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2019年02月21日
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「巡拝記にみる四国遍路」167ページ
鍵田忠三郎のケース

鍵田は後に奈良市長になり、鎌田の四国遍路はひろく世に知られ、その壮絶な遍路は広く共感を呼んだ。

鍵田は39歳の、昭和36年に遍路を敢行した。
心臓肥大、肺湿潤、すい臓のはれ、痔瘻(じろう)を抱え、医者から余命2か月と宣告されていた。

当時、鍵田は近畿日本鉄道系列の子会社4つの社長で、3人の小さい子の父でもあった。『遍路日記 乞食行脚三百里』は『奈良日日新聞』に五十五回にわたって連載されて大きな評判をよんだ。

池田隼人(当時総理大臣)が序文を寄せた。池田も原因不明の皮膚病を患い、大蔵省を退職し四国遍路に出たことがある。

鍵田が四国遍路に出た理由は病気平癒の目的のほか「いっさい社会のため、いっさい他人のための行動でなければならない」という課題をもって旅に出た。

昭和十七年の19歳のとき、鍵田は曹洞宗の寺院で得度している。「四国行脚は乞食行であるが、いっさいを布施行にせねばならぬ」と札所に収める札は奈良・大安寺の河野住職に書いてもらったものを印刷してそれを納めてまわった。
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同行者に河原淳悟が自ら進んで申し出た。鍵田はいったん断ったが「いっしょに死んでやろう」という河原の親切に泣いて了承した。河原は医者から万一のためにと鍵田の主治医から薬を預かっていた。

昭和36年3月12日夕方、鍵田と河原は遍路に出た。

「仏者として十重禁戒は厳守する。般若心経を一千巻唱える、朝は勤行し般若心経、大悲円満経、修証義を唱える、夜も勤行してから休む、精進料理以外食べない」など課題にあげ、道標の建立や堂宇建設に寄付するなど布施行を行うことを決意していた。

ところが遍路は決意とはうらはらに最初肉体的苦痛との闘いだった。
写真の説明はありません。

第4番では「病身のうえに昨夜の不眠と雨に濡れたためだいぶ疲れ、途中の峠では呼吸が困難になり息苦しく、休み休み歩く。先が思いやられる」と弱音をはき、
「とても今の状況では他人様の教化など覚束ない」と宿について反省もした。
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第10番切幡寺では「石段333段あり、息切れし、病身の体力としては限界点に達す。・・・・・杖にすがり、やっと登りきる」
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「吉野川の北側の上(切幡寺)から大きな吉野川を渡り、南側の山の上(11番藤井寺)まで2里20町であり、相当に疲れる。二人とも声なく、ただ杖の音といっしょに歩くのみ。三日坊主という言葉を思う。ほんと三日目の坊主修業はだいぶ疲れた。脚ひきずって山の中腹の藤井寺(大師開創)に到着し拝む。脚はほとんどもう動かず。今日はもう五里歩いたか」
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難所の12番焼山寺を下って
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13番大日寺に向かう時「焼山寺越えの疲れもあり、体力ついに限界点に達する」「いよいよ脚は言うことをきかない」「足が『がくん、がくん』と進まない」と記した。






最終更新日  2019年02月21日 04時47分53秒
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