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2021年10月20日
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カテゴリ:遠州の報徳運動
「斯民」第4編第5号(70~75頁)より
西遠山間における模範的報徳社員  小島源三郎
 谷上報徳社
 遠州浜松より三方ヶ原の古戦場を過ぎ、北に進むと約2里の山間に一部落あり。都田村という(引佐郡に属し戸数650戸)。村内に5小字に、横尾社、中野社、谷上社、滝沢東社、滝沢西社の5報徳社の設置あり。総社員223人にして、報徳社の造成額12,700余円に上り、皆克(よ)く報徳主義を実行し、社員は皆精神の修養と、一家経済の向上に努め、結社の目的を達せんことを図り、ひいて一村自治の発達と、民風の振興上に資しつゝあり。なかんずく谷上(たにかみ)社は、明治15年中の創設にかかり、既に幾多の歳月を閲(けみ)したるが故に、社員の共同的精神はますます強固となり、従ってその間、道路の修繕、橋梁の架設等の公益的事業を為し、或いは社田を購入して、社中特別善行者に耕作せしめ(納税金及び僅少の納米の外皆自己の所得に帰す)、或いは善行者の表彰をなし、ますます社業の盛んならんことを期しつゝあり。故に全社員はあたかも一家のごとく、和気洋々の間に、報徳的観念をもって、各々その業務に従い現に30名の社員にして、既に報徳金4,300余円を造成するに至り、地方報徳社中、その実質において、はた成功の域に達する点において、優に一頭地を抜くものあり。これ即ち社員熱心の致す所なるべしと雖も、また経営者の堅忍なる志操と、不抜なる行為とにより、克く社員を誘掖指導せるありて、ここに至りたるものなるべし。依つて本社創立者として、はたまた十年一日のごとく、献身的に業務を経営せられ、今なおその任に当たりつゝある、社長富田林三郎の立志経歴を挙げてここにこれを紹介せん。

 貧困に処して発憤せる少年 富田林三郎は鳥居大吉なる人の3男にして、天保14年9月10日をもって一農家に生る。家極めて貧なりしかども、幼より学を好み、8歳の時に至り、村松某につき8ヵ年の間大工職を習えり。ある年のことなりき。新年の回礼に羽織無かりしかば、師の某に乞うて茶色の羽織を借り、辛うじて家を出でけるに、たまたま一団の喜遊する児童あり。その内に師の妹なる少女あり。たちまちこれを認めて大声群集に告げて、見よ見よと、哀れむべき林三郎は、衆人環視のうちにおいて、貧困のために笑殺せられ、先きに羽織を借りたる時の喜びは、暫時にして貧困の悲しみと変じ、この時の悲憤は骨髄に徹したり。然れども彼れは発憤せり。思えらく世に貧しきばかり悲しきものはなし。早く一個の男子となり、良運を得て身をおこすことを得ば、いかにしてか世の不幸者を救わんものをと。これより心を励まし、職業に励精し、一日も怠ることなかりき。しかも当時得る所の賃金一日僅かに8厘に過ぎず。その半ばを師に預けその半ばを実家の用に供したれども、極貧の家負債を償うに足らず。家兄が債主の督促に苦しむを見てこれを憂い、いかにしてこれを助けんと、昼は師家の業務に従い、夜は家に帰りて夜業にロクロ棒の製造をなし、時に鶏鳴に及ぶことあるも、朝はつとに起き出して師家に行き、またかくする事毎夜に及びければ、父母これを見、身心労すべしとてこれを制することありしという。長じて父母の高恩を物語るときは、必ず落涙数行に及ぶ。かくして幾多歳月を経、ようやく負債を償却し、満期後師家を辞し、別に一家を立てゝ両親を養うに至れり。
 壮年時代とその職業 慶応3年、林三郎24歳の時、富田林左衛門の義子となる。富田の家も素より貧しくして、僅かに路傍に小店を構え居酒屋を営みたるに過ぎざりしも、その先代が焼酎製造に従いたることありければ、林三郎思えらく、家道を興さんには、祖先の業務に励精するより外なかるべしと。ここにおいてか、数年間心血をそそぎて修得せる職業を棄て、断然酒類製造業に従事す。時に明治2年なりき。かくして傍ら農事をも励み、遂に一家を興し、相当の資産を有するに至れり。明治15年中、彼は報徳教師福岡滝助の門に入り、大いに悟る所あり。遂に同志を糾合して報徳社を組織し、農民部落の改善を企て、創立以来その社長となり、献身的に尽瘁し、もって今日の盛運を呈するに至れり。顧みれば古来富めるもの多くは仁ならず。仁なるもの多くは富まざるは人世の通慣なり。これ自我の一方に偏して他を忘るゝが故なり。二宮翁のいわゆる「道徳と経済との調和」を得ば、富者も仁者たり、仁者もまた富者たることを得べし。要は推譲の精神のいかんにありて存す。而して彼林三郎は富者といういうべき程ならざるも、またすこぶる余裕ある身になれり。而して常に推譲を怠らず。報徳社に対しては前後数百円の加入金を出して社員を利し、また一村の公共事業に対しては率先尽力して止まず。いやしくも村民の福利を増すこと得べきものと認むるときは、極力その成功を計り、或いは私財を投じてその成功を期せり。故に報徳社員は勿論他の村民も、彼の性行に感じ、常に多大の崇拝を払えり。彼はまた名聞ということを嫌い、勉めて陰徳を積むことを心掛く。遠譲社(本社)第6分社に尽くせる功多きをもって、衆望により社長に挙げられたれけども、固辞してこれを受けず。かくのごとき有形の推譲と無形の推譲とあいまって、ますますその人格を顕わし、老後ますますその光を増しつつあり。
 現在におけるその行為
実(げ)にや艱難は汝を玉にすと。貧困と戦い困苦と闘いたる彼林三郎は、種々なる方面に活動し、出でては村民のため、一村自治のために力を尽し、入れては吾が家庭の清福を計る。しかも多年身を報徳社に投じ、心神の修養を勉めければ、満身これ至誠をもって玉成せられたるの観あり。彼は町村制実施以来村会議員として20有5年間勤続し、その間幾多時代の変遷あるにかかわらず、衆望を一身に集め、悠然自己の所信を遂行し来りたるがごとき、至誠公に奉ずるの心事を窺うに足らん。今や齢い66歳、なお村会議員、区会議員等の公職にあずかり、また銀行の取締役たり。而して報徳社の経営に関しては殆んど全力を尽くし、遠譲本社第6分社その他各社に関係して、常に斯道の発達に貢献し、近時また家庭改善の須要なるを感じ、谷上区婦人会を組織し、婦人の修養上に尽瘁しつつあり。
 古帳を携えて昔の借りを返して歩く
明治22年の頃、林三郎の養父彼に向って曰く、隣村某は汝の知るごとく、家計裕かに家屋をも新築せり。されど彼もと家計意のごとくならず、我彼に金円を貸与せしも、彼は遂に家資分散し、ために我は少なからざる損害を蒙れり。然るに今彼は昔の彼にあらず。故によろしく前債を督促すべしと。林三郎曰く、大人(だいじん)の命に背くは不孝なりと雖も、今我が家幸いにして富貴の天運に至るも、これもとより人を助けたるにより自然陰徳の報いに来れるならん。今彼富めりと雖も、我これを督促せば我が徳を損するに似たり。寧ろ我が家を自省するにしかず。もし我が子孫にしてかくのごときとありたらんには、人の我を視ること、なお我が彼を視るがごとけんと。養父曰く、汝の言理あり。我が家も祖先の時、家資分産をなしたりと聞けり。されば督促を見合わせ、我が家の旧記を調ぶべしとて、古帳をことごとく調査したるに、果たして発見するを得たり。林三郎曰く、これ実に我が家の一大事なり。よろしく速やかに償還せざるべからずと。これより古帳を携えて、一に債主について、その理由を述べ、ことごとくこれを償却せり。債主の多くは既に時代の変遷により少しも知らざるものあり。ために反って債主より怪しまれたりと(債主は引佐・浜名両郡にわたりて8名ありたりと)
貧児の就学奨励を為したる事
明治37年1月1日、林三郎は、村立尋常高等小学校学務委員たるをもって、元旦の拝賀式に参列せり。式後同校職員に問うに、自己の区内における子弟就学上の勤惰いかんを以てす。職員曰く、本田儀平なるものごとんど出席せず。ために進級せしむるに由なし、けだし家庭の事情によるならんと。後に同児童の家庭につきて実査せるに、果たしてその原因あることを認む。同児童の家は家極めて貧にして、しかのみならず、母は継母にして、しかも継母には当時一人の実子を挙げければ、母の儀平に対する態度常に苛刻を極め、ある時は食を与えず、衣服を給せず、残酷暴肆至らざるなし。而してある時は継母は熟睡せる可憐なる儀平の肉を爪針するありとぞ、この一事より全般を推測するに足らん。かくのごときが故に儀平の登校は継母の妨ぐる所となり、携帯すべき昼食すら与えず、冷然として顧みざるの有様なれば、儀平の小なる胸中には、学に就くことを憂えずして、食を得ざるの哀を訴うるに至れり。林三郎はこの哀れむべき一少年をして、かかる境遇に終わらしめば、遂に痴愚なすなきものと化しおわらん。これあに一身一家の不幸のみならんやと。ここにおいて弁当米を給与し、学に就かしめんとし、十日間ごとに白米1升搗き麦一升を給し、また時に衣服、傘、木履(ぼくり)等を与え、雨雪の日の登校に便ならしむ。かくのごとくにして遂に義務教育を終わらしめたり。林三郎常に人に語りて曰く、「世の中に貧のため学を修むること能はざる程憐れむべきものなし。教育は人物を造るものなり。而して健全なる人物は国家の要素なれば、世の富者識者たるものは、徒らに天下国家の大を論ぜんより、よろしくこの貴(たっと)むべき問題に留意せよ。」と事小なりと雖も、前記のごとく憐れむべきの少年を苛酷なる継母の手より救い出し、遂によく義務教育を終らしめたる、彼の理想の一端を現実にしたるものの一つなり。
 下男に家を興し貯金を為さしむ
 林三郎は又よく下男下女をも薫陶せり。されば彼の 家を辞して一身一家を確立せしもの数多(あまた)あり。うち最も成功せるは本田儀作とす。儀作17歳のとき、ある日下肥えを畑に施すべく、肥桶を肩にして程遠からぬ耕作地に行かんとせしが、中途においていかなるはずみなりしか、忽然一方の紐の切断せしため、全部の肥料を地上に散流したり。然れどもその多くはなお窪地に貯留したれば、儀作は躊躇することなく、ただちに柄杓をもって付近の耕地に散布し、なお一方の満足なりし分をも加えてことごとくこれを散じたり。たまたま付近の者これを目撃して曰く、それは他人の耕地にあらずや。何となれば汝は自己の肥料を他人の耕地に散布するの愚を為すやと。儀作答えて曰く、かかる場合には一勺たりとも耕地の肥料と為すにしかず。あに自他の区別をなすのいとまあらんや。もしそれ一方の満足なる分をも散布したるは、施肥を平均せんとの意なるのみと、平然として家に帰れり。ある人これを林三郎に告ぐ。林三郎はこの趣味ある答えに感じ、遂に同人を雇い入れたり。儀作は極めて忠実に仕えたりければ、林三郎は吾が子のごとくこれを愛し、毎月1回の報徳通常会には、日課金を与えて出席せしめ、教訓を怠らず、かくして4か年を経、家に入り自己の得たる報酬をもって、ことごとく父の借財を償却したりという。また同人は報徳の教えによりて、誠実勤勉の徳を発揮し、社員中の精勤家をもって目せらるゝに至れり。谷上社においては、明治22年より37年までの間4回に報徳金200円を貸付けたるも、林三郎の好意によりことごとくこれを貯蓄し、いよいよ業務に励精し、全く家政を回復し、800円の貯蓄を有するに至れり。これ即ち林三郎の薫陶によるものゝ一つなり。
親の年忌に教育基金の寄付をなす
二宮翁の遺書に曰く、「仏事を厚うしてその長ずるを禁じ、或いは吉礼凶礼すべて本源を厚うしてその長ずるを禁じ、或いは吉礼凶礼すべて本源を厚うし、弊風驕侈を省く」と。彼思えらく、近時世の物質的進歩に伴い、人心ようやく奢侈安逸に流れ、随って冠婚葬祭等においても、ひたすら華美を競うの風長じ来たれり。これ決して喜ぶべき現象にあらず。できうべくんばこれらの贅費を転じて、社会のために投ずべしと。かつて亡母1周年忌に相当せしをもって、前記二宮翁の教えに基づき、仏事に要すべき金円を、村内学校教育基金の内に寄付せり。






最終更新日  2021年10月20日 23時24分50秒
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