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2021/10/21(木)03:50

Be Just and Fear Not.

イギリス史、ニューイングランド史(276)

白洲次郎の父白洲文平(ぶんぺい)は、綿取引で大儲けした。 そもそも白洲文平はハーヴァード大学卒業後、ドイツのボンに学んだ折、後に次郎が結婚する正子の父・樺山愛輔(あいすけ)と面識を得た。綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築く一方、家に大工を住まわせるほどの建築道楽だった。 かっては宮大工で御所の修築中酒で失敗をして文平のもとに住んで次々に建築していた大工が、喧嘩三昧にあけくれる白州次郎にこういう。 「坊ちゃん、正しいという字は、一に止まると書きます。」と一つのことに止まることの大切さを教えた。 そして後に日英同盟が断たれ、日本が軍部独走のなかで反英米に流されるなかで、白州次郎はイギリスのケンブリッジ大学時代の親友ロビンの仲立ちでイギリスの政治に影響力を持つ貴族たちに集まってもらい、日本とイギリスの友好のために力を貸してもらいたいとスピーチしたとき、「あなたはどの立場に立つのか?」と聞かれた際にこの「正」の字の話を持ち出すのである。 「日本では正しいという字は『正』と書きます。 これは一に止まるという意味です。 私も、どの立場でもない、良心という一に止まるだけです。」 残念ながらイギリス貴族たちにはさほどの感銘も与えることなく、会合もうまくいかなかった。 このエピソードに2つのことを思った。 一つは「大学」の一節である。二宮金次郎が薪を背負いながら読んでいるのが「大学」という書で、それはこのような文句で始まる。 「大学の道は明徳を明らかにするに在り、民に親(あらた)にするに在り、至善に止まるに在り」 大学、中庸、論語、孟子は四書といわれ、江戸末期の武士や農民の教養人にいたるまでの共通の教養といっていい、おそらくは白洲次郎も「至善に止まる」という大学の言葉もまた頭にあったのではなかろうか。 そしてまた白洲次郎の「良心の一所に止まる」という言葉に今野華都子先生が従業員に教えられた話も思い出した。今野先生はこう講演会で話されたのである。 「もし私がここにいなくって、あなたがここにだけいる時、私は心配で出ていかれないかもしれないよね。じゃあ、その時、何を判断基準にして、先生がいなかったらこういうふうにするだろうと思ってくれるかといったら、それは、損か得かじゃなくて、良い心、良心、これをもとにした判断をしてくれることだよ。 (「良心」と板書) 私は一から百までそばについて教えることはできない。ここにいる時は目についた事は教えられる。でも私がいなかった時とか、そういうときは、何を判断基準にするかと思ったら、これは自分が損か得かではなくて、これをしたら先生は喜ぶだろうか、悲しむだろうか。それが分からなければ自分が嬉しがるだろうか、悲しがるだろうか。それでも分からなければ、これをやることはお父さんお母さんが見て、喜ぶことだろうか、悲しむことだろうか。これを判断基準にして! それでやったことなら私は何にも言わないからねって。ということを、私はその子に毎日毎日、事あるごとに話していきました。」 「正しいという字は、一に止まると書きます。私は良心という一に止まるのみです。」 そしてこの言葉は新渡戸稲造が座右の言葉とした 「Be just and Fear not」(正しくあれ、恐れるな)に通ずる。 *「Be Just and Fear Not.」 シェイクスピア「ヘンリー八世」(Henry VIII)に出てくる台詞(**)。 「正しくあれ、恐れるなかれ」新渡戸が学生の頃から好きな言葉。自分の心に恥じるところがないならば、どんな批判を浴びようとも恐れずに前へ進もうというメッセージ。 **Act III, Scene 2 Ante-chamber to KING HENRY VIII’s apartment. Be just, and fear not. Let all the ends thou aim'st at be thy country's, Thy God's and truth's.

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