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2014年12月19日
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平成26年12月19日現在
「報徳記を読む第2集-報徳は精神変革である」 (2014年12月発行)
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玉川学園創始者小原國芳―死すとも教壇を離れず

小原國芳は1887(明治20)年4月8日、鹿児島県川辺郡西南方村久志(現・南さつま市)に、7人兄弟の三男として生まれた。先祖は代々島津藩士。

幼少期に父親が事業に失敗し、一家は貧窮した。母が過労に倒れ、父もそれに続いた。國芳少年は当時、高等小学校を卒業したばかり。國芳少年は、中学校への進学を志すが、彼の希望はかなわなかった。

小学校卒業後、電気通信技術伝習生養成所に入学し電信技手となる。1904年日本とロシアが開戦(日露戦争)、仕事は多忙を極めた。しかし、國芳少年は、「教師になりたい」という夢を持ち続けていた。電信技手の仕事を4年間勤め、1905年に鹿児島師範学校に入学。さらに広島高等師範学校を卒業し、念願の教師として香川師範学校の教壇に立った。

その後、小原國芳は京都帝国大学の文科大学哲学科に進学。当時の哲学科には、西田幾多郎や波多野精一らそうそうたる顔ぶれが揃っていた。大学卒業後、広島高等師範学校の附属小学校に理事(教務主任)として赴任。1年後私立成城小学校の校長澤柳政太郎に請われて上京。成城小学校の主事、のち成城学園の幼・小・中・女・高の校長事務取扱を務めた。

「全人教育」を初めて公に語ったのも成城時代、小原國芳34歳のときである。
國芳は教育には人間文化の全部を盛り込まなければならないと説き、教育の理想を「真」「善」「美」「聖」「健」「富」の6つの価値を創造することにあると位置付けた。

その後成城学園の発展に尽力したが、旧制高校が設立されたことにより成城学園は帝大進学のための準備機関となり、受験教育に重きが置かれるようになっていた。これでは自らが望む新教育の理想を果たすことができない、一から自分の手で新しい学校を創りたい――そして、「夢の学校」実現へ、小原は目指す。「夢の学校」とは何か。それは、全人的な人格を育む、私塾のような場所。「マコトの教育」とは、すなわち、画一教育、詰め込み型の受験教育ではなく、宗教・芸術・道徳・哲学・労作教育を柱にし、調和のとれた「全人」を目指す教育であった。

まず、着手したのが、広い敷地を手に入れることだった。國芳が目を付けたのは、南多摩の町田と鶴川のあいだにある30万坪の林野であった。多額の借金をして、この土地を手に入れ、玉川学園を築いていく。

1929年の創立当時は教職員18人と生徒111人。合わせても、わずか129人という小さな学校であった。創成期には教職員と生徒が寝食をともにし、一日の授業を終えると労作に明け暮れた。やぶを開墾して畑をつくり、薪を割り、道路を整備し、運動場を建設した。教師と生徒が一丸となって、「夢の学校」を自らの手でつくり上げていった。
それから半世紀にわたって「夢の学校」は拡大を続け、幼稚園から大学・大学院までを擁する総合学園へと発展を遂げた。
 1932年に刊行した「児童百科大辞典」(30巻)は、項目別に編集された日本初の画期的な百科事典であり、多くの支持を集め、玉川大学出版部の礎を築いた。財産も講演料も印税もすべて学校経営につぎ込んだが、それでも資金が追い付かず、借金を重ねた。学園の建築費用だけではない。教育のためにと、國芳は創立の年に当時世界一といわれたオーストリア・スキーのハンネス・シュナイダーを招へい。翌年には礼拝堂にアメリカキンボール社のパイプオルガンを求め、健康教育のためにとデンマーク体操のニルス・ブック一行も招いた。
 小原は長生きの秘訣を「借金をすること」と笑って答えるほど、國芳の生涯は借金の連続であった。
すべてをなげうって「夢の学校」をつくり上げた人生であった。






1977年12月13日、その生涯を閉じるが、亡くなる4カ月前まで教壇に立ち、通信教育部夏期スクーリングで講義を行った。その姿を取材した朝日新聞の記事には「玉川大学総長91歳。“死すとも教壇を離れず”」と載せられた。教育者としての最後の矜持に多くの人が感銘を受けた。

そんな彼を教員や学生、生徒たちは「おやじ」と親しみを込めて呼び、心から尊敬した。小原國芳の教育に対して何も惜しまない姿勢は、現在も玉川学園の教育に脈々と受け継がれている。

著書に『全人教育論』『教育の根本問題としての宗教』『母のための教育学』『家庭教育』『理念の母』ほか多数。『小原國芳全集』(48巻)、『小原國芳選集』(6巻)がある。








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最終更新日  2014年12月20日 00時55分22秒



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