3・11の大災害の実相はまだ隠されたままである。映像で映すには悲惨過ぎるからで、風化を防止するためにも、公開すべき時期に来ているのかもしれない。
四谷で行われた五日市先生の講演会でも釜石でのそれぞれの3・11が語られていた。
2012年8月30日、四谷で五日市剛さんの講演会があった。
東日本大震災で気仙沼の津波に流された居酒屋の新開店にいった際の同席の被災にあった方々の話は、心が痛み感銘を受けた。
何枚か写真を見せられた。
陸前高田のあるアパートは、4階までは津波にあった無残な姿をさらしていたのに、5階は無傷の様子だった。
大きな漁船が陸地に打ちあがっている風景を地元の人は戦艦大和と呼んでいますとのことだった。
五日市さんが来るというので、お店に30人くらいの人が集って、そしてそれぞれの3.11を語った。
あるお婆さんは必至で高台にのがれ、後数センチというところで、なんとか津波を免れた。
ふりかえると近所の親しくしていた奥さんが逃げ遅れて、自宅の2階、屋根の上へと逃れ、津波に家ごと流されていて「助けて」と叫んでいた。助けられない、その奥さんは3日後に遺体で発見された。「生き地獄でした」とおばあさんは語った。
「うちは一人だけです」と語る方がいたという、ああ「一人」のなんという重たいこと・・・
「地震が来て、人から預っている通帳や印鑑を安全なところに」ととっさに思って、ハンドバックに入れて小型の車で逃げようとしたという女性がいた。
「道路に出ようとすると道のずーっと先まで長だの車の列。どうしよう、どうしよう、もう『ありがとう』を言うしかありませんでした。」
魔法の言葉を唱えていたら、心が落ち着いてきて、列の間に小型車が通れるすきまがあることがわかり、そこを何とか通りぬけて右側のほうへ走っていったという。
車を走らせると行き止まり、また引返すと道路の車の列の間に透間をみつけそこを通って左の道を走った。そこも行き止まりで一軒の民家があった。
車を降りるとそこへ津波が襲ってきた。「ありがとう」と言う続けていると、その家の中に流し込まれ、深い水の中。上を見上げると白い光が見えた。息ができるかもと上へ浮き上がった。そこには3名ほどの人がいた。家の人なのか・・・『足場を見つけなきゃ』とタンスにしがみついていて、見ると一人の人は水の底に沈んでいった。」
そんな話をされたという。
「五日市さん何か一言・・・」とそうした話の最期に言われた。みな言葉を待っている。
「何も僕は言えないですよ」
「そんなことおっしゃらないで・・・何か一言」
五日市さんは「怒ってはいけない」ということを話されたという。
ボーイズ・ビー・アンビシャス第3集は盛岡市先人記念館に100冊寄託し売上金は赤十字社を通して震災復興にあててみもらっている。毎年一回寄付の報告が届く。
そのたびに買って頂いた冊数と同じだけ発注して同額を寄付する、報徳仕法の倍数推譲の法である。
もちろん大海の一滴ではあるが、東日本大震災を体験した私たちはこの生を終えるまで、心を寄せ何かしら実践する責務があるように思う。
東日本大震災100枚の写真 より