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2012年08月03日
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カテゴリ:遠州の報徳運動

Tです。

 

今晩は。

さて、過日 お会いした時に話のでました、

耕地整理発祥の地 の 立て看板の写真を送布致します。

 

通勤路にあり、毎日見ているのですが、今日 車を降りて

みると、新しく「碑」が立っていました。

それも送付致します。

ご参考になればと思います。

よろしくお願い致します。

 

「碑」には 表面に

 

 耕地整理発祥の地

 

横面に

 

 名倉太郎馬没後百年記念事業実行委員会

 

 平成24年5月建立

 

とありました。

 

Tさま  

耕地整理記念碑写真ありがとうございました  

ごく最近建てたばかりなんですね  

地元で顕彰の動きがあることは素晴らしいですね  

名倉太郎馬の功績ももっと世に知られてよいと思います  

袋井市史には次のとおり載っていました

 

 

袋井市史 史料4 38-41ページ

 

35 名倉太郎馬の耕地整理事業  太郎馬記

 

静岡県磐田郡における耕地整理の起因

 

 それ磐田郡における耕地整理の起因何時の辺にかある、けだしその由来遠からず、然りと雖どもこれを他県他郡に比べればその遥かに先発なりしと思うべし。

 そもそも、同郡田原村彦島の耕地三十有余町歩の整理これが源にして、その企業年度実に今を去ること三十四年前すなわち明治5年にあり、しかして同村の耕地整理と悪水路改修とはなはだ密接なる関係を有する故に、ここにこれを併記すべし。

 そもそも旧山名郡彦島村の耕地区画道路の修正、いわゆる耕地整理なるものは、明治維新後旧幕を廃し、徳川藩庁となりし中泉郡政役所の支配たりし時、当村は水害のため異作累年なりしかば、村民ことごとく懶惰に流れ、ただ天力に放任し、己が生業に尽力するものなかりしが故に、終に借財集積して困窮はなはだしきに及び、終に全村民挙げて他所に転ぜんとする傾向ありしをもって、村の長某氏大いにこれを憂い、搬回の策を藩庁に出願せり。

 然るに官これを容許して遠江国報徳社員神谷庄七郎氏(浜名郡の人)外1名は官命によりて、明治4年11月より当村困窮搬回委員として出張せられたり(同年12月浜松県となる)、しかして翌5年1月以来、一村の救済策に付き、村民一般の職業は勿論、家事経済に至るまで百般の改革を行い、これが実行をなさしめたり。なかんずく農業のごときその生業の主なるものなるが故に、その栽培、耕耘の法より種苗の精選、堆肥製造及び施肥の法に至るまで、すべて農の学理及び技術を説明し、これが奨励中、田地定規植えの収益多大なるを説示せり。

 ここにおいてか 不肖 太郎馬熟考するに、従来の道路畦畔は迂回屈曲はなはだしきが故に、到底これが実行の難きを悟りて、同年4月、当村字前田と称する地およそ五反歩余は太郎馬及び他一名の所有なりしをもって、これが所有者にはかりて、同所の道路畦畔をとりさりて、更に新道路畦畔溝渠を設け、挿択期に至りてこれに筋縄張り定規植えの法を施行せしに、その区画整然として美観を呈し、かつ畦間の縦横真直なる故に、除草に際し大いにその労を節し、日光空気の流通よろしく、従って肥料の分解を促し、又道路はもって肥料収穫物等の運搬を便し、溝渠はもって灌漑排水を自由ならしめたり。

 以上のごとく模範的耕地整理にして、非常なる好成績を得、農業企業上収益の大なるものありしかば、これを当村土地所有者にはかりて、全村耕地の整理をなさんことを企てしが、村民皆収利の大なるを目撃したるが故に、ことごとくこれに賛同し、同年直ちに工事に着手し、耕地の中央に、北境西島より南境松袋井に至る長さ五百有余間の幹線道路(幅8尺)を設け、これを基礎として土地所有者相互の協議決定したる所より、漸次これが改良をなせり。漸くて難村救済取調書等の編成終りたるをもって、翌明治7年2月神谷氏と同道して浜松県庁に出頭し、同年より同16年に至るまで十か年をもって一村の回復見積書を提出し、これに添えて、神谷氏の意見として外に一通の上申書を提出せり。該上申書はすなわち悪水路に関するものにして、当彦島は低地にして、太田、原野谷両川の間に狭まり、しかのみならず上郷数か村流留により、年々洪水のために作物は水腐の害を被むり、これがために現今のごとき困窮に陥りたるものにして、今にしてこれが除害の策を講ぜざれば、今回の回復もその見積年限内には成就し難しとて、悪水路模様替目論見書及び図面を添付して、上申せり、ここにおいてか県吏直ちに出張し、実地踏査の上関係9か村の戸長及び人民総代を県庁に召集すること数回、小区事務所に出張することまた数回、種々協議ののち同年12月に至り、悪水流路を更定するに至れり。

 元来この悪水路の流末は、西方御厨村新貝字藪先と称する所にて、太田川に放流したりしが、これを彦島地内より南方松袋井を経て、西浅羽村長溝地内において原野谷川に放流する事となり、9か村地内約1里余の悪水路修正は、明治8年1月より着手して同年12月に至りてことごとく竣功せり。しかして当彦島もこれと同時に、右悪水路を初め道路及び畦畔溝渠等に至るまで、同年12月地租改正の際、土地丈量と併せてこれが竣功を告げたり。

 しかして耕地整理のために増歩すること実に10町8反余歩に達せり。それかくのごとき多大なる増歩地を生じたるは、只管当村は水害多き所とて不毛地多く、沼沢等葺又はその他雑草等の叢生する所多かりしに依るべしと雖ども、その増歩2割5分以上に達し、またこれが改良によりて爾後水害を免れる事を得たる等は、実にその効の大なるものありて存するなり。

 しかして以上のごとく彦島耕地悪水路修正に関する諸費総額は八百余円に及びしも、当時困窮の事とてこれが費用は一切徴収する事なく、これをことごとく県より無利息年賦償還の借用をなせり。爾来水害の憂いなく農産の術も進歩し、村民皆勉励もってその業に務めたりしをもって、充分なる秋収を見るに至り、十か年の見積仕法もわずか五か年にして、すなわち明治11年12月に至り、数十年渋滞の公私の借財並びに耕地整理費の借入金等合計四千余円はこれをことごとく償還し、なお八百余円の剰余を生ずるに至れり。

 それ耕地整理の効たるや、かくのごとし。これら実況を他町村有志の聞知する所となり遠近各地より当村悪水路及び耕地区画の修正状況並びに報徳結社方法及び困窮村落回復の方法に付き、来訪するもの日々多かりし、以来本県において報徳結社の隆盛を致せるとともに、また耕地整理の盛大を極める、また故なきにあらず。

 かくて明治32年に至り、田原村全部の耕地整理施行に際し、当彦島もまたこれに参加せられて第二期の修正を成すに至りしが、近来各地に行われる耕地整理の方法はあまねくこれを欧米の文物に採り、学理を応用してもって農業収益の多大を企図するにあり。因みに記す。

 我が国における耕地整理の起因実にここに存するならん。しかして明治32年法律第82号をもって耕地整理法を公布せられて以来、これが保護の下に全国各地これが趨勢大いに振るうに至れり。ことに岐阜県のごときその認可面積我が国第一位を占めるに至りしなり。

                                名倉太郎馬記

 






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最終更新日  2012年08月03日 01時49分39秒
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