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龍水御朱印帳

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2025.03.23
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カテゴリ:滋賀県の神社


新羅善神堂(しんらぜんしんどう)

​。​

新羅善神堂は三井寺(園城寺)・北院の中心堂宇で三井寺の鎮守社のひとつ。

元は新羅社とも呼ばれ、本堂は流造の神社建築。

現在の本堂(本殿)は、南北朝時代に足利尊氏からの寄進で国宝。

祀られているのは、園城寺の守護神とも言われる新羅明神。

新羅明神は唐に留学した僧・円珍が日本に帰国する際に顕現した神とのこと。

円珍は平安時代の僧で、園城寺を再興した功労者。



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​。​

三井寺ですが、平安時代には単に「寺」と言えばこの三井寺のことだったとか。

 

それくらい格式の高い寺だったということですね。

 

一方、延暦寺は「比叡山」と「山号」で呼び称されていたそうです。

 

三井寺(園城寺)の開基は大友与多王で、大友氏の氏寺とされています。

 

大友与多王は大友皇子(弘文天皇)の御子です。

 

園城寺は天智天皇と弘文天皇(大友皇子)の菩提寺と言っていいと思います。

 

 

 

Wikipediaによればこの園城寺は

 

壬申の乱では大友皇子と敵対した天武天皇ではあるが、

朱鳥元年(686年)にはこの寺の建立を正式に許可し、

「園城寺」の寺号を与えたという。

「園城」という寺号は、大友与多王が自らの「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って

一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。

 

そして別名の「三井寺」については

 

天智・天武・持統3代の天皇の、産湯として使われた井戸があるので

「御井の寺」が転訛して三井寺と呼ばれるようになったと言われています。

 

 

どちらも、なんとなく「無理くり感」が否めません。

 

三井寺という名称はともかく、

 

「園城」は「ソノギ「と読めば、朝鮮語の「セェネギ(鉄の国の城)」

これは新羅(シラギ)を表す言葉だそうです。

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新羅善神堂の前には、かなり広いスペースがあります。

壮大な御神事が斎行されていたのかも知れません。

平安時代の武将・源頼義の三男、源義光はここで元服したことから

 

新羅三郎(しんらさぶろう)と呼ばれたそうです。

 

兄たちも同様に八幡太郎(長男・源義家)、

 

賀茂次郎(次男・源義綱)と元服した場所にちなんで呼ばれたそうです。

 

それぞれ石清水八幡宮、賀茂神社(京都・上賀茂・下鴨神社)のこと。

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新羅三郎義光の墓


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新羅善神堂の近くには(「近く」と言ってもかなり山道を歩きますが)

新羅三郎義光の墓があります。

このように、
新羅善神堂は平安時代以降の堂宇なのですが

元々はどういう場所だったのかは不明です。

園城寺(三井寺)の中心伽藍からは、北に約500m離れた場所。

しかしこの地は、特別な意味があるように思えるのです。

​。​


新羅善神堂・鳥居

​。​

上の写真は新羅善神堂入口の鳥居。

かなり柱の長い、大きな鳥居です。

そしてこの鳥居の前にあるのは、

弘文天皇 長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)です。

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弘文天皇陵

​。​

新羅善神堂の鳥居は、この弘文天皇陵を見守るように立っています。

歴史上では、新羅は弘文天皇(大友皇子)にとっては宿敵のはず。

弘文天皇(大友皇子)が生きた時代を、日本書紀から見てみます。


大化4年(642)  大友皇子生まれる(父・中大兄皇子=天智天皇)

斉明6年(660)  斉明天皇、百済救援の軍派遣を決める

斉明7年(661)  一月斉明天皇、中大兄皇子ら、九州へ出帆。七月天皇崩御

天智2年(663)  百済救援の官軍、唐・新羅連合軍に白村江で大敗

天智6年(667)  都を近江に遷す

天智7年(668)  中大兄皇子即位(天智天皇)

天智10年     十月大海人皇子、出家し吉野へ入る。十二月天皇崩御

天武1年(672)  大海人皇子挙兵、近江軍と開戦(壬申の乱)。近江軍に勝利

          大友皇子自決。都を飛鳥浄御原に遷す

天武2年(673)  大海人皇子即位(天武天皇) 


上記一覧で注目したいのは、太字の部分です。

大友皇子の祖母・斉明天皇の御代に

大和は白村江で唐・新羅連合軍に大敗を喫しています。

なので新羅明神が三井寺の鎮守とされたり、

弘文天皇陵を見守るように鎮座していることは不可解なこと。

三井寺中興の円珍は白村江の大敗から200年後の僧。

円珍はそのことを知らなかったのでしょうか。

私はそうではなかったと想像しています。

                        つづく





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Last updated  2025.03.23 17:26:55
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