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テーマ:一人旅(国内)(640)
カテゴリ:北東への旅
下田と言えば、吉田寅次郎と金子重輔です。
ペリー艦隊でアメリカへ密航を企て、失敗。 牢につながれます。江戸の牢屋から、国元長州の野山獄へ移され 其の後、自宅蟄居となり、そこで松下村塾を開きます。 金子重輔(じゅうすけと読むようですが、花神では、しげのすけとなっていました^^) は、長州で獄中死してしまいます。 2人は、前年長崎へ行き、プチャーチンにロシアへ連れて行ってもらおうとしますが 長崎に到着した時には、すでにロシア艦隊は去ったあとで。。。 で、再来日するペリーを下田に待ち受けたようです。 下田で、ペリー艦隊の様子を見ながら潜伏していたところだと。 ペリーは1853年4隻で来ますが 翌年には、7隻で来ています。 ペリーの旗艦がポーハタン号。 しかし、渡米を断られ 下田へ送り返され、密航は失敗します。 花神では、この時対応したウイリアムスが 「やがて、アメリカ人が日本へ。日本人がアメリカへ。一つ国のように行き来する時代が来ます!」寅次郎は「そんな、待っていられない!私は、今!行きたい」 ウイリアムス「今は、幕府と開国の(和親条約締結)交渉中で、幕府の法を犯して密航を手伝うなどはとても出来ない」と。。。「このまま、下田へ戻されると、私たちは死罪になる」と訴えますが、聞き入れられず。 浜へ戻された寅次郎らは自首します。 獄につながれた寅次郎は、獄の中で 囚人たちと交流を広げ、いろいろなことを教授していきます。 松陰が獄中で書いた詩ですが 坂本龍馬の「世の中の 人は何とも 言わば言え 吾がなすことは 我のみぞ知る」だったか? に似てますね。竜馬が影響を受けていたのかな? 寅次郎は、いったん江戸から長州へ移され 長州で松下村塾をひらくんですが 井伊直弼の安政の大獄で、再び江戸送りとなり 刑死します。その時、獄中で書いた遺書が留魂録です。 寅次郎は2通を作成、一つが門弟により、長州へもたらされ 高杉晋作などに伝わったそうです。 もう一通は沼崎吉五郎という囚人に委託され、吉五郎は三宅島送りになるが 明治になって、解放されたあと、長州出身の人にもたらされ、現物が残っているそうです。 花神では、吉五郎のもたらした留魂録について 描かれていたが、 なぜか?(私の記憶違いもあり得ますが。。。) 門人たちに、すぐに一通が伝わったこと、描かれていなかったような? 描かれていたのかな??? 寅次郎が遺書に書き残した通り 高杉晋作や久坂玄瑞や多くの松下村塾出身者が、攘夷から倒幕へ と実践していくので、松陰が自ら書いているとおり、見事にまいた種が実を結んだと 言うことなので、大々的に?^^描かれて当然のような気がします^^ まあ、とにかくすごいですね。 だいたい松下村塾で教えていた期間もたったの2年ほどで あれだけの人材を輩出したというのは。 また未だに、山口県出身の総理大臣、おそらく最多では??? (総理大臣がえらいとは、全く思いませんが。。。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 13, 2021 09:37:31 PM
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