GAIA

2014/09/02(火)02:15

朝は未明に起き縄をない、日々田畑に力を尽し、来年の田畑の培養に備え、夜は縄をない来年十分の作物を得たならば、家ごとに永続の根本となろう

現代語訳「報徳記」巻の2 【1】 先生墾田役夫を賞す ある時、物井村邑の荒地を開くこと数十町歩、この地の荒野に帰すること七,八〇年、大木が繁り、あたかも山林のようであった。村民だけの力では及ばないため、他国の者をも雇い、いばらを払い、高木を伐って、これを開いた。数月にして完成した。 この時に当って、先生は朝には人夫がまだ来ないうちに出て、これを待って指揮し、夕べには人夫が帰るのを待ってその後に陣屋に帰った。人夫を使うことはあたかも手足を心のままに使うようであった。このため人夫が五十人であれば百人の働きを行い、百人であれば二百人の用を行った。人々はその功の迅速であることに感嘆した。これというのも民に先だって艱苦を尽し、その者が知恵があるか愚かかを計って、知恵のある者は人々の先とし、愚かな者はその分に応じて働かせ、力を尽した者はこれに褒美を与え、怠る者はこれを激励した。昔の名将が士卒に号令することも実にこのようであったであろうと人々は目を驚かせた。先生と共にこの場に出て、指揮する役人が三,四人いた。 ある時に人夫の一人が衆にぬきんでて力を尽し汗を流し力を極めていた。小田原藩の役人はこれを見て大いに感じいって、彼は諸人より優れた働きをしている。このように力を尽すことはなんと感心な行いではないか。さだめて先生はこの者を褒めて、必ず多くの人夫の励みとなされよう、早く褒められればよいがと心にこれを待っていたが、先生が2度3度この者のところに来たが、その働きを見ても一言の褒め言葉もなかった。役人は大変これをいぶかんで当惑した。しばらくして先生はまたここに来て、大きな声で叱責された。「お前は私をあざむこうとしてこのような働きをなす、はなはだ不届きであると言うべきだ。私がここに来れば力をきわめ、汗を流し他にぬきんでた働きをなす。私がこの場を去ればきっと怠ることであろう。人の力はおのおのその限りがある。このように働いて、終日力を尽すならば、お前は一日で倒れてしまうことは疑いない。もしこのようにして一日中、筋骨が続く者であれば、私が一日中ここに在ってこれを試してみよう。お前はよく行えるか」と問うた。 人夫は大いに驚いて、地にふして答えなかった。 先生は言った。「お前のような正直でない者がいると人々が怠惰を生ずるのもととなる。人を欺いて事をなそうとする者は、私はこれを容赦しない。速やかに去って、再び来るな。」と言った。 村の庄屋が二人進み出てその罪を謝罪させた。人夫は大いにその過ちを謝って慈愛をこうた。先生はこれを許された。人は皆先生の見るところが明らかであって、人の見るところと異なることを驚嘆した。 時に人夫が一人、年はすでに六十歳の者がいて、日々この場に来て開墾していた。一日中、木の根を掘って止まなかった。人が休んでも休まない。人がこれに休んだらというと、老人は答えて言った。 「壮年の者は休んでも一日の働きが余りがあります。私は既に年老いて力が衰えている。もし壮年の者と一緒に休むならば何の用をなしましょうか」と。 小田原藩の役人はこれを見て、かの老人は日々木の根だけに心を用いるは、開発の苦労を人と一緒にするのを嫌がっているからだ。日々の働きも他の人夫の三分の一にも及ばない。先生はなぜこのような無益の老人を退けないのか、明知の一失であると言ってひそかにこれを嘲笑した。その後数日で開墾は成就した。村民の労苦をねぎら、他国の人夫を帰村させた。この時にこの年老いた人夫を陣屋に呼んで、先生自ら質問した。「お前の生れた国はどこか。」 【4】凶年に当り先生厚く救荒の道を行ふ 時に天保四年(一八三三年、先生四七歳)、初夏季節が不順で幾日も雨が降り続いて止まなかった。 先生がある時、ナスを食べたところその味が常と異っていて、あたかも秋の末のナスのようであった。先生は箸を投げられて言われた。今、時は初夏に当っている、それなのにこのナスが既に秋の末の味をしているのはただごとではない。これを考えるに陽の気が薄く、陰の気が既に盛んである。どうして米が豊熟することができよう。予め非常に備えなければ百姓は飢渇の憂えにかかろう。そこで三村の民に命令して言った。今年は五穀はよく実ることはできない、予め凶荒の備えを行え。一戸ごとに畑一反歩の貢税を免除するから、すぐにヒエを蒔いて飢渇を免れる種とせよ、ゆるがせにしてはならないと。諸民はこれを聞いて笑った。先生が明知あるといって、どうして予め年の豊凶が知りえよう。戸ごとに一反歩のヒエを作れば、三村では膨大なヒエとなろう。どこにこれを貯えるのか。それにヒエなど昔から貧苦に迫られても、まだ食べたことがない。今これを作ったとしても食べることはあるまい。そうであれば無用のものというべきだ。たとえ人に与えても誰がこれを受けよう。仕様もないことを命令するものかなと嘲った。しかし貢税を免除して作らせる。これに背けば必ず命令を用いない咎めがあろうと、やむを得ずすぐにヒエを作り、無益の事をさせるものだと恨みを抱く者があった。しかし盛夏になっても降雨が多く冷気が続き、遂に凶歳となり、関東奥羽の飢民は数えることができないほどだった。この時に当って三村の民はヒエで食の不足を補い、一人の民も飢えに及ぶ者はなかった。始めて先生のすぐれた智恵で予め凶荒を計って、しもじもの民を安らかにさせようとする深意を知って、自分たちの知の浅さを悟って、かつて無益の事とし、命を生かす命令を嘲笑したことを後悔し、大いにその徳を称揚した。 翌年に至って、先生は再び命令を下して言われた。天運には数があって饑饉となること、遅くして五〇年から六〇年、早くて三〇年から四〇年に必ず凶荒が至った。天明の時以来を考えるに飢饉が来る時期である。去年の凶荒はそれほどひどくはなかった。まだその数に当るに足りない。必ず今一度大飢饉が来ること近年にあろう。お前たちは謹んでこれ備えよ、今年より三年の間、畑の貢税を免除すること去年のようにするから、家々心を用いて、ヒエを植えて、予め飢渇の憂いを免るがよい。もし怠る者があれば庄屋はこれを察し、私に告げよと命じた。 三村は去年の予見が明らかなことに驚き、また飢渇の害を免れていたから、謹んで命令に従って、肥料をほどこして作った。このようにして三年で三村のヒエは数千石の備蓄ができた。 天保七年になって、五月から八月まで冷気・雨天が続き、盛夏でも北風の寒さは皮膚を切るようであった。常に着物を重ね着した。この年大飢饉になった。実に天明の大飢饉の年をはるかにこえているところがあった。関八州・奥羽は飢えた人々がおびただしく、飢死した人が道路に横わり、行く人はしめやかに顔をおおって通り過ぎた。この時に当って桜町三村の民だけがこの憂いを免れた。先生は三村を一戸ごとに回って、無難の者、中難の者、極難の者と、三段階に分けて、老少男女を選ばず、一人に雑穀を交えて、五俵ずつとし、その数に満たない者は補ったり、与えて、一戸五人であれば二五俵、一〇人であれば五〇俵、一五人であれば七五俵を備えた。貧者は豊年でもこのように豊かなことはなかった。先生はこう諭された。今年は飢饉のために飢え死にすることを免れない者が幾万人もいる。誠に悲痛のきわみに堪えないところだ。ところがお前達はこのように処置していたために、一人の民も飢渇の憂いがなく、平年と同じようである。これに安んじ、安座して食べる時は、冥罰の程が恐ろしい。お前達は世間の人の飢渇を察して、朝は未明に起きて縄をない、日々田畑に力を尽し、来年の田畑の培養の備えを厚くして、夜はまた縄をないムシロを打って、来年十分の作物を得たならば、家ごとにいよいよ永続の根本となり、天災が変じて大きな幸せとなることであろう、必ず怠ってはならないと教えられた。 三村の民は大いに感動し、専ら家業を勤めて、また一段の幸いを得たという。   ※桜町治蹟【七二】天保四年初夏、翁初茄子を食せしにその味秋茄子の味を為せり。翁は箸を投じて今日初夏に当り秋茄子の味がする。是はただ事ではない。晴れるかと思えば雨が降り又曇る。この際において非常なる備えを為すに非ずんば百姓飢渇に迫らん。ここにおいて三村の民に言いて曰く、今年五穀実らない故に畑一反歩その貢税を免ずる故に稗を蒔けよ。又木綿のある所は抜いて稗を蒔けと。然るに人民は之を笑い何ぞ年の豊凶を知らんや戸毎に一反の稗を作ることは余り多過ぎるかつ之を食わずに貯えて置くということは無用のことというべきだと嘲った。しかし命を用いなければ咎められることと思ってやむを得ずその命の如くした。果して翁の先見の如く暑中と雖も降雨多くして冷気なく関東奥羽の飢民甚だ多く枚挙にいとまあらずこの時三村は食物充分にして飢ゆるの憂いなく始めて翁の先見に伏した。翁は引続きて飢饉の来るべきを予知し今年より三年の間、畑の貢を許して始めて飢渇の憂いを免がるゝことを得べしとて前年の如く三年の間、稗を作らせたものであるから大いに貯えることができた。天保七年に至りてこの年の寒さは天明の時より殊に甚だしく、食するに物なくガヒョウ道に満ち黄金を枕にして死するもの相接し父子夫婦諸所に食を乞うて出で一家離散するものすこぶる多く惨状目も当てられざる有様なるに引換え桜町三村の人民においてはこれらの飢渇の惨禍を免るることができたのは思えば翁の恩沢の深さに依るより外ない。即ち翁の考えでは飢饉に免れしめんがために荒地明き地空地勿論木綿の生え立ちたる畑を潰して蕎麦・大根・かぶら・人参等を作らせて耕作栽培をやらせたので殊に茂木領に至りては堂宮の庭までも野菜ものを作ったということである。又陣屋の方にては一般に禁酒を励行した。それは一寸禁酒日数を計算しても十両位の金を貯蓄することができるのであるから十両といえばざっと米二〇俵の融通もできることともなるより禁酒せしめた又江戸及び小田原に貸し付けた報徳金は貸付を中止して飢饉の準備に当てた。こういう準備があったからこの天保七年の大飢饉を桜町の人民は免がれることができたのである。

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