロバス一台に分乗し、屏東製糖所の地下ダムを見学に行きます。このダムを作った方が袋井市の出身です。台湾から(鳥井信平氏の)胸像をもらった恩返しにこのダムと屏東県長を訪問します。この本の作家平野久美子も同行しています。この主人公は日本南極探検隊のリーダー鳥井鉄也の父で鳥井信平と申します。

   さて用件ですが勿論自由に使ってください。観音様の画像はよければ私が現場に出かけ撮影してメールで送ります。この場所は木がこんもりと茂っておりますので撮影がむずかしいのです。もしすこしまずくても良ければ撮りにいきます。今月盛大なお祭りがありました。観音様についてもっと詳しい書き物がありますが、みな中国文で書かれています。 利純英」

 袋井市出身の鳥居信平氏は台湾製糖に務め、社長にもなった。技術者でその地下ダムは環境にやさしいダムとして評価され、台湾においてその業績が高く評価されている。

 鳥居氏が袋井出身であることから、「袋井市の原田英之市長は、信平の活動に『報徳運動』が影響しているのでは、と指摘している(「水の奇跡を呼んだ男」平野久美子著p148)。

 鳥居信平と報徳を直接証明する確たる史料はまだ出ていないが、少なくとも名倉太郎馬らの報徳の師父が築き上げた袋井の「区画整理の美観」を見、水路整備によって土地が水害を免れ、人々が困窮を脱したという話は信平少年の脳裏に刻まれたように思われる。

それは安居院庄七が遠州の報徳運動にもちこんだ定規植えや荒井由蔵が私財を投げ出して自村に水路を設け、土地改良を行ったことに起因している。そして名倉太郎馬の区画整理事業は国で「耕地整理法」とし全国の耕地整理事業へと結実していく。中国には「飲水」という考え方がある。最初に井戸を掘った人の恩に感謝するというものだ。私たちも耕地整理や日本における産業革命の起因となった報徳の師父たちの業績について思いをいたすときなのであろう。






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最終更新日  2012年03月03日 08時52分08秒



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