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地下者覚書

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2014.05.20
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2008年以下記事への追記。
http://plaza.rakuten.co.jp/jigemon/diary/200812270000/

「然れども凡夫なれば動すれば悔ゆる心有りぬべし」
佐渡期の苛烈な弾圧で弟子門下に動揺が広がるさ中、ややもすれば悔いる心もと、自身の信仰の揺らぎを告白する日蓮というのは、どうにも解せぬ処。

「日蓮だにも是くの如く侍るに前後も弁へざる女人なんどの各仏法を見ほどかせ給わぬが何程か日蓮に付いてくやしと・おぼすらんと心苦しかりしに、案に相違して日蓮よりも強盛の御志どもありと聞へ候は偏に只事にあらず、教主釈尊の各の御心に入り替らせ給うかと思へば感涙押え難し」

これを、篤信の門下を賞賛する為の謙遜と解釈する向きもあるが、師がその師たる核心部分を弟子門下に対し謙遜してしまったら、それは果たして師たりえるものだろうか?

さて文末の有名なかの一節の前にこうある。
「一日も寿あるべしとも見えねども各御志ある故に今まで寿を支へたり」
「上下のくわても各の御計ひなくばいかがせん、是れ偏に法華経の文字の各の御身に入り替らせ給いて御助けあるとこそ覚ゆれ」

今まで生き長らえることが出来たのは、あなた方の御志のお蔭です、だから、「何なる世の乱れにも各各をば法華経十羅刹・助け給へと」とつながるのである。

これは謙遜というより、媚や阿りの類というべきではないだろうか?





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Last updated  2014.05.20 13:48:39



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