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テーマ:旅のあれこれ(10457)
カテゴリ:中国地方
松山城の途上、高松城跡があったので、寄りました^^
![]() 羽柴秀吉の水攻めで有名な城です。 沼地を堀として利用した平城ですが 攻めあぐねた秀吉(黒田官兵衛)は足守川の水を引き入れる水攻めを選択。 ![]() なるほど。見るからに低地にあった城だと。 秀吉は、周囲2.6キロ、高さ8メートルの堤をわずか12日間で作らせたとか。 水に囲まれ、毛利の援軍の苦戦を見越した城主 清水宗治は自刃し和睦がなりました。 ![]() 和睦するや、秀吉の中国大返しが始まり、あっという間に vs毛利戦線を脱し、明智光秀を破る離れ業をやってのけたと。 ![]() さて^^備中松山城です❣ ![]() 現存12城の一つです。 一番行きにくい城ではないかと^^ 山城なので、登らなあきません。 ロケ地としてもたくさん使われていると。 ![]() バスで残り700メートル地点までは行けます^^(平日はマイカーでここまで行けるようです) たった700メートルですが^^ ![]() けっこう急だし、 朝、鬼の城も歩いていますので・・・^^ ちょっと応えるかな❓❓(この日、2万歩超えました) ![]() かなり上がって、門前まで来たのに、天守は見えません。 ![]() まだ見えません。 もし攻めるなら、目標の天守が見えないってのは けっこう精神的にしんどいかも❓❓ ![]() ![]() ようやく到着~❣❣ ![]() 天守閣です~ 2層の低い天守です。 ![]() 与謝野鉄幹の歌がありました。 ![]() 松山の 渓を埋むる朝霧に わが立つ❔❓の 四方白くなる ❔❓の字が読めません・・・なんて読むのでしょう❓❓ 松山城ですが、城主は相当変わっています。 現存天守を作ったのは、関ヶ原後の小堀遠州ではないか❓ってことのようです。 毛利の最東端の松山城に入れられた小堀遠州は(入れたのは、もちろん家康) 作庭家として有名ですが、政治(統治❓)能力、武将としても有能だったのでしょうね。 ![]() 忠臣蔵の大石内蔵助も1年半❔❓ほど入城しています。 これは、水谷氏から安藤氏に城主が代わるときに、 暫時の抑えに、浅野内匠頭が選ばれ、浅野の家老であった大石が出向いて 滞城したと。 ![]() 現存天守は、必ずですが、急階段です^^ ![]() 天守の奥に見えている櫓。 天守とこの櫓が現存だと。 ![]() なんと!新島襄も関りが深いと^^ 新島襄は安中藩士(あんなか:群馬)ですが、 安中藩主の板倉氏は、備中松山の板倉家の分家だったと。 その縁で、江戸在住板倉藩の川田甕江(読めません^^)に師事しており その縁で、備中松山藩の洋式帆船 快風丸に乗船したりしていたと。 さらに、新島がアメリカへの渡航を考えたとき、安中藩主は反対し邪魔をしたが そのとき、備中松山藩の板倉勝静(かつきよ:最後の藩主)が支援し 快風丸で函館へ渡り、函館から渡米しています。 まあ、山中の藩が洋式帆船を持っていたくらいですから、開明的だったのでしょうね。 ![]() 新島襄は、八重さんと結婚しますが(大河ドラマ「八重の桜」) アメリカで暮らした襄は、やえさんと呼び、彼はジョーと呼ばれていたと❣ 幕末に夫を呼び捨てにするなど、あり得ないようなことだったと^^ さらに板倉勝静ですが、幕末の老中首座で 大政奉還建白書を受け取るなど活躍したと。 戊辰戦争では、鳥羽伏見で将軍慶喜とともに江戸へ逃げ帰り❔ その後、函館戦争まで戦ったと。 その間、隠居していた山田方谷(ほうこく:漢学者で藩財政改革など板倉を支えた) を引っ張り出した備中松山藩(もちろん佐幕派で賊軍^^)は 恭順の姿勢を打ち出し、なんとか無血開城にこぎつけ生き延びたと。 今、山田方谷を大河ドラマにと、アピールしているようです^^ (高遠でも、そんなのがあったなあ^^) ![]() 維新後、松山は、愛媛や武州(武蔵:東京あたり)にもあるということで 変名することになり、高梁川から高梁藩となり、廃藩置県で藩がなくなったあとも 高梁の地名は残ったと。(たかはし) ![]() ![]() ネコ城主が居ました~ 人間の年に換算すると100歳を超えているとか。 ![]() いやあ、なかなか行くのは、大変かな^^ これで、私は現存12城、あと2城(丸亀・宇和島)です。 今年中には、行きたいと思います❣❣^^ 帰り、赤いトカゲが居ました~ ![]() 最強に城に選ばれたこともあるようです^^ ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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