龍水御朱印帳

2009/02/11(水)10:55

「ムササビは大津皇子じゃない」の巻

万葉散歩(5)

 牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨第三巻 267 むささびは木ぬれ求むとあしひきの山の猟夫(さつを)にあひにけるかも志貴皇子 「ムササビは 梢に飛び移っていて 山の猟師に見つかってしまったよ」    志貴皇子の歌碑がある垂水神社。現在の吹田市垂水町は住宅密集地になっていますが、昔は緑と水の森だったのかも知れません。近くに住む私でさえ、「こんな場所に皇子が来るだろうか」とも思うのです。しかしよく考えてみれば、およそ5km南には大化改新後に造営された難波宮(孝徳天皇)があったのです。     吉野・宮滝  その志貴皇子が、歴史上で初めて登場するのが「吉野の会盟」の場面。天武天皇8年5月の吉野、天皇は「千年の後に 事無きことを欲す」と皇子らに詔した。皇子たちは皇位継承の争いをしないという盟約を結ぶのですが、実際は皇后(持統天皇)の皇子、草壁皇子を後継者とする宣言だったと言われています。しかし大津皇子が謀反の罪で処刑されてしまいます。(この「大津皇子の変」は陰謀であった可能性が高いと言われています)「むささびは・・・」 志貴皇子のこの歌は事を起こした大津皇子をムササビに喩えて詠んだという説があります。もっと拡大解釈をして「高い地位を望んで失脚する人」の意味とする説もあるそうです。志貴皇子は天智天皇の皇子で、しかも母は後宮の釆女。皇位継承の可能性は低かったのですが、吉野の会盟に参加した身であるので誤解を招くような歌を詠むとは思えません。処刑されたのが天智系の皇子だったなら、志貴皇子が苦言を呈することもあるかも知れませんが大津皇子は天武系でしかも格上の皇子だったのです。「いわばしる・・・」と、単純明快に春の歓びを詠った志貴皇子。やはりこの歌も、万葉の歌らしくシンプルに読みたいと思うのです。「ムササビみっけ」私ならそう解釈したいです。      垂水神社の近くで見つけた「雉子畷(きじなわて)の石碑」時はいにしえ、淀川の長柄の渡しに橋をかけようと地元の人たちが苦労したが、なかなか難事業で成功しなかった。だれかが犠牲にならなければ、橋はできない、と我が身をかえりみず、人柱となった岩氏のおかげで、遂に立派な橋が両岸にわたり、こうして大勢の難儀が救われることになった。  岩氏のひとり娘は非常に美しい人であったが、この父の悲劇によって、物いわぬ人となった。河内の禁野村にとついだ後も、ずっと物を言わなかったので、ある日、実家へ帰されることとなり、夫とともに、ちょうどこのあたりへさしかかったとき、雉子が鳴いて、夫がそれを射殺してしまった。その時、女は悲しんで    ものいわじ 父は長柄の橋柱                雉子も鳴かずば 射られざらましとよんだという。 それから、このあたりを「雉子畷」といいつたえたということである。                           ~ 吹田市教育委員会による案内板より ~ この石碑を見て、ふと志貴皇子のムササビの歌を思い出したのです。しかしこちらは「おとなしくしておればよいものを・・・」の喩えに使われるようです。       「雉も鳴かずばうたれまい」 私もけっこう「一言多い」タチなので、気をつけたいと思います。万葉散歩 No.5 .

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