カテゴリ:短歌
6月8日(土) 近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(90年9月) 「皓とした一点」 わたしたちの「未来」も来年で創刊四十年を迎えるという。記念事業、ないし記念パーティを行う計画が運営委員会を中心に進められている。それはみなさんと一緒によろこぶべきことなのであろう。 ただ、ひとつの文芸運動、ないし短歌の場合その一結社誌が年を重ねることは、それだけそこに集り寄るものも年齢をかさねるはずとなろう。創刊初期からの参加者はいうまでもなく、後から加わられた人も多く同様といえる。ひとりの作者が、自らの制作の上に長い歳月を重ねることはその作る世界の厚さ深さを加える意味で大事といえるが、一面そうではないものをも加えることとなる。作者の年齢的老いと比例する停滞であり沈滞である。それは自ら知り、自ら警めていなければならない。 わたしの選歌という作業を通して見て来たみなさんの作品について多くの同じことがいえる。若い日に歌を作り出し、それぞれに何らかの才能、あるいは詩のきらめきともいうべきものを見せてくれていた人々が、長い作歌経歴の上にいつからかそのきらめを失っていく例が少数とはいえない。それは人ごとではなく、わたし自身についても絶えず振り返っていかなければならないことなのであろう。 ひつとは生活を負う、その単調な繰り返しの中にいつか磨耗させていくものともいえる。男は家庭を持ち、家族を育てるために仕事を持ち、仕事の日常の中で自らを鬱屈させ自らをすり減らし、ないし自らを常凡な位置に置き、やがて詩であるものを見失っていく。女も同様である。結婚し育児に追われ、さらに日常の常凡に追われ、感動のなに鈍い眼をしただけの主婦ないしは母親となっていく。少なくともそのことを自覚せず過ぎゆく場合、作りつづけようとする短歌もまた何かを失ってゆく。 だが、わたしたちは多く、そのようにして生きなければならず、よほどの特殊な生を生きるひとでないかぎり、世間ともいうべき荒涼とした世界の中に人生の或る時期必ず歩み入っていかなければならない。その中でもし歌を作りつづけるとしたら何なのか。もし歌をすり減らさないとしたならどうすることなのか、絶えず自らに問い重ねていなければならない。 それには、かぎりもない生活の日常への埋没の中で、ついに見失ってはならない何かを見守りつづけていくことなのであろう。何か。自分が「詩人」であることのひそかな自覚であり自恃なのであろう。たとえどのような日常の常凡にまみれようと、皓とした一点を目守り続けることである。そのために、自らをつねに励まし、背を屈めることなく、また老いることなどなく生きることでもある。(90年9月) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.06.08 07:30:43
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