じじい50の日記

じじい50の日記

列伝 安部磯雄

初期キリスト教社会主義者、晩年は社会党創設メンバー。

米国の神学校に留学、ついでドイツへ留学、ユニテリアン(同一論派)として帰朝。
この宗派は三位一体説を批判している。
人間にできることを重視する姿勢につながり、「あなたがたの間にある、わたしの、すなわち神の子の国」を顕現することに熱意を注ぐ。ここから社会改良の主義が始まる。

日露戦争の前に社会民主党創立を企てたが2日後に禁止された。
平民社に属し幸徳秋水らとともに活動する。
大逆事件には連座しなかったが、一線の活動から退いた。

大正デモクラシー全盛期の終わるころ、「社会民衆党」の党首として再登場した。しかし、支持基盤の労働組合「友愛会」が時勢に圧されて変質し、社会大衆党に改組。安部はここから脱党するも「勤労国民党」の結成を禁じられて議員辞職。

戦後、大政翼賛会の解体にともなって旧社会大衆党のメンバーが古巣の再建を目指し、一方、農民組合を基盤とする戦前労農党の生き残りも党再建を目指して合流した。
この、戦後「日本社会党」は、安部磯雄を顧問として発足。

戦後社会党は、新憲法制定に際して人民主権主義を主張せず、天皇と国民の「協同体」が主権を共有すると唱えたものの、GHQ案より守旧的で実現しなかった。

日本における学生野球や生活協同組合の生みの親ともいわれている。


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