じじい50の日記

じじい50の日記

武士道東京裁判論

東京裁判は勝者が敗者を恣に裁いた茶番劇だったそうだ。

この裁判は、ポツダム宣言で予告されたものであり、捕虜虐待その他の戦争犯罪人には「厳格な」裁きを下す、といっていたのだ。
捕虜虐待のみに対する「厳正公正な」裁判ではなく、その他をも含めた「厳しい」裁き、と予め宣言していたわけだ。

わが国は、これを呑んで降伏した。したがって、武士に二言は無い。

米国は天皇制維持の機会を保障するかわりに、軍国主義者の勢力を日本から除去する、という政治的パフォーマンスをやってみせた。
戦死者の遺族の感情を収めるためには、勝ってしまった以上、派手に報復せざるを得ないのが民主的な政府の弱い立場だ。

靖國神社の解体が考えられたとき、耶蘇の坊主は、そういう施設は残すべきだと進言した。旧教は欧州大陸の多くの地で国教の地位にあり、戦死を美化・奨励してきたのだから、旧敵国にも同様のものを認めてやろうという「愛」の精神だろう。これは、出雲大社(朝敵の怨霊を鎮める)を大切にした大和王朝のような態度に通ずる。

そういうところにA級戦犯を祀っても、米国は異を唱えない。だからといって、侵略戦争だったという評価を変えたものと思ってはならない。遺族会が米国に全面的に協力してくれる以上、黙認しようということだ。

中国は宣言の当事者だが、遺族会が必ずしも「一つの中国」を支持せず、中国に協力してくれない現状で、侵略戦争を免罪するような政治パフォーマンスを許せるはずが無い。

日本にも先の大戦について言い分はあるが、所詮は「敗者の正義」である。
女々しく未練たらしいことを言うまい。恥の上塗りになるだけだ。

東京裁判に不服を唱えたり、A級戦犯を祀る靖國神社に首相が敢えて参拝することをよしとするのは、武士道の美学に適わない。


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