2017/06/25(日)18:09
一羽の弱ったコマツグミを もう一度、巣に戻してやれるなら わたしの人生だって無駄ではないだろう
If I can stop one heart from breaking,
I shall not live in vain;
If I can ease one life the aching,
Or cool one pain,
Or help one fainting robin
Unto his nest again,
I shall not live in vain.
一つの心が壊れるのをとめられるなら
わたしの人生だって無駄ではないだろう
一つのいのちの痛みを癒せるなら
一つの苦しみを静められるなら
一羽の弱ったコマツグミを
もう一度、巣に戻してやれるなら
わたしの人生だって無駄ではないだろう
エミリ・ディキンスンの詩の一篇
エミリー・ディキンソン Emily Dickinson
生前に発表した詩は、わずか10篇。
無名のまま生涯を閉じたエミリー・ディキンソンは、米北東部ニューイングランドで生まれ育ちます。
しかし彼女は、その生涯の大部分を、アマーストの家の中で過ごしました。
彼女の詩集を編集した批評家、トマス・ウェントワース・ヒギンソンヒギンスンは、彼女を処女隠遁者(ヴァージンリクルース)と呼びましたし、『ディキンスン詩集 海外詩文庫2』収載の、アレン・テイトによる詩人論には、「彼女ほどに、詩人すなわち詩である、ということがあてはまる詩人は他にいない」と書かれています。
1830年
12月10日、米マサチューセッツ州アマーストの旧家に生まれる。
1840~47年
アマースト・アカデミーに在学。
1847年~48年
マウント・ホリョーク女子セミナリーに入学、寮生活を経験するが、気管支炎や精神的疲労もあり、一年間で退学。 以降、静かに家事を手伝う生活に入る。
この頃アマーストはピューリタン・リバイバル運動の最中であり、厳しい校風のマウント・ホリョークでは生徒たちに信仰告白をせまった。 しかしエミリーには、どうしてもそれができなかった。
1848~49年
父の法律事務所の見習生ベンジャミン・ニュートンより、文学上の影響を受ける。 彼はエミリーに文学への関心をもたせ、詩作を励ました。
1850年
エミリー・ディキンソン肖像、1850年頃
ピューリタン・リバイバル運動により、この夏、多くの人たちとともにエミリーの父も信仰告白を行う。 エミリーひとりが抵抗を続け、世間から白眼視された。
1855年
2月~3月、父、妹とともにフィラデルフィアを訪問。 滞在中、彼女が恋したとされる牧師チャールズ・ワズワースに出会ったと言われている。
1860年
3月、ワズワース牧師がアマーストにエミリーを訪ねる。
この頃より本格的な試作が始まる。
父の友人で、のちにマサチューセッツ最高裁判事となったオーティス・P・ロードを知る。 彼もまた、エミリーの恋の相手とされる。
1862年
4月15日、批評家トマス・ウェントワース・ヒギンソンに手紙を書き、自作の詩4篇を同封して、批評を乞う。以降、彼との文通は生涯続けられた。
6月、ヒギンソンから才能は認めるが出版を遅らせるよう言われ、このことが彼女が生涯出版を断念するきっかけとなる。
1863年
この頃までに、終日白いドレスを着て家にひきこもり、誰とも会わない隠遁の傾向が常習化、家族が案じ始める。 またこの年より翌年にかけて眼を痛め、一時、失明をひどく恐れる。
1870年
8月16日、ヒギンソンがアマーストに彼女を訪ねる。すでに隠者のような暮らしを送っていた彼女との面会について、 ヒギンソンは「これほど神経がすりへるひとと話したことはない」と数日後手紙で妻に洩らしている。
1874年
6月19日、父が急死。
1875年
5月、母が脳卒中で全身麻痺となり、以後エミリーの世話を受ける。
1877年
12月、オーティス・P・ロードの妻が亡くなる。この後ロードとエミリーとは一時恋愛関係にあり、 80年代のはじめには結婚について話し合ったといわれる。
1882年
4月1日、ワズワース牧師死去。
11月14日、母が死去。
1884年
3月13日、オーティス・P・ロード死去。
6月14日、エミリーが過労で倒れる。
1885年
11月、腎臓炎の病状が悪化する。
1886年
5月15日、死去。 死後、妹ラヴィニアが、姉の箪笥の抽斗に入っていた、46束もの詩稿を見つける。
1890年
11月12日、Poems, Mabel Loomis Todd & T.W.Higgenson 編が刊行される。
1955年
The Poems of Emily Dickinson, Thomas H.Johnson 編が刊行される。