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2022年05月21日
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カテゴリ:遠州の報徳運動
片平信明略伝
 片平信明は幼時嶺一郎と称する。代々駿河国庵原郡庵原村杉山に住し、名主役であった。農家でかたわら商業を営んだが、富裕ではなかった。信明は二十四歳で家を継いで、奮闘修養一日も空しくしなかった。ここにおいて家政はようやく豊かになることができた。信明は名主として善く村政を整理した。杉山は山間の一部落で、古来桐水油の材料の毒荏樹(どくえ)を栽培して家計を立てるものが多かったが、明治初年頃からその樹が枯衰し、加えて石油の輸入により桐水油の価格が下落し、村民の中で活路を失うものがあった。信明は輸出入に匹敵する物産を産するのがよいと、明治三年率先して所有の山野を開墾し、茶・桑・柑橘の栽培に従事し、これを村人に勧めた。資金に乏しい者に対して無利息で資金を貸与し、または種子・苗木を分与するなど奨励につとめた。その結果、数年で茶・桑・柑橘の産地になるに至った。明治七、八年のころ、製茶の価格がにわかに低下し、収支が償わなくなった。信明はこれを憂い、農家永安策に関し焦慮した。たまたま伊豆の熱海に療養中、福住正兄著の「富国捷径」と題する一書をひもといて大いに得る所があった。帰ると二宮尊徳の門人柴田順作を招いて村民に報徳の教えを聴かせた。同九年十二月杉山報徳社を設立し、報徳の教えの趣旨を実行に努めた。後に柴田順作、高田宜和、牧田勇三等とはかって駿河東報徳社を設け大いに尽くした。後に牧田勇三の後をうけ社長となった。これより先、明治八年杉山に夜学校を起し、子弟教育のみちを開き、後にこれを報徳社の事業に移し、資金千円を備え、その利金で校費を支弁した。またその設立に係る杉山報徳社は着々事業を実行し、その蓄積金は実に二万円余に達し、駿河東報徳社中の模範を以て目されるに至った。明治二十六年十二月官は信明の積年の功績を嘉し、木盃一組を賞与した。信明はますます一生懸命画策する所あったが同三十一年十月病を以て逝去した。年六十九。
駿河みやげ(斯民第一編第十号)に、「西个谷氏は杉山区並びに庵原全体につき語るに、『杉山に農業補修学校がある、明治8年11月の設立で、夜学校も設置している。日本に実業補習学校あるは、これを始めとする。杉山村の今日あるのは、全く片平信明翁の力によるものにて、報徳教の効果、最も顕著なるは、この地なるべし。』
「西个谷氏は庵原村の戸長をも勤めたことがある、今は東報徳社の社長である。『庵原では従来積立金もあったが、諸種の共有金を集め明治14年ごろには79円59銭、明治18年には利殖し552円となった。
明治18年5月農商務省第20号布達、済急趣意書が達せられ、勤倹貯蓄を勧められたことから、この積立金を土台としてその7月7日に発起し、規約を結んで、奢侈の弊風を直し、また各人に勤労をすすめ、毎年1月、5月の両回、各戸より10銭ずつ積立てることを定めた。この積立金は、終に積って最近二千四百円ほどなり、内千二百円余りで戦役記念のために他村の山林を買い、明治38年にに杉、ヒノキ25万7千本を植栽した。30年の後には、少なくも2万円の収入を得るだろうから、うち8千円を280戸に分配し、その余はすべて学校の資本財産とし、また村に寄附しようと計画』とある。
 駿河みやげ(斯民第一編第十号)に、牧田包栄氏の家の座敷の扁額に、品川弥次郎の遺墨があるとあり、この話を思い出す。
『衛君(衛の32代君主)が蒲の野に行った時、一人の老父があえぎながら一所懸命多くの松の苗を植えているのを見た。衛君は老父に問うた。「老父よ、おまえはどうして松の苗をうえているのか。老父は答えた、「将来、屋根の棟(むね)や梁(はり)とするためです」衛君は言った。「老父よ、年はいくつか」「八十五歳です」衛君は笑って言った。「この松の木が大きくなっても老父は用いることはできまい」「木を植えるのは、それを用いるのを百年後にまつものです。君は必ずこれをその世に用いようとされるのか。ああ君の言葉はどうして国をたもつ者にふさわしい言葉といえましょうか。私は老いてはいますが、死んでも、ひとり子孫のための計をなさないでおきましょうか」と。衛君は大いに恥じて謝まって言った。「私が間違っていた。あなたを師をしよう」と。そして老父をねぎらうのに酒食を以てした。詩に曰く、「貽厥孫諒以燕翼子。於老父有焉」明治三十一年十月二十三日、念仏庵主筆』」とある。
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 司馬遼太郎の「 街道をゆく」のオランダ紀行に、オランダ北部の全長30キロの大堤防を車で走るシーンが出てくる。左が海、右が湖。10キロほど走ったところで停車し、司馬さんは高台に立つ。海には白い波が立つが、湖は波もない。「国土とはこういうものか!」小さい展望塔には、三人の男たちの土を耕す姿がレリーフされていて、「将来を立てないと民族はなくなる(“Een volk dat leeft, bouwt aan zijn toekomst”)」と刻まれている。「今、私たちが立っている現在もかつての人々が将来を思って営んでくれたおかげである」と司馬さんは思う。私たちもまた将来の人々のために現在を営む必要がある。これが報徳である。

*締切大堤防 Afsluitdijk

 締切大堤防とは、オランダ北部にある世界最大の堤防で、北海(ワッデン海)とアイセル湖を仕切るためのものである。
オランダ語の名称は、"Afsluit"(閉鎖、締め切り)と"Dijk"(堤防)という二つの単語から成り立っていて、日本語名称もそこから来ている。 この堤防は、ゾイデル海開発プロジェクトの一環であり、かつてゾイデル海(湾)であったアイセル湖を、外海である北海(厳密には北海に繋がっているワッデン海)から仕切っている。 淡水化し水位を下げたアイセル湖の 4 箇所(北ホラント州のウィーリンガーメール、フレヴォランド州の北東ポルダー、東フレヴォランドと南フレヴォランド(現在のアルメレ、レリスタット、ドロンテン、ゼーヴォルデの各基礎自治体))では大干拓地が造成された。
堤防の南西端は北ホラント州のヴィーリンゲン基礎自治体、東北端はフリースラント州のウォンセラデール基礎自治体である。
締切大堤防上には、欧州自動車道路 E22/A7(E22:国際 E-ロードネットワーク、イギリス西部~同・マンチェスターManchester~オランダ・アムステルダム Amsterdam~ドイツ・ハンブルク Hamburg~スウェーデン・マルメ Malmö~ラトビア・リガ Rīga~ロシア・モスクワ MockBa~ロシア中央部まで5,320km、A7:ドイツ連邦高速道路、デンマーク国境~オーストリア国境まで 963km ドイツを縦断)が通っている。
 展望台の登り口にある、大堤防の石を積み上げる男たちが刻まれたレリーフは、
「将来を樹てないと、民族はなくなる。」(EEN VOLK DAT LEEFT BOUWT AAN ZIJN TOEKOMST)と題されている。

Steenzetter

File:Monument afsluitdijk en omgeving 28-06-2019. (actm.) 16.jpg -  Wikimedia Commons
 また、陸橋を渡ったワッデン海(北海)側には石を積み上げる等身大の像があり、
「水との戦いは人々によって、人々のために続く戦いである」(DE STRIJD TEGEN
HET WATER BLIJFT EEN STRIJD DOOR EN VOOR DE MENS)と記されている。






最終更新日  2022年05月21日 19時21分25秒
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