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2021年09月08日
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カテゴリ:鈴木藤三郎
台湾の製糖工場の保存活用に見られるアダプティブ・リユースの取り組み
西川博美ほか (概要)
・近年日本では「富岡製糸場」が世界遺産に登録されるなど、産業遺産の保存が注目されている。
・ヨーロッパを中心に注目されるアダプティブ・リユースは循環型経済における既存建物の再利用の一環として歴史的建築の文化的背景を考慮しながら、現代社会に適合した用途で再利用するためのものであることから、産業遺産の活用において魅力的なコンセプトとして期待される。
・台湾では多くの産業遺産の積極的な活用が行われている。特に2000年以降、日本統治時代の鉄道、製糖、製塩、製茶など各種産業遺産を、民間の力を導入しながら活用する事例が増加している。中でも製糖業は台湾の主要産業だったが、1990年代以降、工場の廃止が相次ぎ、跡地の保存と活用が注目されるようになった。
・アダプティブ・リユース導入では高雄の旧橋し頭工場(現・台湾糖業博物館)を紹介する。
・高雄市北部の橋し頭工場は新式(機械式)製糖工場として台湾ではじめてのもので、
台湾の製糖産業発展において重要な文化財として指定を受けている。
・この工場は1901年に台湾総督府鉄道の縦貫線予定地に隣接して建設が開始された。工場のほか、社宅・事務所・職工所・倉庫など付属し、建物の多くは煉瓦造りである。1907年酒精工場が建設され、サトウキビ運搬のための鉄道も開通した用途で1908年には鉄骨造りの第二工場が完成し、最新機械が導入された。
・戦後は国営企業である台湾糖業公司が引き継いだが、1970年頃から国際的な砂糖価格低迷によって操業継続の危機に陥った。
・この工場を歴史的遺産として着目する動きは1990年代後半から始まる。1995年工場用鉄道が観光用に転用された。1992年2月工場は完全停止した。
・2001年、高雄県文化局と文史協会が中心に橋し頭製糖工場100周年行事を開催した。これが工場を文化財として保存・活用する契機となった。同年、橋し頭トウショウ芸術村が設立された。2006年に台湾公司60周年に「台湾糖業博物館」が設立された。2008年に県定古跡として指定、同時に敷地全体が「」橋し頭トウショウ文化景観保存維護計画地域として、認定される。またMRTの駅が施設に隣接して開設された。

文化景観保存維護計画地の敷地23ha、南北に工場エリア、行政管理エリア、生活居住エリアに分けられる。
おわりに
台湾を代表する近代産業の価値を認識し、工場としてのシステム維持に配慮し、地域の文化的経済的ポテンシャルを高めている。アダプティブ・リユースの成功例と考えられる。その手法は個々の建物の活用は柔軟なものでありながら敷地全体を包括する計画や明確なコンセプトを有しているところに特徴がある。

米欧旅行から帰国後の鈴木藤三郎(編者著)

1 台湾製糖株式会社設立
明治二八年台湾が日本に帰属。井上馨、児玉総督、後藤新平による台湾振興政策として台湾製糖株式会社が設立される。明治三三年創設発起人会が開催され、それに先立って藤三郎、山本悌二郎による実地調査が行われた。藤三郎が台湾製糖の初代社長に選任される。工場地は藤三郎の踏査の結果、台湾南部の高雄「橋頭」が最適地として選ばれる。藤三郎は社有地農場の買収を提案し、報徳の教えに則り、両得農業法を案出し、会社と農場の農民双方が得をする農業法を目指す。藤三郎自ら工業建設に従事する。また修理工場の建設=自助の精神による会社運営を行う。台湾製糖は台湾最初の近代的製糖会社である。


1 「台湾製糖株式会社史」に次のようにある。「鈴木藤三郎氏は、工場建設地選定その他の要件取調のため、山本悌二郎氏を同伴、明治三十三年(一九〇〇)十月一日、新橋駅を出発し、三日神戸出帆、七日台北に到着した。十三日まで同地に滞在の上、総督初め諸官に面会し打合せを行い、十月十四日基隆出帆、安平に上陸し十六日台南到着、三日間同地に滞在後、実地踏査にとりかかった。初めは工場を麻豆付近に置く予定であったが、先ず高雄に出た。次いで鳳山に至り、それより万丹、東港を経て、糖業地の南端の枋寮に到着した。当社は当時既に土地を所有し、自ら耕作する目論見を立てていたから、枋寮以北の大原野について、特に注意して踏査検分した。枋寮と石光見との間には蕃界に接して原野があり、石光見より阿緱街(現屏東市)付近にかけても大原野が横たわっている。この大原野を通過し阿里港に出で、下淡水渓を渡って手巾寮に至り、蕃薯寮を過ぎ、山を越え関帝廟に出で、台南に帰着したが、この行程に費した日時は二週間に及んだ。更に北上し、大目降、曾文渓を経て・・・それより塩水港に出で新営商に至り、軽便鉄道で台南に帰着した。この間十一日を要し、前後を通じて二十四五日間にわたる踏査に、一行の苦心は実に容易ならざるものであった。その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿緱付近の大原野、即ち現在当社の阿緱及び東港両製糖所区域たる万隆及び大晌営その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼をみはらせるものがある。以上の如き実地大調査を終えて、鈴木藤三郎が帰京したのは明治三十三年(一九〇〇)十二月二日であった。」
工場は最初、総督府の調査に基づき麻豆付近が考えられていたが、鈴木、山本踏査の結果、曾文渓、橋子頭の二か所が候補地となり、運搬及び水に便利がよいことから橋子頭に決定した。明治三四年二月一五日建設工事に着手する。工場の設計設備に最も力を注ぎ、その実行を指揮したのは鈴木藤三郎であった。藤三郎は、さとうきびを搾って分蜜糖を製出した経験はなく、また工場建設に参考となるものもなかったので、ロンドンで出版された「シュガー」の一小図版を参考として設計図を作成した。当時、最先端の技術は欧米諸国の技術者の助言援助等に頼っていたが、そうした方策は採らず、北海道紋鼈の甜菜糖工場で製糖技術を修得した齋藤定雋氏らを用い実際の仕事を進めた。「鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。」と「台湾製糖株式会社史」に記す。
 明治三四年(一九〇一)二月に鈴木藤三郎は台湾製糖の事務所と工場建設にとりかかり、工場は一〇月峻工し、機械据付は一一月に終った。
藤三郎は台湾製糖株式会社に広大な農地を購入し、会社自らサトウキビを品種改良し、原料を自給した。
1 「前後を通じて二十四五日間にわたる踏査に、一行の苦心は実に容易ならざるものであった。その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿緱付近の大原野、即ち現在当社の阿緱及び東港両製糖所区域たる万隆及び大晌営その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼をみはらせるものがある。」
「建設工事 創立の二箇月後、即ち明治三十四年二月十五日、早くも建設工事に着手したが、工場の設計設備に、最も力を注ぎ且つその実行を指揮したのは、当時の社長鈴木藤三郎氏であった。氏は我が国に於ける新式糖業のなお渾沌たる時代に斯界に身を投じて刻苦勉励、遂に我が国製糖界に於ける最高の権威者と称せられるに至った人である。即ち、明治十年頃氷糖製造に志し、次いで精製糖製造の研究に進み、自ら精製糖工場を創設し、漸次発展して明治二十八年、日本精製糖株式会社となるにあたり、その専務取締役兼最高技術者として重きをなしていた。氏の砂糖精製に関する知識と経験とは、当社の事業たる甘蔗分蜜製糖にも役立つ訳ではあるが、何分甘蔗を搾って分蜜糖を製出した経験は全然なく、且つ又工場建設に参考となるべきものは何もなかったので、西暦一八八八年(明治二十一年)、ロンドンにおいて出版されたロック、ニューランド共著「砂糖論(シュガー)」一冊を得て、その中にある一小図版を参考として設計図を作成し、しかも当時一般の習はしであった欧米諸国技術者の助言援助等に頼るが如き策を採らず、ただ北海道紋鼈の甜菜糖工場に於て製糖技術を修得してゐた齋藤定雋氏、その他を用ひて、実際の仕事を進めたのであるが、鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。
 さて製糖機械は、既述の通り、八重山糖業株式会社が北海道紋鼈製糖株式会社から譲り受けていた仏国フイフリル会社製の三重効用缶、結晶缶その他を更に当社が引受けたのであるが、それは何れも西暦一八七九年(明治十二年)の製作にかかり、この種の機械中、我が国に輸入させられた最初のものであった。当社はこの外、大阪汽車製造株式会社製及び石川島造船所製の火管式ボイラー、英国マコニー ハーヴェー会社製の圧搾機及びエンヂン、三重効用缶、結晶缶及びそれに付属する真空ポンプ、英国ワットソン レイドロー会社製の分蜜機及びその附属品を購入し、なお鈴木藤三郎氏経営に係る、鈴木鉄工部製作のデフヱケーター、フィルター ブレッス、タンクその他をも購入し、愈々其の組立据付に着手したのであるが、齋藤技師が主として之に当り、鈴木鉄工部から派遣された技師、職工及び紋鼈で甜菜糖製造に従事したことのある人々並に僅少の内地人現業員と、是等の工事に対しては全く無智な本島人を使用した、従って工事の進行には、想像以上の苦心困難が伴ったのは勿論である。」(台湾製糖株式会社史)
2 鈴木藤三郎は両得農業法を案出し、会社も農民も共に利益となることを会社の方針とした。「甘蔗栽培については、農民を誘導して品種の改良、肥培耕作方法の改善を講じようとして、並々ならぬ苦心を払ったが、旧来の習慣を墨守する頑迷固陋な彼等は容易に之を実行せず、従って土地を所有しても、その効果は直ちに顕れ難かった。ここにおいて鈴木社長は、農民にも利益を与え、同時に当社も利益を挙げつつ甘蔗農業を進歩せしめようとするいわゆる「両得農業法」を案出した。明治三十四年十二月付の「両得農業法草案」は次のような語を以て結んでいる。「この方法を実行すれば、会社及び農民の両者間においてニ万六千円の実利を生ずる。もしそれこの方法を会社は今後買収した土地にあまねく施すときは、その利益はますます大きくなるであろう。二宮先師訓に曰く、『天地が和して万物が生ずる、男女が和して子孫が生ずる、貧富が和して財宝が生ずる』と、まことにこの言葉の通りである。元来会社はこの趣旨にのっとって、人民と共に天地の間に充満する、いまだに所有者がない財宝の開発に勉めて、会社のため、国家のために鋭意専心実行していくことを希望する。」このように、台湾製糖株式会社は創業の初めから農民との共存共栄を図りつつ、土地所有を社是として進んで来たが、現在では約五万甲に垂んとする広大なものとなり、愈々その真価を発揮せんとしている。創立当初に樹立せられた大方針を顧みれば、今更ながら当路者の先見卓識に敬服せざるを得ない。」(台湾製糖株式会社史)
「当時、資本金百万円を超える事業会社は、内地に於ても大会社の部に属していた。いわんや台湾においては、かかる資本を擁するものは未だ類例を見なかったであるから、当社経営の成否は、ただに新企業たる新式糖業の将来、延いては国家経済の上に大なる影響を及ぼすのみならず、新領土経営上の試金石ともなり、台湾統治の上にも密接な関係を持つもの
として重要視されていた。従って児玉総督初め官辺においても、その経営に対しては少なからず後援斡旋された訳で、当社の負える使命はまことに重且つ大であった。かかる使命と期待とは幸いにして着々その実を挙げ、台湾新式糖業の先駆会社としての目的を十分達することが出来た。」と台湾製糖株式会社史にある。当時三井物産合名会社台北支店長として、創立下準備のため現地調査に携った藤原銀次郎氏は「その頃台湾へ来ていた内地人はほとんど皆な御用商人で、三井物産のごときも、阿片を総督府へ納めるのが主なる商売であった。そういうふうで、内地人はまだ仕事らしい仕事をやっていなかった。それではいけない。資本家が資本を持って来て本当の仕事をしなければ台湾は開発されないが、その本当の仕事の先駆をしたものは台湾製糖会社である。その後多くの製糖会社が設立され、あるいはまた他の種々の事業が起って台湾は今日の繁栄を見るに至った」と述懐する。台湾製糖の成功は台湾産業のリーディング・ケースとなったもので、藤三郎の台湾における実業人としての功績も高く評価されるべきと考える。





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最終更新日  2021年09月08日 19時55分12秒



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