じじい50の日記

じじい50の日記

わたしのコリア見聞録

ジパングを東方見聞録に書いたマルコポーロは来日してはいない。
わたしも韓国・北朝鮮を訪問したことは無い。。

という前提で、経験談を話します。

朝日新聞とNHKラジオでK士館高校の生徒と朝鮮中高級学校の生徒が乱闘、というニュースをよく聞いたのは60年代後半。

父は「にあんちゃん」という在日クリスチャン少女を描いたという伝記?を家族に勧めるくらい韓国・朝鮮びいきの左翼シンパだった。わたしは、あまり素直ではないこどもだったが、自然と在日に同情するようになった。

日本の旅券に「北朝鮮以外でのみ有効」と書かれていることを知り、自由往来ができない現実を不条理と思った。

在日朝鮮青年同盟に属するという少年が1学年上で同じ学校に居たが、創氏名と本名の両方を使っていて、元気溌剌としていた。
同級生で朝鮮舞踊に熟達した女生徒がいた。喧嘩になって差別語を吐いた男子生徒に平手打ちを見舞った。痛快だった。

朝鮮人女性を侮辱するイラストを描いた生徒に対して、担任教師は本気で叱った。尊敬した。

同級生から、韓国人教祖を崇拝する原理運動と血分けの教義を聞いた。超おぞましかった。

70年代前半、金大中事件が起きた。韓国は危ない可哀想な国だと思った。
そして、留学生政治犯の事件も起きた。どこの国も右翼や官憲は危ないと思った。

同級生に本名を名乗る韓国人女生徒がいた。

政党のビラで、統一協会(原理運動)が朝鮮人参などをお年寄りに売り歩いて、悪質な販売方法を批判されていることを知る。

70年代半ば。クラシック系音楽が好きで、中波放送から流れる北の音楽を聴きながら暮らすようになった。合間に入る宣伝も聞いて、「主体思想」を理解した。

大学で原理運動の熱心・執拗な布教を受け、怖いもの見たさで講師から講義を受けた。おぞましさを確認した。

北朝鮮の映画会を2回覗いて見た。主催者スタッフは大人しそうな女性しか見当たらなかった。
スタッフのオーラ(覇気・活気)がどういうわけか薄かったので、関心が途切れたのだった。

学内の暴力や不正を排除しようという運動があり、それにかかわる中で、「統一協会=勝共連合=原理運動は『韓』国へ帰れ!」というサークルに加わった。

ここは一つのセクトと複数のノン・セクトが合流・雑居しているところだったが、某セクト系学生自治会とは協力関係にあった。

この自治会には大学院生なども出入りしていたが、OBの在日が「ご機嫌伺い」に現れて古株の役員から表面上、歓待されていた。

しかし、某セクトと北支持派とは暗闘があり、北系のサークルは自治会周辺から排除され、

わたしたちの「民族排外主義」的なサークルや、別の「非国家主義」的なサークルが入れ替わった。

部室を引き継いだよしみなのか、OBの在日K氏も顔を見せたが、冷たくあしらったので、姿を見せなくなった。

K氏は活動家らしく、微笑を湛えつつ、溌剌とした精気と緊張感を漂わせていた。非暴力を唱える某セクトの活動家と比べても緊張感があった。
しかし、血色の良さはふつうの過激派などの活動家とは大違いだった。

とある学校の集まりで北系実業家の大物J氏を見た。文字通りの脂ぎった金満家然としていて、あの韓国人教祖を髣髴とさせるものがあった。

佐藤早苗氏が書いた「誰も書かなかった韓国」を読み、なるほどそうだ、と合点が入った。
それで、同じシリーズの「誰も書かなかった北朝鮮」も読んで、著者は札付きの勝共関係者だったが、否定しがたいことを認めた。

その後、ラングーン・テロがあり、87年には大韓航空機爆破事件も起きたが、謀略説を信じることはできなかった。

平壌放送は「革命的義理」の説教をしていた。敵に捕まりそうな偵察係は自決せよ、それが祖国への義理だ、という。
貧すれば鈍すともいえる。いつか来た道。

某政党系革命歌生演奏酒場。
北を賛美する歌はラングーン・テロとともに姿を消すのだが、懐かしのメロディーとしてたま~に復活していた。

テロ事件直後、一人で入ってきたブルーカラーの客は、どうしてもパルチザンの歌を、と粘るが店員は困るばかり、という場面もあった。

最後に一言。

わたしが平壌放送から学んだ「主体思想」は、
他の民族に従属せず、自らの視点に立って判断することを骨子としている。
国民は国を愛し団結すべきである。決して、他国の指導者を絶対化して教祖のように崇拝することなど教えていない。

自分が共鳴する思想と、実際の組織や指導者とは、厳然と切り離さなければならないということを悟った。


© Rakuten Group, Inc.