
弘文天皇陵
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前回までの内容をまとめます。
①新羅明神を祀る新羅善神堂は、弘文天皇陵を見守るように鎮座している
②唐・新羅は日本書紀によれば、大和の宿敵であり脅威のはず
よって新羅明神が弘文天皇(大友皇子)の守護とはなり得ない
③三井寺中興の僧・円珍(平安時代)は、新羅の商船で唐に留学
大和と唐・新羅の真の歴史を知っていた可能性がある
ただし、大友皇子(弘文天皇)は怨霊であり
それを新羅の神で「封印」したと説く論者もいます。
30年以上前の著書なので、今も同じ考えかどうかは不明ですが
井沢元彦氏は「逆説の日本史」でそのような説を論じておられました。
壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に敗れた大友皇子は
怨霊として恐れられた可能性はあるでしょう。
しかしその「怨霊」を恐れたとすれば、それは天武天皇だったはず。
新羅明神で大友皇子の怨霊を封じ込める意味がわかりません。
新羅は天武天皇にとっても宿敵であり、脅威であった「はず」だからです。
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弘文天皇(大友皇子)の記述や、近江遷都あたりの日本書紀の記述に
いくつか不可解なものが散見されます。
そのうちのひとつが、斉明天皇の九州遠征の記述。
七年春一月六日、天皇の船は西に向って、航路についた。
八日、船は大伯の海(おおくのうみ・岡山県邑久の海)に着いたとき、
大田皇女(おおたのひめみこ・中大兄の子で大海人皇子の妃)が女子をお生みになった。
それでこの子を大伯皇女(おおくのひめみこ)と名づけた。
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唐・新羅によって滅亡の危機に瀕していた百済救済のため、援軍派遣を行った斉明天皇。
上記のように自らも中大兄皇子(天智天皇)と共に、
九州に向かって行幸したことが日本書紀に記されています。
しかしその行幸に、大田皇女という臨月を迎えた皇女も同行していたのです。
「戦いに挑む」行幸とは、どうしても思えません。
大和(都)が危険だから「逃亡した」というのならわかります。
しかし都を捨てるにしても、「戦場に向けて逃亡する」はずがありません。
どうやらこのあたりの日本書紀の記述は、疑ってかかった方がいいのではないでしょうか。
今回で完結する予定でしたが、すみません。
次回はきっと…。
しかし結論は私の「妄想」なので、期待しないでください。
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