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2025.03.27
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カテゴリ:滋賀県の神社



​。​

新羅商人の船で入唐した経験を持つ円珍は、

 

「歴史の真実」を知っていた可能性があると前の記事で書きました。

その「真実」とはなにか。

謎を解くそのヒントは日本書紀・斉明天皇7年の記述にあります。

「斉明天皇、中大兄皇子ら、九州へ出帆」という記述。

一見、百済救済のための援軍を指揮する行幸のようですが

その九州遠征に臨月の皇女が同行していたことです。

百済救済の援軍の将としての行幸とは思えません。

.

弘文天皇陵



もう一度、整理してみます。


①新羅明神を祀る新羅善神堂は、弘文天皇陵を見守るように鎮座している

②唐・新羅は日本書紀によれば、大和の宿敵であり脅威のはず
 よって新羅明神が弘文天皇(大友皇子)の守護とはなり得ない

③三井寺中興の僧・円珍(平安時代)は、新羅の商船で唐に留学
 大和と唐・新羅の真の歴史を知っていた可能性がある


そしてこれに斉明天皇の九州遠征の謎が加わります。

つまり、「臨月の皇女が同行していた」こと。

それは極端に言えば「お気楽な旅」だったということ。

​。​


大宰府政庁跡

​。​

​上記①~③+αの謎を解く仮定がひとつだけあります。

それは大和・天皇が実は「親 唐・新羅」だったという考え。

つまり日本書紀は、そのことを隠蔽していたから歪な謎が発生していたのではないか。

白村江の大敗後、日本は唐・新羅から侵略されたわけではありません。

むしろ後年は「遣唐使」など、良好な関係に発展しています。

では百済救済の援軍を送り、白村江で大敗したのはどこか。

中国の歴史書にその答えのヒントがあります。

白村江の戦いのbefore&afterの記述の違いの、ほんの一例をご紹介します。




1.before・白村江

隋書・倭国伝

 

開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕

(開皇二十年倭王の使いが宮中に来た。倭王の名は姓はアメ、名はタリシホコ)

※「タリシホコ(多利思北孤)」の「北」は「比」の誤植と言われています。

 どちらにしても倭王アメノタリシヒコは男王ですが、

 当時の大和の天皇(大王)は推古女帝です。

 

有阿蘇山其石無故火起接天者

(倭国には阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天に届く)

※阿蘇山は言うまでもなく九州の火山です。




2.after・白村江

 

 

旧唐書倭国伝・日本国伝

 

日本國者倭國之別種也(中略)日本或云日本舊小國併倭國地

(日本国は倭国の別種。日本は元は小国であったが倭国の地を併せたものだ)

※旧唐書によれば、大和の「日本国」と「倭国」は別の国だということ。

 

衣服之制頗類新羅

(衣服の制度は新羅に似ている)

※「旧唐書」の言う「日本国」は親・新羅派と言っているようです。

 

 

宋史日本伝以降

 

内容については省略します。

 

天皇に関する記述など、日本書紀からの引用が主となっています。



これらは大和とは別に、九州に王朝があったことを示唆しています。

そして白村江の大敗に乗じて、大和が九州王朝を併合した可能性はないでしょうか。


最後は多少強引な寝技に持って行った感がありますが、

信じる信じないは別として、「日本書紀はなにか隠してるかも」

そう感じていただければ幸いです。






​。​






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Last updated  2025.03.27 08:40:08
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