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2012/09/24(月)05:13

「二宮尊徳」宇野浩二著 その2 父の死と家族の離散

  3年ちかく病気をしていたけれど、やはり、一家の柱である、利右衛門がいなくなると、一家はたちまち途方にくれた。そこで、尊徳は、一しょ懸命に、縄をない、薪を取りにいった。また母のおよしは、7畝28歩の田地を一両三分に売って、一時をしのいだ。が、それでも、やりきれまくなって、末子の富次郎を、一度はよそにあづけ、終には、西栢山の、奥津甚左衛門という、弟の家に、里子にやることにした。ところが、およしは、富次郎を弟の家において、つらくはあったけれど、ほっとして、家に帰ってきたが、床にはいってから、どうしても寝つかれない。尊徳が、どこか気もちがわるいのですか、と聞いても、およしは、別に何ともない、と聞いても、およしは、別に何ともない、といったが、二度三度と聞かれて、ようやく、「乳がはって、乳がはって・・・・・・」といった。そこで、尊徳が、それでは、富次郎も、今頃は、おなかがすいて、泣いているでしょうから、すぐ連れて帰りましょう、というと、「しかし、そうすると、また、明日から困るから、・・・・・・」と母がいった。そこで、尊徳が、それなら、私が、富次郎の厄介のかかる分だけ、朝はやくおきて、久野山に行って、薪を取りにゆき、夜は、おそくまで起きていて、ワラジを作りますから、「どうぞ、富次郎を、連れもどしてやって下さい、明日の朝はやく、自分が迎えに行って来ましょう」というと、母は、西栢山までなら、一と息だ、といってその夜のうちに、西栢山まで、行って富次郎を連れて帰った。 それから、11歳の友吉は、富次郎のもりをし、尊徳は、いよいよ、薪を取りに行くことになったが、栢山には林がないので、久野山、矢佐芝山、三竹山などに行った。 しかし、それらの山までは、いづれも一里ぐらいあるので、もう秋の頃であったが、尊徳は、夜の明けないうちに起き、山から帰ると、売れのこりの、七段ばかりの田地を見まわり、取って来た薪や柴を小田原まで売りに行き、夜は、縄をない、ワラジを作った。 そうして、薪を取りに山へ行く道すがらも、薪をせおって山から帰る道みちも、縄をないながらも、ワラジを作りながらも、尊徳は、『大学』その他の本を読んで、勉強した。 そうして、尊徳は、15歳になり、16歳になった。   その16歳になった年(享和2年)の正月、もう友吉は13歳になり、富次郎は4歳になった。 正月になると、毎年、大神楽がかどなみに来る。大神楽は、五穀豊穣家内安全の祈りをするのであるから、来れば、少なくとも、十二銅を紙につつんで、やらねばならない。 今年も、その大神楽が、遠く、村はずれの方から、笛と太鼓の音をさせて、ちかづいてきた。その音を聞いて、まず聞き耳をたてたのは富次郎で、つぎに友吉が目をかがやかせた。それから、およしと尊徳が目を見あわせた。およしは、少しあわてて、ひとりごとのように、「神棚になかったかしら」といった。しかし、あるはずがない。そこで、尊徳は、いくら貧乏でも、栢山で二宮の家だけ十二銅ぐらいない、といって、ことわるわけにいかないので、「留守ということにしましょう。」といって、母に弟たち(ことに富次郎)をなだめてもらって、自分は表戸をしめた。  この年の3月の24日、およしの父、(尊徳の祖父)川久保太兵衛が死んだので、その葬式のある日、およしは富次郎をせおい、尊徳と友吉をつれて、曽我別所村の里に、行った。 ところが、およしだけは白無垢をきていたが、それにしても、親子の服装があまり見ぐるしいというので、いよいよ正式の葬儀に移ったときは、その式場に出ることを断られ、葬儀がおわってからの、お齋(とき)の食事も、べつの部屋で出されたので、およしは、ご飯も食べないほどくやしがり、涙をこぼして、なげいた。 尊徳は、その帰り道をあるきながら、自分もくやしかったのをこらえながら、一しょ懸命に母を慰めた。ところが、この時のくやしさと悲しさが、心にも、からだにも、こたえたのか、およしは、それから、まもなく床につき、十日ほど後、4月4日、36歳で死んだ。その時、長男の尊徳が16歳、つぎの友吉が13歳、下の富次郎が4歳であったから、母の四十九日の日、二人の弟は、母の里の川久保家にひきとられ、祖母にそだてられることになり、尊徳は、すぐ近所の、伯父の万兵衛の家に寄食することになった。そこで、万兵衛は、親類の人たちと一しょに、残っていた、六段何畝の田に苗を植ゑて、それで、三人の孤児の費用のだしにするつもりであった。ところが、その苗が育ちかかっていた、6月29日に、大暴風雨があって、酒匂川に大水が出て、尊徳の田地は、水のために、跡形もなくなった。そればかりでなく、伯父の田地も、やはり、押し流されてしまった。尊徳は伯父の家に寄食しているあいだ、毎日の百姓の仕事をはげみながら、滅びてしまった一家を復興するために、常にいろいろな研究や工夫をしようとおもった。しかし、それは、伯父に教えてもらえるものではなく、他の人に聞いてできるものではない、と考えた。それで、尊徳は、本を読むにこしたことではない、と思って、それには、読書や、童子教や実語教などを復習してから、『大学』をひろい読みした。ところが、伯父の万兵衛は、書物をよんだり、文字をならったり、する事は、武士や名主のすることで、百姓には、文字はいらない。いくら本を読んでも、一文にならぬ、無一文になった者が、一家を復興するつもりなら、一杷の縄でも、一足のワラジでも、造りさえすれば、五文か十文にはなるのであるから、決して本を読んではいけない、といった。この伯父の言葉には、夜業がすんでから勉強すると、それだけ余計に、行灯の油がいるという事と、百姓には別に学問はいらない、という伯父の長いあいだの農民生活の体験などから来た考えが含まれていたので、尊徳は、かえす言葉がなかった。しかし、尊徳は何とかして、どうにかして、勉強がしたかったので、行灯につかう油をつくるために、ある友人からアブラナの種を5勺ほど借りて仙了川の堤の近くの、用水のあるところに、アブラナの種を植えた。そうして、それからは、尊徳は、野まわりに出たついでに、その菜畑の世話をした。 その翌年の5月5日、端午の節句の日、尊徳は、伯父から、新しいハンテンをもらった。それがちょうど休みの日であったから、尊徳は、アブラナの収穫時であったことを思い出して、いそいそと仙了川の方へ出かけて行った。すると、しばらく来なかった間に、アブラナが、見事に、みのっていたので、尊徳は、ハンテンをぬいで、片端から刈って行った。そうして、刈りおわったアブラナの実を、草原の上にひろげたハンテンの上に、もみおとした。それが7,8升もあったので尊徳は、そのハンテンを風呂敷の代りにして、そのハンテンにつつんだアブラナの種を、となり村の、油屋嘉右衛門のところへ、持って行って、灯油とかえてもらう事と、ときどきそれを貰いにくるから、という事を約束した。そうして、これだけあったら、伯父さんに気がねしないで、夜学ができるぞ、とおもって、尊徳は、足が地につかないほど、喜んだ。ところが、10月の中頃、尊徳がいつものように、夜業を終わってから、勉強をしていると、思いがけなく、また伯父の万兵衛が、あらわれて、やはり、百姓に学問は無用である。いくら自分が作った菜種とかえた油であるからといっても、油代より時間が損である。それに、夜業の後で、学問をするだけ体がつかれる。それだけ翌日の仕事のさまたげになる、といった。この言葉を聞いて、尊徳は、伯父が夜業の後の勉強を反対するのは、油を惜しむのではないことを知った。そうして、それと共に、自分の一家を復興するには、学問が必要であるという意見と、一家を復興するには、百姓にはあくまで、百姓の仕事に専念しなければならぬという伯父の意見とが、まったくちがうという事を知った。といって、尊徳は、どうしても、学問をやめる気にはならない。 伯父の家に、円蔵という、万兵衛の妹の子、(つまり尊徳のいとこ)が寄食していた。それで、円蔵は、尊徳の学問に熱心なのに同情して、夜おそく尊徳が勉強しているところに来て、あかりのもれぬように、行灯に寝間着をかけながら「伯父は今よく眠っているから」としらせに来ることがしばしばだった。

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