
新羅善神堂
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「御祭神」の新羅明神は円珍の前に顕現した神です。
従ってこの新羅善神堂は平安時代の創建となるのでしょう。
しかし、それ以前から新羅ゆかりの何かがあった可能性もあります。
この新羅善神堂は中心伽藍の方に向けて鎮座しているようです。
しかしその参道は弘文天皇陵に向かっているのです。
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参道入口にある鳥居は、弘文天皇陵に寄りそうように立っています。
そこから新羅善神堂に続く参道にも注目です。
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今ではこの参道を利用する参拝者がいないせいか、
参道には苔が生えています。
しかしかつては立派な参道だったことが伺える姿。
そして下鴨神社(賀茂御祖神社)の「糺の森」を彷彿とさせる、参道を包み込むような森。
この先にあるものが「ただ者」ではないことを想像させる参道です。
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そして参道は突き当り、右(北)へ90°
新羅善神堂・本殿(本堂)前へと石段を上がるのです。
このように本殿(本堂)は中心伽藍の方を向いていますが、
参道はどう考えても弘文天皇陵に向かっています。
両者が無関係であるとは思えません。
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しかし前の記事でご紹介したように、大和は唐・新羅連合軍にコテンパンにやられたはず。
弘文天皇(大友皇子)にとっても、新羅は宿敵であり脅威であったはず。
祖母の斉明天皇と父の中大兄皇子(天智天皇)が九州に遠征し、
そして大和軍が白村江で大敗を喫したのは大友皇子が20歳前後のことでした。
日本書紀には大友皇子が斉明天皇らと、九州遠征に参加した記述はありません。
しかし大友皇子にとって、唐・新羅連合軍との戦いに無関心だったはずはありません。
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白村江の大敗から200年後とは言え、
円珍がこの地に新羅善神堂を建てたことは弘文天皇への「いやがらせ」みたいです。
しかしはたしてそうなのでしょうか?
日本書紀は日本古代史の「正史」ではありますが、
それは天皇の命により天皇に献上された、天皇の歴史書。
全て真実が記されているわけではないことは、
学者だけでなく古代史を研究するほぼ全ての論者が認めるところ。
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白村江から200年後の人物とは言え、
円珍は新羅の商船で唐に渡った留学僧なのです。
むしろ、当時の大和と唐・新羅との真の関係を知っていた可能性があります。
この記事で完結させるつもりでしたが、
申し訳ありませんが、思わせぶりに…「その3」につづく。
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