80回記念―本当は馬鹿馬鹿しい部落差別 「小ばなし」でバイアス(偏見)を解消する
80回記念―本当は馬鹿馬鹿しい部落差別「小ばなし」でバイアス(偏見)を解消する馬鹿馬鹿しいとは?無意味なこと、くだらないことを指す。人間がそう思う時はどんな時か?問題の本質を理解し、もうこれ以上説明を聞くことも、学習することも、必要がないと心底思った時だ。部落への偏見を最終的に氷解させる力は、自分の偏見が「馬鹿馬鹿しい」と心から思えるようになることだ。いよいよあなたは「馬鹿馬鹿しい」世界に入る。 はじめに 当ブログは今回で80回目となった 「人間が人間を差別するのは間違っている」と書けばすむものを、差別の根源を立体的に認識していただくために、人間が生存のために獲得した脳の進化。科学・技術の革新による経済や社会の発展。宗教・哲学・思想の変化。それらの総和の中で確立した人権認識をもとに、人類史からみればほんの一時期にすぎない封建社会に生まれた身分制の思想的残りカスを洗浄するための洗剤となればと思い、多面的な視点で問題提起させていただいてきた。 当ブログは100回で終了させていただく予定である その理由は、差別的偏見のない人、克服した人から、「あほうにとりあう馬鹿」(諺・あほうの言動にいちいちとりあう馬鹿のこと)と見られているのを知りつつ、「差別は間違いだ」という極めて単純な真理を繰り返し、繰り返して「説教」していることが馬鹿馬鹿しくなってきたからである。 フェーズ(phase・段階、局面)の変化を知らない「差別者」たち 「ネット空間」のごく一部には、部落問題を科学的に解明し、部落差別を解消するためではなく、匿名性を利用して敢えて賤称語・差別語をもてあそび「炎上」することで、世間の耳目を集め視聴者を増やそうとする、まことに自己顕示欲と計算高い「差別者」も存在しているようである。 問題となる「ユーチューブ」では、かつて評判となった存在もしない未知の生物を探検する『川口浩探検隊』(テレビ番組)のように、「部落」「部落民」の定義や変化に関係なく、ナレーションで賤称語・差別語を使用し、恐怖心と拒否感を煽っている。 彼らは部落差別を語るフェーズ(phase・段階、局面)が変化しているのに気づいていないばかりか、こうした行為は差別・偏見にまみれた自分たちの「江戸時代の頭」を世間にさらしていることに気づいていないのだ。 「我が頭の蠅を追え」である。 怖い怖い差別禁止の未来予想図 部落差別をもてあそぶ人間たちが無くならなければ、「解放同盟」が提唱し、マスメディアの多くが同調している「包括的差別規制法」が制定され、取り締まられることになるかもしれない。さらに、それでも効果がない場合は?法規制が強化され、国家権力が差別者を拘束して脳の外科手術で治療することになるかもしれません。実際に脳科学の進展により、脳のどの部分にメスを入れたり電極を埋めれば、差別を発動する要因である恐怖感情を抑制することが出来るか、分かっているそうである。 これは怖い。 そんなことにならないうちに部落差別が「馬鹿馬鹿しい」と感じられる世の中にしようではないか。※サルはヘビをとてもこわがるが、扁桃体がないサルは平気で手で取って食べようとする。「扁桃体」が無くなると「こわい」という感情が無くなる。(朝日出版社『進化しすぎた脳』・池谷裕二)1、部落差別を「馬鹿馬鹿しい」と感じられますか?「考えるな、感じろ」(「Don’t Think. Feel!」)この言葉は、映画『燃えよドラゴン』でブルース・リーが発した有名なセリフです。部落問題を考えた時、人が人を差別する、ましてや同じ日本人を差別するなどもっての外、しかも差別の根拠が妄想の類だ。部落差別がいいか悪いかなど、考える必要なし、この小ばなしで感じろ。1、小ばなしその1-知らぬが仏(それがどうしたの)※この小ばなしのポイント―「部落民」とは偏見がつくりだす妄想だ①まず「部落」と「部落民」の定義を正しく理解しておこう 部落問題は日本民族内部の問題であり、少数民族問題ではない。「部落」とは、近・現代社会においても封建社会の身分を理由に差別を受けていた居住区のこと、「部落民」とはその居住区に住む人およびその出身者のことである。現代における部落差別とは封建社会の残りカスである身分的偏見を克服できない一部の人々によって引き起こされる人権問題である。 いうまでもなく、封建社会においては居住区は身分や職業により固定化されていた。武士は武家屋敷街、商人は商人街に、農民は村(むら)に居住していた。明治維新以後、資本主義の発展を支えるために居住移転は自由になり、農民が労働者化し、都市に集中することにより所得ランクによる新しい居住区が生まれた。 「部落民」は封建社会から引き継がれてきた賤視・排除観念により、零細な「部落」の伝統産業に従事するか、低賃金を下支えする不安定労働者として利用されるしかなかった。その結果、居住区の移動も限られ、劣悪な住環境のもとにおかれ続けたのである。②「部落」の人口が減少すると「部落民」は消滅していく 総務庁の調査によれば、1987(昭和62)年の「部落」の人口は1,167,732人、1993(平成5)年の人口は890,908人となり、なんと276,824人も減少している。この時期は同和対策事業の最盛期であり、普通の常識では同和対策が利用できるから、実利的にいえば人口はどんどん増えるはずだが減少している。 なぜか? 理由は二つある。日本国憲法に基づく人権尊重の認識が国民の間に広がる中、一つは教育条件が改善され、就職条件が改善され、地区外に転出する人たちが増加したこと。二つ目は住宅・環境改善を進めるための住宅地区改良事業などに協力した地区内の持家・土地所有者が地区外に転出したためである。特に同和地区の高学歴層・富裕層の転出が促進され、流入者が一定数あったとしてもそれ以上に流出する現象が起こったのである。 変化を見よ!「部落」の壁は崩れ、「部落民」は消え続けているのだ。③だから最近の「部落差別」に関する相談はややこしくなった 私たちの事務所では同和対策が終結する頃から、予想外の相談を受けるようになった。 ①神戸市のある係長からは、「うちの娘が『部落』の悪口をよく言う、私も部落出身。それを娘に教えるかどうか迷っている。教えるとショックを受けるかも。どう説明したらよいか?」 ②神戸人権交流協議会で熱心に活動している役員から、「うちの息子が『部落』を指して『あのへんはややこしいところらしいな』と言っていたのを聞いて驚いた。どう説明したらよいか?」 ③「つきあっている彼女が『部落』の悪口を言う。私も『部落民』だと言いたいが、恋愛が壊れるかも知れない。どうしたらいいか?」 最初の二人は地区外に転出してから長い期間が経ち、子どもたちは両親が「部落」出身であることを知らないで育ったケースだ。最後の一人は両親が部落出身であることを知っているが、恋人に話していないから生まれる悩みだ。 「事実は小説よりも奇なり」である。「ネット差別」の発信者の中にも、自分の両親が「部落民」とは知らずに「部落民」を攻撃している人がいるかもしれませんね。④「部落民」であることを「告白」すれば差別者に負けたことになる こうした悩みの根底にあるのは相談者の側に「私は部落民」という強い「自覚」があるからだ。その「自覚」がなければ悩むことはないはずである。そうした相談者にいつも問いかけていることは、 ①「今の日本は封建社会ですか?」 ②「今の日本国憲法や法律の中に『部落民』という身分は存在していますか?」である。 異口同音に「違う。存在していない」と答える。そこで、「『部落民』が存在しているのは差別者の頭の中だけではありませんか?」と問うと、「そうだ!」と答える。 そこで、「日本国民に『部落民』であるという『自覚』を持たせようとするのは差別者の偏見を認め、それに迎合することになりませんか?『自覚』させるより必要なのは、いかなる差別も間違いであると理解させることではありませんか」と話した。 みなさん、一生懸命に日本国憲法の基本的人権条項を学び、説得したそうである。その結果はご想像下さい。火花散る。これこそが人間が進歩する瞬間ですよ。※差別はダサイ。平等は、高貴である。そういう観念は、人類史のほんのこのあいだまで星のように高い理想だったが、いまは10円玉のようにたれのポケットにも入っている。(中央公論社『風塵抄』・司馬遼太郎)2、小ばなしその2-「部落」は江戸時代の頭から生まれる※この小噺を理解するポイント-アイデンティティとは「系図探し」ではない①「部落地名総鑑」は「貧乏人の系図探し」のようなもの 「部落地名総鑑」の原典の1つとされている『全国部落調査』は1936年3月に(財)中央融和事業会が発行した。この『全国部落調査』が発行されたのは、満州事変(1931《昭和6》年)が勃発し、日中戦争が泥沼化し、国家総動員体制が強化される時代であり、部落問題の解決をめざすより、「部落」の思想統制、「部落民」を戦争遂行に動員するための基礎資料を作成することが目的であった。 「部落地名総鑑」とは、一定の歴史期間に存在した「部落」の名称を記した資料にすぎない。地名に込められる思いは居住者が変化すれば変化する。部落差別の記憶や体験を持たない居住者が多数を占めていくと、あるいは偏見を持たない人が増えていくと、その地名から「部落」の記憶は消え去るのだ。 諺に「貧乏人の系図探し」がある。貧乏人ほど先祖探しをするという意味だ。「部落地名総鑑」で「部落」探しをしている人たちは自分の家系の優位性を確かめて自己満足しているだけである。この行為の根源にあるのは間違いなく貧困な心である。※差別ほどうすぎたないものはない。よほど自己に自信がないか、あるいは自我の確立ができないか、それとも自分についての春の海のようにゆったりとした誇りをもてずにいるか、どちらかにちがいない。(中央公論社『風塵抄』・司馬遼太郎)②アイデンティティとは幸福になるために「自分」を確立することだ 水平社100周年を記念した「解放同盟」のイベントやマスメディアの特集は「部落民」を「自覚」することを促進しているようであった。その根拠としているのは被差別者としてのアイデンティティを「自覚」することである。この論理の中には「部落民」でも差別されたことのない人、差別に屈しない人は含まれていない。 アイデンティティとは難しく言えば「自己同一性」や「自我同一性」と説明されているが、簡単にいえば「自分らしさ」を確立することである。「自分らしさ」とは自分が自分であることを認識することである。自分のアイデンティティを「部落民」とする人がいても構わないが、「部落民」から卒業し、普通の日本国民あるいは国際人として認識する人がいても構わないはずである。 理由は以下の通りである。①アイデンティティの選択は、資本主義の発展とともに成熟してきた人権の基礎となる自由と平等を原則にして個人に委ねられている。②現在は封建社会ではないから、封建社会の身分を自分に紐づけアイデンティティを確立する必然性も、他者から強制される理由存在しない。③グローバル社会におけるアイデンティティは個人が地域的、民族的、宗教的な束縛から解放され、普遍的な人権認識が原則となるから、「部落民」を「自覚」することなど、無意味であるばかりか、社会発展を阻害する妄想である。 いまや「部落差別」は妄想の産物と言っても過言ではない。この妄想の発信源の一つは、ごく一部の人たちが発信する「ネット差別」であることは間違いないが、それに過剰に反応し、騒ぎ立てて拡散しているのは「解放同盟」とマスメディアである。 この前者と後者の関係を俯瞰で見ると、「包括的差別規制法」というゴールに向かって走る列車のレールの右と左のようである。日本国民は、どっちのレールを撤去すればいいかを考えなければならないフェーズに来ている。 ※私たちの誰もがふたつの遺産を受け継いでいるのです。ひとつは、自分の先祖、民族の伝統、宗教的コミュニティに由来する「垂直的なもの」。もうひとつは、自分の生きている時代、同時代人に由来する「水平的なもの」。この後者の方がずっと影響力を持っていると思われます。(筑摩文芸文庫『アイデンティティが人を殺す』アミン・マアルーフ著・小野正嗣訳)※水平社宣言の「水平」の真の意味が分かったかい。「水平」とは人間が獲得した平等という普遍的価値観に基づき自己を確立することだ。そうだ自己の確立だ。(本ブログの黒猫さん) また来年会いましょう。馬鹿馬鹿しい部落差別を本当に馬鹿馬鹿しくするために頑張るよ。