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カテゴリ:尊徳先生の世界
文政一二年二月川久保太兵衛への手紙
『尊徳の裾野』二六九頁に、「文政十二年二月の尊徳」という尊徳行方不明の時期の手紙が掲載されている。文政十二年(一八二九)二月吉日付けで、尊徳の母の実家の当主、川久保太兵衛にあてたもので、表紙に「五常講」、裏表紙に「川窪太兵衛」と記され通い帳式の簿冊に、五ページにわたり書き込まれる。 このたび、相州足柄下郡曽我別所村の私の母方の在所へ、祖父母の仏参に来てみたところ、大変困窮して昔の形を失い、まことに嘆かわしい姿になっている。そこでつらつら考えたのは、いま私はかたじけなくもご城主の命により、下野国芳賀(はが)郡東沼村・横田村・物井村、高四一四六石余、宇津汎之助(はんのすけ)様知行所の復興にあたっている。享保年中から追々困窮して、文政四年には収納が米千五俵余、畑方金百二十七両余と、わずか千石相当にしかならず、ご勤仕もできない有様となったので、ご本家でも捨てておかれず、村柄(むらがら)取直し・収納復古・百姓相続の仕法を私に仰せ付けられた。そこで文政五年から赴任したところ、天なるかな時なるかな、人民に勤労意欲が出、田畑開発はあらましでき、風俗も立ち直り、年貢米が千九百俵余、畑方はまだ集計しないが、存外の成就をみた。このように功あるこの身は、すなわち父母の賜物であって、全くわが身ではなく父母の陰徳による。その父母はどうかといえば、祖父母の陰徳があったからだ。その本が乱れて末の治まるものがないように人生孝行より大事なものはないが、では、何をしたら孝行になるのか。このように退転同様になってしまっては、たとえ追善供養をしたところで、いったんの志で仏意を保てるわけがない。このように信ずるとき、ふと天の命がわが心中に浮かんだ。それは他でもない。桜町の仕法のように家々で子孫が繁盛しているのは、みんなが親を尊んでいることで、それがまた天道への追善供養なのだ。この身は天から先祖に分身して、また先祖から代々父母に分身して、父母から我へと分身した。それゆえ、天理にかなうことをしさえすれば、直ちに孝行なのだ。しかるに川久保家では、代々のうち奢りが長じ、分を越えて暮らして他人の財宝をむさぼり、天の悪(にく)みを受けて、田畑山林家株を天道に取り戻されたのだ。不思議と子孫男女が息災だが、いのちがあって田畑・山林・家株・財宝・衣食を天から受け得たいと願うならば、身を縮め、一切七分で暮らし、堅く分限を守り、天下に陰徳を積んで、国家に財宝を施し、人民のために勤めて後、天の恵みを受けるしかない。さて、天下の財宝は天下万民の勤行によって生ずる。万民の勤行は衣食があってできる。ところが昨年文政十一年は、天明の飢饉のような国土一円の凶作で、農民ははなはだ難渋している。そこで、仏の菩提のため、元金は私が出すから、里から米を買い入れて山家へ運び、山家から麦を買い入れて里へ運び、それも一銭も利を取らずに買入れ値段で売買して、米麦を流通させ、近村隣家の助けになろうと心がけるがよい、神儒仏の心は一つ。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。 別紙に、資金を十両渡すから米麦一俵につき四八文の「世話賃」を受け取るほか、すべて仕入れ値で売り、売上金は必ず元本に回せとある。「天下に陰徳を積む」ことを目的とする。文政十二年二月といえば、金次郎行方不明事件の時である。この時期の金次郎の足取りは不明とされるが、母の在所曽我村に祖母の墓参りに来ていたのだ。この手紙に「功あるこの身」とその事業に自信をもっており、仕法妨害で行き詰っているようにみえない。行方不明事件は、辞職願が藩当局に握りつぶされて仕法が停滞しているのを打破するために実行したものと思われます。 また、「この身は、天から先祖に、先祖から代々父母に、父母から私に分身した」、「天下の財宝は天下万民の勤行によって生ずる。万民の勤行は衣食があってできる」など、「報徳訓」の元となる考えがこの手紙に示されていることも注目されます。 川久保太兵衛への手紙の中に「ふと天の命がわが心中に浮かんだ」とあります。 金次郎が二宮総本家の再興の経緯を記した「本家伊右衛門一家再興相続手段帳」にも 「ふと心付いて」とあります。 「本家伊右衛門の家はつぶれていて、ぜひ復興したいと二宮一族と相談したが、田畑・山林・屋敷まで売り払い、方法が無く途方に暮れていた。さる丑(うし)年ふと心付いて、売れ残っていた屋敷の稲荷(いなり)社地が有り、垣根で囲んだところ、竹木が育ち年々手入れすると、時なるかな、成長し伐って売り、代金を善種として一家を取り立て相続の仕法を組立てた」とあります。 金次郎の思考と実践の特徴として、「ふと」心中に浮かぶものを、天の命として、実験し、その効果を検証するところがあるようです。 内村鑑三の「代表的日本人」の構想はアメリカ留学時代に生まれました。 内村は、神の命はなぜユダヤ人に降り、愛する日本に降りなかったかを考えました。 そして「エレミアに語りたまいし神は、日本国のある者にもまた語りたもう」と日記に記しました。 「日本は自分自身の歴史的個性をもって宇宙に一定の空間を占める、真の均整のとれた調和的な美で、一国民としてのその存在は天それ自身によって命ぜられた。世界と人類に対するその使命は既に宣言され、また現にされつつある。日本は高い目的と高貴な野心のためを有する聖なる存在であり、世界と人類のために存在することが示された」。 「代表的日本人」はこの考えが反映されています。 西郷隆盛について「輝く天から声が直接下ることがあったのではないでしょうか。静寂な杉林の中で、『静かな細い声』が自国と世界のために豊かな結果をもたらす使命を帯びて西郷の地上に遣わされたことを、しきりとささやくことがあったのです」と書き、 二宮尊徳について「道徳力を経済改革の要素として重視する村の再建案を提出しました」「これは信仰の経済的な応用です」「この人間にはピューリタンの血が流れていました」と書いています。 内村は「二宮尊徳」の最後に記しました。「二宮尊徳は自分が永遠の宇宙の法を体得していることがわかっていました。尊徳は一生の最期まで働きに働いた人でした。尊徳は遠い将来のためにも立案し働いたのでその仕事と影響は今もなお生きています」 内村は袋井における講演で次のように語りました。 「英米人が最も驚嘆したのは二宮尊徳先生という。異教国にこのような高潔で偉大な聖人があることに、彼らは思いもしなかった」と。 内村鑑三は、米国留学中「イスラエルの神は、また日本国の者にも語りたもうた」と考えて 「日本と日本人」(後に「代表的日本人」)を英文で記したのです。 そして、二宮尊徳こそ、日本が世界に誇りうる高潔で偉大な聖人と英米人も驚嘆した人物であると改めて知って、世に知らしたのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年03月11日 21時29分41秒
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